美しいこども

 誰にでも“人には言えない”自分だけの記憶というものがある。かくいうわたしも同様だ。
 平素は大学で教鞭を執っているわたしは、その年の夏とある貴族の別荘にいた。大学は夏の長期休暇に入り、暇を持て余していたわたしはその家の家庭教師として招かれたのだ。
 その家には子供が二人。それなりに賢しそうな少年と、少女めいて美しい顔をした、こちらも少年の兄弟だった。
 わたしが主としてものを教えるのは賢しそうな少年――兄の方であったが、気むずかしいのは下の子供の方らしく、わたしも屋敷にやってきてすぐに、その年の子供にしては小難しい問題について答えをねだられたがやり過ごし、どうやらわたしは彼に気に入られたようだった。
 午前は二人の兄弟に学問を教え、午後になると庭の散歩や近くの森への散策にも出かけた。いわゆる課外授業というやつだ。兄の方は見た目通りに利発であったが、弟の方は兄にくっついて学んでいた為なのか兄と同程度、否やそれ以上の聡明さを見せてわたしを驚かせた。
 幼いながらに早熟な弟は兄の目を盗んではたびたびわたしにだけ兄が未だ解けない問題の答えを耳打ちし、正しく答えられたそれをわたしが褒めてやるとくすぐったそうに笑っていた。
 そうしてわたしがこの屋敷に招かれて十日が経った頃、兄の方が夏風邪にかかった。
 どうやら前日に近くの川まで出向いて水遊びをしたのが祟ったらしい。その割には弟の方はけろりとしていて、兄が寝込んでいるのをいいことにわたしを独り占めできると思ったらしい。実際に兄弟への授業も一時中断する羽目になってわたしも退屈をしていたので、普段は兄を立ててか露骨にわたしに寄ってくることのない弟の相手をすることにした。
「先生」
 先生はいつまでここにいてくれますか。夏の間ずっといますか。
 勝ち気そうな菫色の瞳が上目遣いにわたしを見上げ、わたしが夏の間はここにいると答えれば嬉しそうな顔をする。先生、一緒に図鑑を見ましょう。先生、このご本を読んで下さい。兄さんの前で頼むと怒られるから。先生、せんせい。
 無邪気に擦り寄ってくる子供は見目の美しさもさることながら無心にわたしを求めてくる姿がいとけなく、わたしはつい彼を甘やかしてしまった。後になって思えば、そもそもこれが最初の過ちだったのだろう。
 兄の夏風邪が快癒するまでの数日間、わたしは弟の勉強を見てやるという名目で二人きりで勉強室に籠もっていた。とはいえ、決して人に言えないようなことをしていたわけではない。少なくとも、この時はまだわたしにも理性というものがあった。
 ただ弟にねだられるがままに話をし、本を読み聞かせ、兄よりも先のところまで勉強を進めた。しかし弟の方はわたしに懐き、最初は遠慮がちに隣に座る程度だったのがいつの間にかわたしの膝の上が彼の定位置となっていた。
 わたしの太腿の上に彼の細い足がまたがり、わたしの体に薄い背中を預ける。丸みを帯びた形のよい頭から流れるようなラインを描いて細いうなじが続いていく。子供の割には少しばかり低めの体温と日に焼けずに色の白いまま肌、何より無邪気にわたしに甘える子供の態度にわたしが並々ならぬ感情を覚えたことはここで白状しておこう。
 わたしの手を握る小さな手のひら、桜貝のように染まった爪先。年端もいかぬ子供だというのにその少年はえもいわれぬなまめかしい雰囲気を纏っていた。無邪気さのなかに潜む妖艶さはもしかしたら彼の持つ早熟した精神のたまものだったのかもしれない。
 わたしがただならぬ感情を少年に抱き、同時にそのような感情を覚えた自分自身におそれを覚え始めた頃、兄の夏風邪は完治し、勉強室は二人のものから元の三人のものとなった。更に言うのであれば、その頃を境に弟はわたしに近づくのをやめ、元の家庭教師とその教え子の立ち位置に戻りつつあったのだ。
