きみはわたしの親友だった 下 - 1/14

 フライデーがわたしに自身と研究室の秘密を打ち明けてから、ひいてはわたしが彼の助手となってから特別な変化がわたしたちの身の上に起きた。なんていうことは全くなかった。
 当然といえば当然の話で、フライデーの抱えた秘密は表沙汰にできる類いのものではなく、また、誰彼構わず言いふらすようなものでもない。
 わたしたちの間に生じた変化といえば精々、大学で講義を受けた放課後に落ち合う場所が大学の図書室からフライデーの研究室に変わったことくらいだろう。
 全ての講義を終えた後どんなにわたしが急いで彼の研究室に走っても、フライデーは常に悠然とわたしを待ち構えていた。
 屍者関連の書物や論文の束や、或いは彼が書き散らしたとりとめのない言葉が綴られた紙が机の上といわず周りといわず山と積み重ねられた中心で、フライデーは涼しい顔をしてわたしを出迎える。とどのつまり、そういうことだ。
 フライデーは相変わらず講義にもろくに出席しない問題ばかりの劣等生であり、わたしは品行方正な首席として通っている。表向きという理由であれば多少はそれらしく見えるかもしれないが、現実はそう可愛いものではない。
 フライデーは大学の成績に特段の興味を持っていないようで、落第せずに進級、卒業ができればそれでいいと考えているらしい。彼の口からそれを直接聞いたことこそないが、大学におけるフライデーの態度はどう見てもやる気のないものであり、彼がわたしを引きずり降ろして首席の座に返り咲くつもりが毛頭ないことは明白だった。
 とはいえフライデーは成績に興味がないというだけで、彼の頭脳は決して粗末なものではない。寧ろフライデーは同世代の人間の中でも群を抜いて頭がよかった。
 小ぶりの頭の中には百科事典もかくやといったレベルに知識が詰め込まれており、なおかつそれを腐らせることなく応用、発展させて自身の理論を展開していく。
 正直なところわたしはフライデーには何一つ敵いはしない。膨大なまでの知識量も、それを無駄なく生かすだけの発想力も、数多の理論を無理なく成立させる為の裏打ちも何もできない。
 フライデーは正真正銘本物の天才であり、彼を前にするとわたしは自分が凡人に毛が生えた程度の人間だということを痛感させられる。
 そんなフライデーであるからこそ、彼が自ら望んで劣等生の立場に甘んじている以上、わたしはそのことに口出しはできないと理解してなおもどかしさを感じるのは否めない。宝の持ち腐れとはまさにこのことであると思うのだが、親切心から忠告したところで心底嫌そうな顔と共に舌打ちされるというのは既に経験済みであった。
 そのときわたしを見たフライデーの軽蔑と呆れに染まった目を忘れられず、わたしはそれ以降フライデーに苦言を呈することができないでいる。しかし自ら道化じみた劣等生の座に甘んじているフライデーを見ると、言葉にならない歯がゆさを覚えるのもまた事実だ。
 フライデーの研究室に通うようになってから分かったことだが、フライデーは基本的に真面目で勤勉な性格をしている。
 大学では怠惰な一面しか見たことがなかったが、自身の求める研究に対してフライデーはこの上なく誠実で真摯だった。
 研究のために日夜膨大な資料を漁り、論文を掘り返し、形のよい頭蓋に収まった脳は常にフル回転している。それを真面目と言わずして何と言えばいいのか。
 類い希なる天才としての才覚と共に、研究に対するひたむきな態度を見るたびに、わたしはせめてこの十分の一でもいいからそのひたむきさ、勤勉さを大学の講義に向けてくれやしないだろうかと思ってならない。
 それだけで彼に対する周囲の目は大きく変わると思うのだが当の本人がそういったことに対して微塵も関心がないのだから、わたしはいつか何らかの気まぐれでフライデーが真面目に大学の講義を受けてくれるようになることを祈るばかりだ。
 このことばかりはわたしだけがフライデーの本当の姿を知っている優越よりも、彼のことを正しく評価されない不満の方に軍配が上がる。
