水戸洋平を見ていると陣内燕太の目指すのはこのラインなのではなかろうかと思わないでもないのだけど、結局燕太は洋平のようになれないしなる必要もないし、そもそも物語の軸足も別の場所にあるし…に落ち着いてしまう。そして多分陣内燕太が水戸洋平だったらさらは成り立たないと思うのであれでよかったんだよなあとなる。
以前フォロワーが燕太の理想は大道寺知世なのではおっしゃっていたけどそれと同じものを感じる。それはそれとして洋平の懐の広さと花道に対する情の深さは本当になんなんだろうな…直視できねえ。
水戸洋平を見ていると陣内燕太の目指すのはこのラインなのではなかろうかと思わないでもないのだけど、結局燕太は洋平のようになれないしなる必要もないし、そもそも物語の軸足も別の場所にあるし…に落ち着いてしまう。そして多分陣内燕太が水戸洋平だったらさらは成り立たないと思うのであれでよかったんだよなあとなる。
以前フォロワーが燕太の理想は大道寺知世なのではおっしゃっていたけどそれと同じものを感じる。それはそれとして洋平の懐の広さと花道に対する情の深さは本当になんなんだろうな…直視できねえ。
一週間前に二年ぶりのイベントに出て、イベントいいなあ~という気持ちになりました。
ツイッターでも何度か呟いているけれども今回出した本の元ネタ自体は三年前の兄と燕太のネタをずっとこねくり回して出来たものだったので何となくいつも以上に思い入れが深い本になりました。
お話を読むタイミングで読み手の感覚と物語に解離が生じてしまう為、ささやかなこだわりとしてあまりはっきりとした固有名詞を書いたりしないようにしているのがあるのですが、今回のお話については八皿の再演をしてほしい気持ちがあったのでかなり固有名詞をはっきり書いたり街並みも聖地巡礼をした人ならある程度把握が出来るレベルのぼかし方をしています。グーグルマップに滅茶苦茶助けられた。
私は八皿の一稀にちょっと諦めを見て浅草を出て行った久慈が好きだし、兄との会話の中で一稀と久慈とのつながりに気付いた燕太が久慈の為に一稀に怒ってくれるのが好きです。今まで一稀に嫌われたくなくて強くものを言えなかった燕太が、真っ向から一稀と対立するのあまりにも良すぎて燕悠好きなシーントップ3に入るシーンです。陣内燕太、すぐに手が出る(かわいい)
七皿の燕太の動きが久慈の排斥だったことも含めて、八皿のムーブメントがすごく好きなんだよな…燕太…可愛いな。性根がまっとうで健全な家庭で育てられたんだなを感じる。好きだ…。
八皿の再演があったので兄と燕太に町歩きさせるしどこぞの屋上で久慈の話をする。燕太は最初から兄が誰だか分かっているので久慈を見せたのはまあ普通に当てつけである。燕太、そういうところで兄とバチっててほしい。というか兄を嫌っていてほしい。
燕太と兄自身は八皿のあの時しか接点がないし、その後は久慈経由でしか兄に触れられないので燕太の知っている兄はあくまでも久慈のバイアスが掛かったものであるし、久慈のそのバイアスに関して燕太は幾分か懐疑的だと思う。自分に取っての一稀がそうであるように。でも燕太も久慈も互いに互いの大事なものを、何重にも重ねた理想と憧れのフィルターがあることを理解しているしそれを良しとしてくれているんじゃないかなあと思います。燕悠のお互いを尊重できる関係を築けそうな所が好きです。
兄と燕太の話のあれこれはやっぱり同じ相手を介した他人同士という絶妙な遠さのある距離感だから出来ることじゃないかなあと思う。どうなんだろうね。世間話で詰まってしまうほど遠いわけではないけれど直接の知り合い同士と言える程ではないけど、どちらも久慈と親密と行って差し支えのない距離に立っていて、でもお互いが知る久慈は相手が知らない久慈なので一致するわけではない。そういう距離感。
