おやすみからおはようまで

 かりかりと、それまでひっきりなしに聞こえていたペンの音が不意にぴたりと止んだ。その音と合わせて澱みなく一定のリズムを刻んでいた紙を捲る音も途絶えたのを不思議に思い、わたしはふと顔を上げてフライデーの方を見る。
 カーテンを閉め切った部屋は薄暗く、赤く燃えるランプの明かりだけが頼りであった。そびえる本棚と部屋の一角を占める大柄な解析機関の為に、ただでさえ広いわけでもない部屋は一層圧迫感を増し、ついでに部屋の隅にランプの光が届かない陰を作っていて、わたしは何とも言えない息苦しさを募らせた。
 狭く薄暗い部屋の中で一際明るいのは家主であるフライデーが座する机だが、生憎と彼はわたしに背を向けているため何をしているのかは分からない。
 そもそもカーテンなどなくても部屋の外は真っ暗な時間である。ポケットに入れっぱなしの懐中時計で確認すれば、時刻はとうに深夜を回って二時を指している。こちこちと秒刻みに進む時計の針の音だけが部屋に満ち、その秒針が五回ほど周回を果たしたところでようやくフライデーはわたしに振り向いた。
「ワトソン」
「……なんだ?」
 どうかしたのか。
 投げるように手を離したペンが机に転がる微かな音が思いの外大きく響いて耳に届く。
 体ごと後ろへと振り向いてわたしを呼ぶその声はどこか期待に満ちているようにも聞こえ、こういった時のフライデーが言いだすことは往々にしてろくなことではないと経験から知っているわたしは内心身構える。はたして今日はどのような無理難題を言いつけられるのだろうか。
 研究の為にどこぞの墓場から屍体でも拾ってこようだとか、大学教授の目を盗みパンチカードを少々拝借してみようだとか、そろそろ廃棄されるだろう使い物にならなさそうな船曳の屍者を一体借りて解剖でもしてみようだとか。それらは勿論無断で無許可で違法なものだ。過去にわたしに言い渡された、或いは提案された数々のおぞましい思いつきが一瞬にしてわたしの脳裏を過ぎ去って、半ば戦々恐々としながらフライデーの側に寄る。
 しかしわたしの密かな覚悟なんていうものはフライデーの無遠慮な行動によってあっという間に脆くも崩れ去った。
 突き出された二本の腕がわたしの頭を拘束し、そのまま思い切り撫で回される。
「う……わ?! 何をするんだいきなり!」
 あまりにも想定外の行動に思わず素っ頓狂な声を出して反射的に身を引こうとするものの、意外にも腕の拘束は強く逃げることもままならない。
「あっ、おいこら暴れるな!」
 対するフライデーはと言えばわたしの正当な反応を一言で詰り、わたしの頭を掻き撫でる手をますます激しくするのだから困ったものだ。
 フライデーの突然の奇行、或いは突拍子もない言動なんていうのは今に始まったことではない。だがしかし、不意を突かれれば誰だって驚くのが当然だろうし、暴れるなと言われたところで大人しくしていればわたしの髪はぐちゃぐちゃのぼさぼさにされてしまうことも明白だった。
 どうにかしてフライデーの腕から逃れようともがくものの、彼とわたしの体力差や体格の差を考えると力尽くで引きはがすのには気が引ける。だというのに当のフライデーはそのようなわたしの気遣いなどつゆ知らず、どんどんとわたしをもみくちゃにする。彼の薄っぺたな手のひらがわたしの顔の上を滑り、やや硬いわたしの髪に指を絡ませながら掻き混ぜる。だが肌の上を滑るだけのやわい接触に心をとろかす余裕もなく、ともすれば伸びかけた爪が目尻を掠めてわたしの目に入りそうになるのには閉口した。そろそろ爪を切れと忠告するべきだろうか、それとも有無を言わさずわたしが彼の爪を整えた方が二度手間にならなくていいのかもしれない。
 そんなことを考えながらわたしは抵抗を諦めて大人しく彼のなすがままにされることにした。下手に暴れてうっかり目に爪が入りました、なんてことになったら笑えないからである。
 決して、平素過剰な接触を嫌う節のあるフライデーの方からべたべたと触ってくるのが嬉しいからなんていう理由ではない。
「ワトソン、ワトソン。ジョン」
「……なんだ」
 意味もなくわたしの名前を呼んで気を引こうとするフライデーに、彼の望み通りに答えてやれば明るい紫の瞳をきゅうと細めてフライデーは実に楽しそうな顔をする。まともな時であれば絶対に見せないような顔であり、つまり今のフライデーはまともな状態ではないということだ。