 故にわたしは油断していたのかもしれない。
 それから更に日が経ち、夏の休暇もそろそろ終わりが見えてきたある日、弟の姿が不意に消えた。
 家人によれば元々弟は気まぐれな性質で、それまでにやってきた家庭教師は大抵困らせてきたし、こうして姿を消すことも頻繁にあり、それでも日が暮れる頃にはどこからかふらりと戻ってくるものだという。彼の両親も、使用人たちも特に心配した様子は見せず、寧ろ今日まで大人しかったなんて初めてのことだなどとのたまうのだからわたしは信じられず、自分一人だけでも探しに行くと他のものの制止も聞かず弟を探しに出た。
 この頃には既に分かってきたことであったが、美しすぎる彼の弟は実のところ夫人の実子ではなく、夫が別の女性に産ませた庶子らしい。実の母親は若くして亡くなり、残された子供は母親に似て優れた美貌の持ち主であった為に彼女の面影を求めた夫が引き取ったということだ。
 そのため弟の立場はこの家において実に微妙なものらしく、両親や使用人が彼をあまり気にしていないのも、彼が気むずかしい一面を持ちこうしてたびたび人を困らせるようなことをするのもどうやらそういった理由によるものだという。恐らくは、わたしに懐いたのもわたしがそのような事情を知らなかったために兄弟を平等に扱っていたからなのだろう。
 先生、せんせい。と甘えを含んだ、変声期前の少年の声が耳の奥でこだまする。
 先生はおれと兄さんとどちらの方が好きですか。
 その質問はわたしを何より困らせた。彼の兄の夏風邪が治り、明日からはまた元通り授業ができるようになると告げられた日のことだった。その時わたしはどちらも同じくらい大事な生徒だと答えた。それ以外にわたしに答えは与えられておらずどちらかの子供だけを贔屓するのは許されてはいなかった。
 わたしの模範的で無難な答えに彼は落胆したような顔をして、そして次の日三人に戻った勉強室では再びわたしと距離をおいて座るようになった。
 だというのにわたしは、わたしの膝に乗った少年の重みを忘れられないままでいる。
 屋敷中の部屋という部屋をくまなく探し、庭の中で彼が気に入っている場所も全て探した。森の近くの小屋を訪ね、管理人に子供が通らなかったとも尋ねたし、別荘の裏手にある物置も覗いた。しかし少年の姿はどこにもなく、わたしは失意のまま別荘へと戻ってきた。
 このままあの子供が見当たらなかったらどうしようかと頭を抱えながら自分の部屋に戻ると、そこに探していた弟がちんまりとベッドの上に座っていた。
「先生、おれがいなくなって心配した?」
「……心配したとも」
 悪戯っぽく笑いながら問いかける子供に、できる限り怒りを抑えてわたしは答える。その答えは彼を満足させるものであったらしく、幼くも美しい顔が嬉しそうに破顔する。
「じゃあ、おれと兄さんとどっちが好き?」
「……」
 無邪気に発せられた質問はいつかにされたものと同じだ。
 期待に満ちた菫色の瞳が輝きを内包してわたしを見つめる。
「もちろん、きみだ」
 その瞳に、わたしは折れた。
 わたしはあの時に思っても言えなかったことをやっと口にした。そして部屋のドアを閉め、鍵をかける。
 少年はその答えにも満足したように鷹揚に頷き、そしてまた口を開く。
「先生はおれのどこが好きなの」
 そうわたしに問い質しながら、少年はするりと自分の首に巻かれたタイをほどく。柔らかな布で仕立てられたセーラーカラーがその動きに合わせて微かに揺れた。まるで獲物を定める猫のように、つややかなピンクの唇を赤い舌先が舐め、わたしがそれに堪えきれずに目を伏せれば膝上の丈のズボンから伸びる、未成熟でいながらも発達途中のほっそりとした脚がこれ見よがしに組まれるのが視界の端に映った。
「せんせい」
 おれをどんな目で見ているの。