 フライデーに対する大学の、教授や学生たちの評価は彼の本来の姿を知らないが故の不当なものだと思えども、そのことを知っているのはわたしだけであり、なおかつそれは気軽に吹聴できない研究と密接に結びついている。故にわたしはただくすぶる不満を飲み込みながら、研究にいそしむフライデーを見守り、あるかも分からない奇蹟が起こることを願うことしかできないでいる。
 そのくせ、フライデーの方はわたしが首席から退くような真似はするなと気軽に言うのだから実に不公平だ。
 俺のパートナーでありたいなら優秀であることを証明しろ。なんて言われてしまえばわたしに抵抗の余地はない。せめて、それなら君ももう少し真面目に講義を受けたらどうかと言ってやりたいところであるが、研究の主導はフライデーにあって、わたしはただの助手でしかない。
 フライデーがわたしに嫌気が差したらわたしをこの研究から放逐することは可能であるが、その逆はあり得ない。
 わたしに野心があれば彼の研究を乗っ取ることも考えたのだろうが、生憎わたしが興味あるのはフライデー本人である。
 フライデーの求める魂の研究は確かに興味深いものではあるが、本人を押しのけてまでのめり込むという程のものではない。そのためわたしはフライデーを主として研究に従事する助手でいる為にも大学では優秀な学生であるよう努めている。
 事実首席の座は未だわたしの下にあるのだから、優秀と言っても過言ではないはずだ。
 だが求められたことに応じるのは多少優秀な人間であれば誰だってできる。その上で更に自身の評価を上げたいのなら彼が望む以上の成果や結果を打ち出さねばフライデーには認められない。
 そもそも、フライデーとわたしでは屍者に関する知識の量が圧倒的に違う為、まずはこの差を埋めるところから始めなければならなかった。年期が違うのだから当然だと言われてしまえばそれまでなのだろうが、頭の回転や発想の類いは一朝一夕でどうにかなるようなものではない。しかし知識ならば日々の努力で補強することができる。
 屍者技術は日進月歩だ。今日更新された最新型のネクロウェアが三ヶ月もすれば重ねた更新によって過去の遺物となっているなんてことは日常茶飯事である。
 それにリアルタイムで追いつくことができなくても、後追いを続ければやがては〝今〟に辿りつく。そうでなくとも現在の技術は全て過去、先人たちの理論、検証、実験の上に成立しているものであり、一足飛びに現状を詰め込んだところで基礎となる部分がすっぽり抜けてしまっていては意味がない。
 大学の講義でも屍者技術について、或いは屍者というものの歴史について学ぶ機会はあるにせよ、それはあくまでも多くの学生たちに向けられた一般的なものでしかなく、フライデーが持ち合わせているような専門的なものには甚だ程遠い。
 もしも大学でそういったことを学びたいのならば、進路希望は外科医ではなく屍者技術者に転向するべきだろう。
 要するに大学の講義だけではフライデーに追いつくことは不可能であり、彼と自身の距離を少しでも縮める為にもわたしは独学で屍者について学ぶ必要があった。
 何故それをフライデーに伝えて教えを請わないのか。そうした方が彼もわたしの力量を把握でき、わたしの知識も増えて双方にとっていいことづくめなはずだという意見もあるだろうが、こればかりはわたしの見栄である。
 そう言えたのならばどれほど良かっただろうか。
 実際のところ、わたしがフライデーに教えを請わない理由は見栄を張るなんていう可愛らしいものではない。寧ろ真逆で、フライデーにわたしの弱みを見せることへの恐れからだった。
 わたしとて馬鹿ではないのだから、フライデーに比べれば自分の能力など遙かに劣ることは自覚している。
 けれどフライデーがどこまでわたしのことを把握しているのか分からない以上、わたしは自分の不出来を彼の前に露呈したくはなかった。
 フライデーがわたしをどのように見ているのか、元は自らの研究に招くつもりであったのだからそれなりに優秀であると見積もってはいたのだろうが、フライデーの求める理想にわたしが届いていなかった場合、わたしは彼から見限られるのではないか。
