金曜日の彼について - 1/6

 その頃の僕はといえば諮問探偵を開業したはいいものの、当然ながら何の実績もなければ知名度もないような人間に依頼などくるはずもなく、日がな一日近所の大英図書館に入り浸ってはどうにか退屈をやり過ごす毎日であった。とはいえ、図書館にきたからとただ本を読んでいるだけでは芸がないというものだ。
 そこで僕は図書館の出入り口にほど近い席を陣取り、日々読書がてらに図書館にやってくる人々の観察を日課としていた。
 無論、開かれた公共の場であるのだから図書館にやってくる人間は様々である。
 身なりのいい紳士から、良家の子息であろう青年。中には中流階級らしき学生も混ざっていたり、また時には勉強熱心なご婦人が詩集を片手にやってきて若い男たちを色めき立たせる。
 そうして数多の人々が図書館にやってきては立ち去る中で、半月もあれば常連ともいうべき人間の顔は覚えるものだ。
 その中でも特に人目を引いたのがとある青年だった。
 年若く、恐らくは大学生であろう年頃の彼は仕立てのよいスーツに身を包み、ほぼ毎日決まった時間に大英図書館にやってきては閉館の時間まで本を読み漁っていた。ほぼ、というのは彼が図書館にやってくる時間は平日と休日で異なるからである。これも僕が彼の青年を学生だと判断した理由の一つであった。
 彼が平日図書館へやってくる時間は概ね大学の講義が終わる時間に相当する。対して休日には朝早く、それこそ開館の時間ぴったりにやってきて、閉館の時間まで図書館の奥に籠もりきりである。そんなことさえ把握できてしまうほどに彼は規則正しく図書館に通っていたし、暇を持て余した僕はといえばいつしか図書館にやってくる数多の人々ではなく、彼の観察が日課となっていた。
 どうしてそのようなことを始めたのか、今となっては分からない。覚えていないというよりも、不思議なことに明確な理由が見当たらない。
 強いて理由を挙げるとするのであれば互いに年が近かったというのもあるのだろうし、件の青年は傍目から見ても浮き世離れしているように思えて、彼の持つ人とは異なる雰囲気に大いに興味をひかれたというのもあるのかもしれない。
 その青年に何か事件のにおいがするというわけではなかったが、事件のにおいはないにしても、ただ大英図書館で時間を擂り潰すだけの退屈な日々に多少なりとも刺激を与えてくれるだろうという予感はあり、僕はその勘を信じて彼に接触した。
 それは僕が彼という存在を認識してからおおよそ一月後のことである。
 その頃にはもう既に、僕は彼がどこの席を陣取っているのかを知っていた。
 彼は図書館の一番奥、誰もやってこないような場所で一人本を読み漁るのが常であった。
 静かな読書などというのも生ぬるい。貪欲なまでに知識をむさぼるとでもいわんばかりに乱雑に積み上げられた本の山は崩されることなく日々その高さを増していく。
 時折見かねた司書たちがうずたかく積まれた本を片付けているのも知っていたが、大体において大英図書館の最深部はそこを自身の居所と決めた青年が我が物顔で本を広げ、好きなように使っていた。
 僕が件の青年と話す為に彼のいるところへやってきたときも、そうやってできあがった本の山の隙間に収まるようにして、小柄な青年は食い入るように本を読み進めていた。
 紫の瞳が文字を追って左右に動く。青年の手に収まった本は一定の速度でリズムを刻むかの如くページが捲られていくが、そのスピードははたして本当に本の内容を理解しているのか疑問を覚えるような速さであった。
 大英図書館に所属する職員でもない限り、普段ならば滅多に人の立ち入らないような場所であるという安心からなのか、それとも単に興味がないだけなのか、青年はすぐ側までやってきた僕に気付いた様子もなく、まるで屍者か機械のように規則的にページを捲っていくばかりだ。