 そうしてわたしを撫で回すフライデーの手が普段の彼に比べて熱く、まるで子供の体温のようだということにわたしは気がついた。言い換えるのであれば眠る直前の体温にも通じる。
 そういえばここ数日間、フライデーの眠っている姿を見ていないということに思い至る。一、二、三日――その日数を数えたところでわたしはそれ以上考えることを放棄した。
 よくよくフライデーの顔を覗き込めば、色白ということを差し引いてもなお白い肌は青ざめているといった方が正しいし、大きな目の下にはべったりと青黒いくままでできている。いかにも徹夜続きといったような疲れきった様相と、突然の奇行、そして子供じみた熱い体温が導き出すのは一体何か。
 無論、フライデーの睡眠であり、その希求に対してわたしは少しだけ覚悟を決めておく。
 元々大して体力があるというわけでもないのにフライデーは根を詰めて無理をすることが多い。目の前で眠りこけてくれるならば可愛い方で、わたしが大学の講義を終えた放課後に彼の研究室にやってきたら、まるで行き倒れの如く床の上に転がっていたこともある。無理がたたった時のフライデーの入眠は大体において唐突過ぎるのだ。まるで螺子の切れたぜんまい仕掛けの人形のように、ある時ぷっつりと全ての行動を止めてそのまま突っ伏す。机に、床に。わたしが別の作業の為によそ見をしていたら、眠りに落ちたフライデーが派手な音と友に椅子から転げ落ちていて胃の腑が冷たくなったことも一度や二度ではなかった。
 しかしわたしのそんな胸の内の心配などこれっぽっちも分かっていないフライデーはまるで犬か何かのようにわたしを撫でくりまわして実に楽しそうである。
 今日は大人しいな。いい子だ、ジョン。だなんて、いつもならばナイフのように鋭い切れ味を誇る舌鋒も今ばかりはなりをひそめて、どこか子供じみて舌足らずに脳天気なことを口にする。
 犬のような扱いを受けるというのには思うところもあるものの、あのフライデーがおおよそ人前では見せるようなことのない、緩みきった顔をして実に楽しそうに自分のことを撫で回してくるのだから、それを無碍にすることなんてわたしには到底できなかった。誓ってそこに下心というものがあるわけではない。いや、わたしとて男なのだから少しばかりはあるかもしれないが、それを無理に押し通すつもりはなく、黙って彼の好きなようにされること十分ほど、ようやく気が済んだらしいフライデーは満足げにわたしを一瞥した後、おもむろに口を開いた。
「ねむい」
 それを言い終わるのが先だったか、それとも彼の体が傾くのが先だったか。
 淡い金色の頭がぐらりと揺れて、そのまま床に激突しそうになるのだからわたしはぼさぼさにされた頭を直す暇もなく腕を伸ばしてフライデーを抱き留め、小さく溜息をつく。
 酒に飲まれた酔っ払い然り、人間誰しも限界を越えると色々とおかしくなるもので、大体において三日以上の夜を不眠不休で越えた頃からフライデーの頭の螺子が緩むことを、浅からぬ経験からわたしはよく知っていた。何せその被害者は他ならぬわたしであることが九割なのだから嫌でも理解するというものだろう。
 そして、そういったときのわたしの役目は眠りの世界に落ちたフライデーを安全と健康の為にもベッドへと送り届けることだ。
 華奢な見た目通りに軽い、けれども確かに中身が詰まっているのが分かる体を抱えあげてベッドへと運ぶ。人間、慣れというのは実に恐ろしいものであり、最初は小柄とはいえども同世代の男を抱えて運ぶのにも一苦労であったはずが、度重なるこのような事態に自然と体は鍛えられ、今ではフライデーの運搬も難なく可能となっている。はたしてこれは喜ぶべきなのか、それとも嘆くべきなのだろうか。何にせよ、我が身の適応能力を見ていると人間の進化という言葉が脳裏に浮かんで仕方がない。
 深夜を回ったわたしの頭もフライデーのことを言えないくらいには支離滅裂となっているらしい。とりとめもないことばかりが浮かんでは消えていくのを軽く頭を振って振り払い、改めてフライデーを抱え直してから狭いアパートの一角を占めるベッドへと彼を運んだ。