 フライデーがわたしに求めているのは優秀な助手としての能力であり、その求めに応じられなければわたしは一体どうなるのだろう。或いは仮にフライデーがわたしの能力を低く見積もっていたとして、それで首の皮一枚繋がったところで、所詮わたしはこんなものであると見くびられ何の期待もされていないということになるのだから、それはそれで不服を覚える。
 見限られるのも見くびられるのも、どちらもわたしの本意ではなく、フライデーの求めに応じようとするのならば彼に知られないところで努力するより他にない。しかもその目標が群を抜いた天才であるとなれば、一朝一夕の付け焼き刃などでは太刀打ちできるわけもなかった。
 フライデーを目標に掲げるには今のわたしでは力不足だ。そんなことは分かりきっている。だが、それを理由に努力を放棄することにはならないし、フライデーと並び立つくらいの気概がなければ助手として彼の役に立つということも難しい。他者をだしにした理由は甘えでしかなく、努力を怠ればフライデーはすぐさまわたしの怠慢を見抜き切り捨てるだろう。
 あれほど真摯に研究に打ち込むフライデーがその片腕にと選んだわたしの怠惰を許すとは到底思えなかった。
 要するにわたしはフライデーに捨てられるのが怖いのだ。
 わたしだけが勝ち得た、フライデーの助手という特別な居場所をわたしから取り上げる権限を持っているのは他ならぬフライデーであり、わたしの処遇は彼の心一つで決まる。
 今わたしが彼の友人――研究の助手という役割に収まっているのは偶々わたしがこの学年で一番優秀だったからに他ならず、わたしよりも優れた人間が現れたときにフライデーの興味がそちらへ向かう可能性は決して低いものではない。
 それはわたしとフライデーの、相手に対する感情の差異もあるのだろう。
 わたしが思っている程フライデーはわたしのことを思ってはくれていないし、わたしの感情はあくまでもわたし一人の一方的なものである。相互に同じだけの重さの感情を求めるのは単なるわたしの我が儘だ。
 そのような自覚があるからこそ、わたしはフライデーの目につかぬようにこっそりと屍者技術についての知識を詰め込み、屍者技術に関する研究を学ぶ。
 昼間は大学で講義を受け、放課後はフライデーの研究室に入り浸り、更に帰ってから先達が積み重ねてきた研究の数々を総ざらいして、どうにかフライデーに追いつこうと躍起になる。いわば勉強漬けの日々であった。わたしの自由時間はフライデーと屍者研究に捧げられることとなり、その時間を捻出する為にウェイクフィールドらとの付き合いは疎かになったものの、向こうは付き合いの悪くなったわたしに対して特に不満を言うようなこともなく、首席を維持するのも大変だなと肩を竦めるくらいであった。
 深く詮索しないウェイクフィールドのおおらかさに感謝しつつも、明らかに他人事だと笑っているのが見て取れるその物言いに何度言い返そうと考えたか分からない。
 しかしわたしとフライデーの繋がりも、フライデーの行っている研究も到底公言できるようなものではない。そのためわたしはくすぶる感情を飲み込み、そういうお前もうかうかしているとあっという間に成績が落ちるかもしれないぞと釘を刺す程度に留めておく。
 そうやってわたしはとにかくフライデーに追いつこうと、彼のお眼鏡に適う自分でいようと必死だったが、そのための努力を重ねるにつれてフライデーとわたしの差をまざまざと見せつけられ、打ちのめされるのだからどうしようもない。
 大学で学ぶ屍者技術などたかがしれている。学年ごとに分かれているのであれば尚更で、フライデーの研究の助けになるような知識はわたしたちの学年で学ぶ範疇にはなく、それを知りたいのであればもっと先のカリキュラムを追う必要がある。欲を言うのならば、それこそ屍者技術者を目指す人間が身につけるような専門知識が必要だが、生憎わたしはそこまでたどりつけてはいない。
 技術の育成は一朝一夕になるものではなく、屍者技術とは医学の上に成り立つものだ。