 こうなってくると一体いつ彼は僕に気付くだろうかと逆に面白くなってくるもので、僕もまた彼の背後に影法師のように立っていた。
 けれどただ待つだけだというのも退屈だ。暇を持て余した僕はぼんやりと目の前の青年を観察することにした。
 よくよく考えてみればいつもは遠巻きに見かけるだけであったので、こんな間近で青年を見るのは初めてかもしれない。
 絹糸のように細い金の髪は薄暗い図書館にあっても微かな光を反射して白く輝いている。身に纏っている服はジャケットもシャツも上質なもので、彼が裕福な家の息子だと分かった。
 図書館特有のかび臭ささえ覚える古い本の匂いとは別に、煙草と香水らしき匂いが鼻につき、更にそれに紛れて消毒薬の匂いがした。見える限りでは青年に怪我などはなく、だとすれば彼は医学生なのかもしれないと予想を立てる。
 そうして青年を観察しながら彼がこちらに気付くのを待って時間だけが過ぎていく。意外なことに青年は一向に自分の背後に立つ僕に気付く素振りも見せず黙々と本を読み続け、閉館の鐘が鳴るのと同時にやたらに分厚いそれを閉じて机の上に放り投げた。
 そうしてようやく彼は顔を上げて振り返り、澄んだ紫の瞳が真っ直ぐに僕を射貫く。
「何か用があるのかと思って放っておいたが、黙って人の後ろに突っ立ってるなんて随分暇なんだな」
 本を読んでいる間ずっと引き結ばれていた口が開いたかと思えば想像以上にハスキーな声が聞こえ、それが彼の青年のものだと気がついた時には既に彼は本の山に新たな一冊を加えて立ち去った後である。
 思いもよらなかった一言に虚を突かれて出遅れた僕は気がつけば彼に置き去りにされており、慌てて外に出たところで無情にも彼が馬車に乗り込み、そしてその馬車が走り去って行くのを見つめるのみであった。
 要するに僕は彼に完敗を喫したというわけである。
 彼は一度も顔を上げるようなことはしなかった。
 僕が間近にやってきても、彼が本を捲る速さは一定で早くもならなければ遅くなるようなこともなく、そこには他人の存在に気がついた揺らぎはこれっぽっちも見えはしなかった。まるで測ったように正確にページを捲る動作にも、やはり他人の存在を意識しての緊張や強張りというものもありはしなかった。
 とどのつまり、彼はごくごく自然に僕という人間を無視し続けたというわけで、そしてそれは僕の目と観察をもってしても見破れるものではなかったということだ。
 確かに僕は新米探偵であり、これといった功績もなく一人前には至らないことは認めよう。けれど並の人間よりはずっと観察に長けている自負はあったし、少々変わり者の気はあるものの、おおよそ普通の学生であろう彼に僕の目を欺くことはできやしないのだとも思っていた。
 それこそが驕りであったと気付いたのはまんまと彼に逃げられた後のことであり、僕は未熟な自分の力量と狭い世間で天狗になっていた傲慢を恥じた。
 それと同時に、見事に僕を出し抜いた彼に今まで以上の興味を持ったことはいうまでもなく、翌日、僕は彼の青年がやってくるのを今か今かと待っていた。
 残念ながらこの日は金曜日で、大学では講義が行われている。
 常の通りであれば彼がやってくるのは講義を終えた放課後になるのだから、待つ時間というのは随分と退屈に感じるものだ。
 午前中こそいつも通りに出入り口近くの席を陣取って新聞を読みがてら図書館の訪問者たちを観察していたが、今日ばかりは身が入らない。
 気分転換に近くのカフェで昼食をとった後、僕は主のいない図書館の最奥にやってきた。
 広々とした机の上にはこれでもかと本が積み上がっている。
 そこに重ねられたものは様々で、約四割が医学書、三割が屍者技術に関するもの、そのほかには科学や進化論、中にはおとぎ話まで混ざっている。
 大英図書館の蔵書を一所に集めたとでもいわんばかりの脈絡のない本の選出は、しかしよくよく見てみれば屍者に関するものばかりだ。