 足下に丸まったブランケットをよけながら、寝起きのままだと分かる皺の寄ったシーツの上にフライデーを寝かせて、一つ一つボタンを外してブーツを脱がせた後、皺になる前にジャケットをはぎ取り、タイを外す。
 過ぎる程に厳重に、いつもきっちりと着込んでいるフライデーの服を脱がせるというのは、例えそこによこしまな思いがなくとも何とはなしによからぬ妄想を掻き立てられ、つい生唾を飲み込む羽目になる。
 寝苦しくならないようにとシャツのボタンをひとつふたつ緩めた先に見える細い喉に浮かぶ喉仏はフライデーのなけなしの男性性を示しているようでもあり、その下に見える鎖骨の窪みはきめ細やかな肌と相まって思わず口付けたくなる程になまめかしい。
 わたしの心情など何も知らずにくうくうと寝息を立てて気持ちよさそうに眠るフライデーの寝顔は実にあどけないものである。日頃のような、他人を寄せ付けないややシニカルな表情など今は面影もなく、生来の童顔と相まってまるで無垢な子供のようにすら見えた。
 大学においてはどこか他人を見下したような、他の人間と一線を引いて距離をとるような、時には不機嫌さすら滲むような顔をすることが多いフライデーであるが、わたしと二人きりの研究室にこもっている時には楽しそうな顔を見せることもある。だが、やはり人間は寝ている時が一番無防備なものであり、一切取り繕うことのない安らいだ寝顔を見るたびにそれまでに受けた理不尽な仕打ちに対する腹立ちは萎えてしぼみ、そのかわりに庇護欲だとか或いは愛欲だとか、様々な感情が芽生えるものだ。
 正直なことをいうと、わたしは深夜のこの時間を少なからず好ましく思っていた。勿論、放っておくとどこまでも無理をして、限界を越えた瞬間にぷっつりと糸が切れるかのように倒れるフライデーを心配に思う気持ちは多分にあるが、ここまでして世話を焼くのは決してそれだけが理由でないことをわたしは自覚している。
 結局のところ、わたしはどうしようもなくフライデーが好きで、他の誰も知らない彼の寝顔をわたしが独り占めできることが嬉しいのだ。
 静けさに満ちた部屋には時を刻む秒針の音と、フライデーの規則正しい寝息が微かに響くだけである。深夜ともなれば外の通りも静まり返り、誰一人通るもののいないロンドンの街は闇と静寂に包まれる。日々吐き出される蒸気と煙によって濁った空は暗く、月明かりも曖昧な暗い街の中で明かりを灯し、まるで人形かそれとも屍者の如く静かに眠る親友兼恋人の顔を眺める。
 これ以上の楽しみが一体どこにあるだろうか。
 世界にただ一人残されたような静寂の中、密やかに過ぎていくこの時間がわたしはとても好きだった。
 緩やかに上下する薄い胸、子供らしい柔らかさを残した瑞々しい唇。揺れるランプの火に合わせて微かに震える睫の影に、どこまでもなめらかにまろい頬。生きている屍体のようだと矛盾した言葉が頭に浮かび、詩的にすぎる感想に我ながら気障な言い回しだと苦笑する。
 力なく投げ出された腕をとりそこに宿る温もりと鼓動を確認した後、ひとつあくびをこぼしてわたしも眠ることにした。
 狭い部屋の中にあるベッドはフライデーの眠るものだけで、この窮屈なシングルベッドにわたしもお邪魔する。相手は小柄な方とはいえ、男二人で共有するにはシングルのベッドでは些か狭く、わたしがそう感じるのだからフライデーも同じことを思っていてもおかしくはないのだが、不思議と彼の口からそのことに関する不満は聞いたことがない。
 とどのつまりはそういうこと、なのだろう。
 フライデーが不満を言いだすまでは自分に都合のいい解釈をしながら、わたしはフライデーのベッドに潜り込み、すぐ隣に見えるフライデーをじっと見つめる。
 眠気はすぐそこまで来ているが、今すぐ寝るには少しばかり意識がはっきりとしすぎている。
 穏やかに眠るフライデーの呼吸に自分のそれを合わせ、ぼんやりとフライデーを眺めていればやがて睡魔が緩やかに身を包み、わたしは抗うことなく目を閉じた。
「……おやすみ、フライデー」
 はたしてわたしの声は彼の耳に届いただろうか。どうせ届いたところで彼は夢の中なのだろうから何も分からないだろうけれども。
 明日目が覚めたフライデーはきっとわたしを見下ろして、しばらくぼんやりと時間を過ごした後にぽつりと一言こう言うだろう。
 おはよう、ワトソン。
 その一言を楽しみにして、わたしは今日という一日を終えることにする。