 神経、動脈、静脈、発散的血管、吸収的血管、骨、髄、軟骨、繊維、筋肉、粘膜、漿液、関節液、分泌線、皮膚、表皮、毛髪。
 膜は膜、肉は肉と分類し、人の体を構築するひとつひとつを理解して初めて、それを動かすことができる。
 医者にも届かない青二才がそれらの過程を一足飛びに飛び越えて屍者技術のみを得ようとしたところで、根本の土台がなければそれはただ屍者をメンテナンスするだけの三流の技術者と同じである。
 だからこそ、どれだけ遠回りに見えても一つ一つの知識を身につけ、それらを踏み台として更なる技術を学ばなければ屍者技術の習得は難しい。
 そのためわたしの努力と時間の大半はそこに費やされていたものの、独学で学ぶには限界があるものだ。
 もとより初歩的な知識しか持ち合わせていないわたしが教授やフライデーの解説なくして一人で全てを理解しようというのは無理があり、時間が経つにつれてわたしは自身の限界を思い知るようになった。
 積み重ねられた医学書、参考書に書かれている内容を読んでも理解できないことが増え、その不理解がより一層わたしを焦らせる。
 費やした時間、努力に見合うだけの成果を得られぬことにもどかしさを覚える反面で、それ以上の知識、技術を頭に詰め込んでいながらも、平然と更なる技術や理論の研鑽に情熱を注いでいるフライデーの涼しい顔を思い出しては自分と彼との差にうちひしがれる。
 しかしそれを嘆いたところで知識が増えるわけでもなし、わたしはどうにかしてフライデーに近づこうと悪足掻きを繰り返し、結果そのしわ寄せは睡眠時間に現れることとなった。
 昼間は大学、放課後は研究室、夜は独学。そんなサイクルで生活していたわたしに残る時間といえば睡眠しかなかったのだから致し方ない。
 だが、そんな日々を過ごして無理を続ければ当然どこかで綻びが生まれるものである。
 大変皮肉なことに、独学を続けたおかげで増えた知識によって数字の上に現れるわたしの成績、点数は以前よりも上がった。その反面で講義中に居眠りやぼんやりとして教授の話を聞いていないということが増え、総合的な評価は緩やかに下がっていく一方だ。
 幸か不幸か、わたしに目をかけてくれている大学教授は何人かいて、やんわりと注意を促されることもしばしばあった。
 だが軽い小言で大目に見てもらうにも限度というものがあり、とうとうある日セワード教授から呼び出しを食らうことになってしまった。
 二人きりの研究室で言われたのは、試験や小論文等の結果は今まで以上によくなっていること。けれど受講態度が以前に比べて悪くなっていること。
 その上セワード教授はわたしの目の下に張り付いた隈を見て、勉強に打ち込むのはいいことだが、根を詰めすぎて講義が疎かになっては意味がない。くれぐれも無理はしないようにと釘を刺してくる始末なのだから、わたしとしては立つ瀬もない。
 これまで模範的な優等生として、或いは品行方正な生徒として首席の座に立っていただけに、わざわざ呼び出しまでされて直接注意を受けるとなると自分の身の振り方を考えなければならないだろう。
 わたしの独学の目的はあくまでもフライデーの研究の為ではあるが、真実を告げることができない以上それは講義に影響を及ぼすべきではないものだ。
 しかし最早自宅と大学と研究室の往復はわたしのキャパシティを越えていて、費やせる時間は睡眠しかないのも事実であった。
 よってわたしはセワード教授の忠告に耳を傾けながらも、どうすればいいのか分からず途方に暮れた。
 自身のことを考えるのならば大学の学業を優先させねばならない。生憎とわたしはフライデーのように劣等生として振る舞ってなお平然としていられるような胆力はない。せめて大学の成績など興味がない、自分はフライデーの研究の手伝いに打ち込むと言うことができればよかったのだろうが、それができないところも含めてわたしはいたって普通の人間であった。
 かといってフライデーの研究を疎かにするような真似も許されない。
 フライデーがわたしに興味を持った最大の理由が自身の研究の助手としてであるのならば、その価値がなくなったわたしを彼はどう思うだろうか。