 変声期前のその声は独特のボーイソプラノをしていて、しかし女のそれよりも強くわたしに絡みつく。
 美しい子供がわたしの目の前にいる。これ以上ないほど蠱惑的な子供が。まるで魔性のように、わたしを誘惑してくる。それをわたしはなけなしの理性で必至に堪え、何か、もっともらしいことをいって子供を追い出さなければならないと模索していた。
 何か、何か。適当な理由をつけてこの子供を部屋の外に追い出さなければならない。そうしなければわたしは、わたしは――。
「おれも好きだよ」
 ねえ、先生。
 気がつけば子供はわたしの目の前に立っていた。
 わたしを誘惑するその魔性にわたしはとうとう陥落し、少年の前に跪く。
 そのまま差し出された彼の左手をとりうやうやしく口付けを贈った瞬間、ついにわたしの箍ははじけ飛んだ。
 左手。彼がわたしの手を握った手のひら。その手に口付けを贈る。
 わたしはずっとこうしたかった。彼をこのようにしたかった。
 その華奢な体を抱きすくめる。少年の白く細い首を伝い落ち、鎖骨の小さな窪みに落ち着いたひとしずくの汗を舐めとり、そのまま隆起もない滑らかな喉に唇を寄せた。さらさらと子供の細い髪が揺れる音がする。子供の小さな口からは微かに咽ぶようなか細い声が聞こえるたびに、触れた喉に微かな震えが伝わる。その震えが、わたしの脳髄を痺れさせた。
 わたしは夢中で彼のシャツをたくし上げ、しみ一つない柔らかで薄い肌の上に手を這わせる。
 未だ細く成長しきらない背骨の凹凸、彼がのけぞるたびに浮く肩胛骨、中に詰まった内臓の柔らかさも、あばら骨の硬さも全てをわたしは手のひらから感じとっていた。わたしの手は徐々に下へ下へとさがり、今度はどこもかしこも細い少年の体の中で辛うじて肉付きがよく柔らかい尻臀や太腿を撫で、揉みしだいていた。後になって思えばそのような姿を見られたら最後、わたしは破滅していただろう。しかし不幸にもわたしの部屋には誰もやってくる気配はなく、ここに姿を消していた弟がいることも誰も知らなかった。
 だが得てして、終わりは唐突にやってくるものだ。
「――っ!」
 わたしの性急な動きに耐えられなくなったのだろう。子供は声なき悲鳴を上げてわたしの腕の中で震えた。
 そこにあったのは怯えなのかそれとも快楽なのかをわたしは知らない。それを確かめるのが恐ろしかった。
 わたしによって震える子供を実感したとき、わたしは急に冷水を浴びせられたような心地になり、それまで淫らな情動に突き動かされるままだった自分を理性でもって律し、何とか少年と自分の間に距離をおいた。
「わたしは君のことを大事に思っている。だが、それ故にこんなことはしてはいけないよ」
「……」
 今更まともな良識人ぶったところでわたしが幼子に手を出そうとしたことには変わりない。
 わたしを見上げる子供の澄んだ菫色の瞳はあっという間に精彩を欠き、そしてわたしを失望したかのような目で一瞥した後、彼は床に落としたタイを拾って出ていってしまった。
 それが、わたしが見た彼の最後の姿だ。
 翌日、わたしは雇い主である彼の父親に、どうしても大学へ戻らなければならない用事ができたと無理を言って予定を繰り上げ大学へと戻ってきた。子供、それも同性の子供に手を出してしまった以上、わたしはあの家にいる資格はなかったし、同時に彼と顔を合わせて冷静でいられる自信もなかった。
 卑怯な真似とは分かっていても、一刻も早くわたしはあの場所から離れてほとぼりが冷めるのを待つより他になかったのだ。
 しかし、わたしが恐れていたのとは裏腹に、彼の子供のことに関してわたしが咎められることもなく、秋が始まってしばらくした後に旦那の方から感謝の手紙と共に給料が支払われたのみであり、それ以来何の音沙汰もない。
 その一夏の記憶は今なお苦々しく、しかしどこか鮮烈な甘美さをも伴って時折わたしの胸を掻き乱す。