兄は久慈には言えないこと沢山あるけど他人だから燕太には言えるんだよな、みたいなのいっぱいあると思う。行きずりの知らん男に重い話をするな。
2022年の時点でもうスマートボール屋は建物も取り壊されて更地になっていて痕跡は最早ないのだけれど、二人が再会するとしたらスマートボール屋以外にはないと思っていたので燕太と兄の二度目の遭遇はああいう形になりました。
1、2本目の話が18歳くらいのイメージで、3本目の話は21歳なのだけれども、14歳から数えるとやっぱり7年は滅茶苦茶長いな…と思いました。メガネ坊主がメガネの兄ちゃんになれるくらいには。
燕太が兄のことを話してからのくだりは書きたかったものを殆どかけたのだけれども、当初プロットで組んでいた画角では燕太は二人を遠くから見ている形だったけれどもそうすると燕太が物語を語れなくなるので久慈の隣に配置し直したりはしている。でも結果としてそれで良かったかなあと思う。
久慈は一人でも兄と向き合えたと思うけど自分にとって“今自分が望んで選んだ人”が隣にいるのは純粋に心強いと思う。さら後半の久慈の選択がどちらかというと消極的に見えていたから尚更。
私は自立、依存からの脱却が好きなので久慈は兄を選ばないし他人と他人の形で燕太と一緒に浅草にいることを選んでほしい、これは願望の話。燕悠なので多少はね。
燕悠において燕太は恋愛感情かそれに類する意味で一稀が好きだけど久慈は別に恋愛感情なく兄のことが好きであってほしいというか引きずっててほしいしそれが燕太→一稀へのある種の恋も含んだ感情と同じくらいにはじっとり重くて面倒臭いものだといいなと思ったりする。
重たいというのは割り切るのが上手くいかないとかずっとずるずる引きずりがちとかそういう、久慈がじめじめしながらずっと握りしめ続けている感情の一つに兄への思慕があったらいいなと思う。愛情や恋は分かりやすく明瞭で、どんなものであれそこに強い執着が混ざるというのは理解されやすいもので、それに比べると兄弟の情はもう少し希薄なのではないかと(一般に)捉えられがちなんじゃないかなと言うかそれが情念と同じ重さを持って燕太の一稀への感情と並ぶのは可愛いなって思う。というか恋とかそういうもので括れるくらいに単純だったら良いのにねみたいなところもあるわけで。
形容しがたい曖昧模糊とした感情を抱えている久慈にそれは恋だったのかと尋ねて違うと答えられて、でもやっぱり恋するみたい重たく後に引きずるものであるということに少し思うところがあってほしい。
私の信仰に関わるので久慈兄弟の間には何もないです。
「あなたのことを恋愛の意味で好き。だけどそれとは別の感情で兄のことはずっと好き」をどうしたら形容できるのかなというのはぼんやり考えている。好きの形も愛の種類も沢山あってそれらは並列であっても許されると思っているので、恋愛感情、特別な友情という意味の愛しい人と、兄弟愛、肉親への慕情という意味での愛しい人が並んであることを許されてほしいなと思う。
夜が終わるまで側にいてのプロットをそっと投げておく。
これと対になる燕太の話も書きたい気持ちはあるので冬が終わるまでには書き上げたいね…兄の墓参りにいく燕悠の話も冬の話なのでこっちも冬の間に書いてしまいたい…。
小説読もうと思ったのは既に読了済みのお友達から小説掲載されてる6話までの話を聞いて、幾つか浮かんだ疑問に対して逐一相手に訊ねるのも申し訳なかったので。
読んだ上での全体の総括としてはあの小説だけだと圧倒的に詳細が不足しているというか出来事に対するディテールは殆どないからアニメとのギャップがすごい。ただ、誰がどこで何を言ったか、何をしているのかに関しては端的に書かれているのでアニメに対する副読本として扱う分には丁度いいなと思った。2話で玲央と真武が踊り狂っている後ろで一体なにが起きているのかとか。