 友人、とフライデーはわたしを評したが、わたしたちの間に横たわるのは研究であり屍者であり、魂である。故にわたしはフライデーの言葉の全てを信じきることができず、心のどこかで疑っている。
 わたしに対する友人という評価は、結局のところ彼の研究ありきではないのかと。
 しかしそれをフライデー本人に直接問いただせるわけもなく、さりとて自身の学習で得られるものは限界を迎えつつあり、成績の方も徐々に下がってきているという、まさしく八方塞がりの状態に頭を抱えながらセワード教授の研究室を辞して家に帰ろうと大学を出た。
 こんな時ばかりは流石にフライデーの研究室に行くような気分にはなれず、ましてフライデーの顔など見たらわたしの胸に澱んだ彼への劣等感が膨れあがる一方だ。わたしだってたまには一人で考えたいこともある。
 だというのに、こういう時に限って思い通りにいかないというのが人生における定石である。
「随分長かったな」
「……」
 どうして君がここにいるんだと、思わず尋ねそうになって慌てて口を噤む。
 ここはロンドン大学で、わたしの目の前に立っている彼もロンドン大学の学生なのだから、彼がこの場にいることには何ら不思議はない。
 しかし彼は、フライデーはわたしの知る限りでは午前中にちらりと姿を見たくらいでその後は全く影も形も見なかった。
 大方さっさと帰って研究室にこもっていたのだろうと思っていたのに、どうして放課後になってかなり遅いこの時間に大学の校門に立っているのだろう。
「大分話し込んでいたようだな。待ちくたびれた」
 それも、まるでわたしを待っていたような口ぶりだ。否や、実際にわたしを待っていたのだろうが、その理由が分からない。
 疑問と困惑がない交ぜになり、沈黙するわたしをフライデーはしばらくの間じっと見つめた後、口を開く。
「大した話じゃない。歩きながらでもいいだろう」
 それだけ言うと彼はさっさとわたしをおいて歩き出すのだから、わたしはひとまず疑問を飲み込んでフライデーの小さな背中を追う羽目になる。
 待ちくたびれたと言う程度には長時間わたしを待っていたのだろうに、わたしがいることに全く斟酌しないで先を歩くフライデーを小走りで追い掛けて隣に並ぶ。或いは待ちくたびれたが故のささやかな意趣返しのつもりなのだろうか。その割にはわたしが隣に並んでも、ちらりと一瞥してきた程度で取り立てて大きな反応はない。
 夕暮れ時の街の中を二人で歩き、わたしは自分から切り出すべきか、それともフライデーが話すのを待つべきなのかを考える。そうしている内にフライデーが口火を切ったので、わたしはそれに従うことにした。
「俺はそんなに薄情に見えるか」
「……は?」
 従うつもりだったのだが、第一声からしてわたしの許容を越えるものであった為につい間の抜けた声が出た。
 思ったような返答が得られなかった為なのか、フライデーは大きな紫の目でわたしを睨め付けてきたが、そんなものよりも彼の口にした言葉の方が衝撃でわたしの脳は硬直している。
「目の下に隈ができているのは最近寝不足だからだろう。講義中もうたた寝をしていることがあるな、お前の友人が笑っているぞ。今日はセワード教授に呼び出されてもいた。大方講義中の態度についてだろう」
 矢継ぎ早に最近のわたしの様子を指摘して、違うかとでもいうように上目遣いにわたしを見るフライデーに肯定の意味を込めて一つ首を振る。
 わたしの反応に気を良くしてか、フライデーは僅かに目を細めて、それから、と続きを口にした。
「それから、最近お前が屍者技術について詳しくなっている」
 俺が気付かないとでも思ったか。
 今度はわたしの方を見ようともしない。
 屍者と生者の入り乱れる雑踏の中、真っ直ぐに前を向きながらぽつりとこぼしたフライデーの言葉にわたしは小さく息を呑んだ。
 顔が熱くなるのを感じる。見抜かれていたとは思っていなかった。わたしの水面下での悪あがきは誰にも、それこそフライデーにも知られることなく行われていると思っていた。
 だというのに、見抜かれていたとは。これほど滑稽なことがあるだろうか。
 もしかしたら今までのわたしのささやかな意地や見栄や、フライデーに見放されることに対する恐れといったものさえ彼はお見通しだったのかもしれない。そんなことさえ考えてわたしは自分の心臓に氷塊を押し込まれたような心地であった。
 フライデーはわたしの愚かな努力を笑うだろうか。それともその程度だと呆れるだろうか。
 何か言った方がいいのかとも思ったが、今更取り繕ったところでフライデーはその綻びを見抜くだろうし、見抜いたのならば彼はそれを容赦なく指摘してくるだろう。
 恥の上塗りは重ねるべきではないと判断し、わたしはフライデーの次の言葉を待つことにした。
「何も言わないんだな」
 だというのに当のフライデーからわたしの言葉を促すようなことを言われ、とうとうわたしは観念した。
「……君に知られているとは思わなかった」
「普通分かるだろう。どれだけ一緒にいると思っているんだ」
 お前、研究室でも時々船漕いでいるぞ。
 微かな笑みと共に告げられた容赦のない指摘に思わず顔をしかめる。
 確かにそのような自覚はあるにはあったが、フライデーは大概こちらを見ずに机に向かって作業をしていることが多く、わたしが居眠りをしていたことに対する指摘など今まで一度もしたことはなかったのだから気付いていないのだと思っていた。
 それがこんなところでこんな風に露呈して、その上ずっと以前から気付かれていたと判明した今、わたしの立場はなくなる一方だった。気がついていたというのならばせめて気付いた時に指摘してくれれば良かったものをと見当違いの腹立ちが胸の内に生じたが、それを訴えられるような立場にはない。
 わたしは恥ずかしさに消えてしまいたいと身を縮める。だが現実にわたしが消え去るのは難しく精々が背中を丸めてフライデーの横を歩くのが関の山だ。
「今のわたしでは君の研究の役に立てているとは思えない。……君が望むような優秀な助手である自信がない」
 だからせめて君に釣り合う人間になりたかったと告げれば、フライデーが声を出して笑う。
 折角人が意を決して、嫌われることも軽蔑されることも覚悟の上で本心を告げたというのにも関わらず、フライデーはこちらの気持ちなど全く気にすることもなく楽しそうに笑うのだから不本意極まりない。
 わたしの思いは笑われるようなものだったのかと眉を寄せれば、お前は本当に身勝手だなと言われて思わず怯んだ。
「少しくらいお前の頭の出来が良くなかったところで見捨てるような薄情者だと思ったのか」
 フライデーの言葉はわたしの痛いところを突いてきて、なまじ図星であるだけに上手く答えも返せずにわたしは口を噤む。そうではないと言い繕ったところで、それまでのわたしの言動でフライデーは全て理解するだろう。
「……黙りか。お前の方が薄情だな。俺をそんな冷血漢だと思っていたくせに」
 友達だって言ったのにな。
 まだ信じていなかったのかと、責めるでもないフライデーの澄んだ瞳がわたしを見上げる。ロンドンの夕暮れを吸い込んで、一層深い紫はまるで暗い夜の空のようにも見えた。
 よく澄んだ、しかしどこか陰りを帯びた瞳がわたしを見上げ、わたしの言葉を待っている。
 信じていたと言えば嘘になるだろう。確かにわたしは友達だというフライデーの言葉を信じきれていなかったのだから。
 彼の言葉が嘘であると思ったことはないにせよ、そこに全幅の信頼を寄せていなかったことは事実である。それさえ見抜かれているというのならば今更取り繕ったところでどうにかなるものでもなく、わたしは正直に答える以外に道はなかった。
「君を薄情者だとか、冷血漢だと考えたことはない。ただ……わたしに興味を持った理由を考えると、君の期待に応えられない時は不要だと言われるのではないかと、わたしの中に疑念があったことは本当だ」
 わたしの正直な答えにフライデーが何を思ったのかは分からない。微かに眉を寄せ、口元を引き結び、何かを耐えるような表情を見せた後、彼はわたしから顔を逸らしてぽつりと答えた。
「言っただろう、友達だって。少なくとも俺は、友達を頭の良し悪しで判断するつもりはないし、研究のこともお前が気にするようなことじゃない。俺はお前がどういう奴かを理解して、その上で友人だと言っているつもりだ。お前は違うのか」
「違わない……君の言う通り、わたしも君の外見や頭の良さで友人を選んだわけじゃない」
「まあそうでなかったら劣等生と首席が付き合うわけもないしな」
「なっ……! 茶化さないでくれ」
 明るく混ぜっ返すフライデーの言葉にむっとして声を荒げれば、怒られたにもかかわらず当の本人は楽しそうに笑っている。
 ならそれでいいじゃないかと尋ねられ、わたしはそれ以上何も言えずに黙るしかなかった。
 わたしはフライデーの友人で、フライデーもわたしを友人だと思ってくれている。そこには成績や家柄や外見や、その他諸々のしがらみはなく、ただただ互いを好ましく思っているという一点だけが存在し、わたしたちを友人として結びつける。それ以外には何が必要なのだろう。
 余計なものを削ぎ落とせば後に残るのは純粋な感情だけであり、そこに理屈を捏ねるのは無粋な話だ。
 友達だと、繰り返されたフライデーの言葉を噛みしめてわたしはやっとそれを首肯する。
「そうだな」
 わたしの答えにフライデーも嬉しそうに破顔して、そうだろうと鷹揚に頷く。
 だから、と、不意に立ち止まったフライデーに一体どうかしたのだろうと不思議に思いながらわたしもつられて立ち止まった瞬間、フライデーにしては勢いよく背中を叩かれた。
 力自体は大したものではなかったものの、不意を突かれた上打ち所が悪かったのか肺腑にまで響いた振動に僅かに息を詰まらせた後、恨みがましくフライデーを睨め付ければ当の本人はわたしの無言の訴えに対して意に介した様子もない。
「今日はもう帰って寝ろ」
 それで明日からまた頼む。
 脈絡を得ない唐突な命令に束の間戸惑ったが、ここがわたしと彼の分かれ道であることに気がついて納得した。このままフライデーについていけば彼の研究室に辿りつき、分かれて反対の道をいけばわたしは自分の家に戻る。
 要するにこれはフライデーなりの気遣いなのだと思い至り、ここで余計な意地を張るべきものでもないだろうとわたしは素直に彼の言葉に従った。
「ありがとう。また明日には君のところに行くよ」
「ああ。……それと俺は首席以外を相棒に据えるつもりはないからな」
 お前が望むなら徹底的にしごいてやっても俺は構わないぞ。
 なかなかに手厳しい激励に苦笑しつつ、ありがたくその提案を受け入れる。そのようなことを言うのはわたしの有様にフライデーも少なからず責任を感じているのだろうかと考えて、慌ててその考えを打ち払った。
 もしもそうであればそれは確かに嬉しくはあるが、ここは助手としての能力を期待されていると思っておくべきだろう。
 どちらにせよ嬉しいことには変わりない。
 フライデーの能力にわたしは遠く及ばない。そんなことは百も承知であり、フライデーもそれを分かった上でそれとは別にわたしを友人として認めているし、わたしの能力を見越した上で助手として据えている。
 自分の力不足に対してそれでもいいとフライデーを甘んじさせている事実に悔しさともどかしさを覚えはするが、それは昨日までの焦りとはまた別ものだ。
 今はまだフライデーと同じ場所まで辿り着けなかったとしても、これから研鑽を積んでいけばいい。
 彼は天才でわたしは凡才で、凡才には凡才なりの努力の仕方があるものだ。まだ時間はあるのだから、無理をして焦るよりも今できることを着実にこなしていく方が大事であると意識を切り換えられる程度にはわたしの気持ちは落ち着いていた。
 それと同時に、フライデーへの認識も改める。
 彼が見た目や平素の言動とは裏腹に親しい相手に対して驚くほどに情を見せることはこれまでの経験から知っていたけれど、わたしが彼について知っていることはまだまだ少なく、またわたしが彼の中でどのような立場にあるのかも不明だった。
 だからこそ、それまで知らなかったフライデーの側面を、或いは浅くしか知らなかった彼の一面をより深く知ることができるのはわたしが彼の特別であるように思えて嬉しかった。