 屍者技術は言わずもがな、医学もまた屍者技術者にとっては基礎知識に当たる。ルクランシェ電池をはじめとする科学の発展は同時に屍者技術をより簡便なものへと発達させ、一見畑違いのようにも感じるおとぎ話はメアリ・シェリーの執筆であった。そのほか混ざっている本の中で目をひいたものといえば、ヴァン・ヘルシングの研究論文だろう。彼は精神医学と共に屍者技術者の間では名の知られた人間である。
 どんな本を読むのかでその人間の性格というものは見えてくる。
 さしずめ、かの青年は屍者技術者を目指す医学生といったところだろう。屍体を扱うということで軽視されがちな職種ではあるが、国家事業にも密接に関わりがあるだけに本物の研究者ともなれば重宝される。ゆくゆくはロンドン塔で働くのを夢見ているのかもしれない。
 そんなことを考えながら手当たり次第に積まれた本をぱらぱらと捲っていると、不意に人の気配がした。振り向けば待ち望んでいた人物が分厚い医学事典を片手に不審者でも見るような胡乱な目つきでこちらを見ている。
「何してるんだ、お前」
 同時にかけられた声音はこちらに対する不審を隠そうともしない、あからさまな嫌悪を滲ませたものであり、刺々しささえ感じる突き放した物言いに内心笑ってしまう。
 その態度をまるで毛を逆立てた猫のようだと評したら彼は一体どんな顔をするだろうか。
「これは失礼した。君が一体何を読んでいるのか気になってね」
「気になるのがあるなら持っていけばいい」
 ついでに片付けてくれると助かるとぞんざいな口ぶりで言って、彼はちらりと僕を一瞥した。
 昨日と同じ、ガラス玉のように澄んだ瞳が躊躇いもなく向けられて、挑むように鋭い視線に射貫かれる。
 小柄な見た目とあまり日に当たらない生活をしているのだろうと思われる色白さが必要以上に青年を華奢に見せ、いっそ少女めいているとさえ思わせるのにも関わらず、その双眸に宿る光はとてつもなく強い。
 しばらくの睨み合いの後、やがて興味をなくしたように青年はふと顔を逸らし、そのまま椅子に座って本を広げだしてしまった。どうやらこのままこちらを無視する腹づもりらしい。
 それでは昨日と同じ結果が待ち受けていることは目に見えていて、慌てて僕は彼の手から本を奪う。
 読むはずだった本を奪われた不満からか、或いは僕という闖入者の存在自体が気に入らないのか、その目に苛立ちの色が滲むのが見えた。
「それを読むなら明日にしろ」
「医学事典に興味はない」
「じゃあ何だ」
 こちらの考えなど分かっているだろうに空とぼける青年はまるで何も分からないと言わんばかりだ。それともこれは、用があるのならばこちらから言えということなのかもしれない。
 ひとまずそう判断した僕は意味のない意地の張り合いを諦めて取り上げた医学事典を机に投げ出し、青年に手を差し出す。
「君と話がしたいと思った」
「お前と話す理由がない」
「単なる好奇心さ」
 君が毎日ここに通っているのを知っている。年も近そうだから気になったと告げれば青年はほんの少しだけ困惑したような顔を見せて口を噤んだ。
 どうやらこの青年には回りくどい駆け引きよりも思ったことを素直に言った方が通じるらしい。
 見るからに頭でっかちな理屈屋のように見えたのだが意外である。否やそういう人間だからこそ裏も打算もない言葉の方が受け入れられるものなのかもしれない。
 束の間の沈黙が落ち、そろそろ青年に手を差し出すのもつらくなってきた頃、ようやく彼は口を開いてぽつりと尋ねた。
「名前は」
「え」
「お前の名前は。話をしようというのに名乗らないのは相手に対して失礼だと思わないか」
「え、ああ。ホームズ、シャーロック・ホームズだ」
 ホームズか。
 舌の先で転がすように、小さく呟く声がする。自分が彼に吟味されているのだろうことは分かるが、いまいち相手がどのような人間かを判じかねているために自分がどうカードをきればいいのかも分からない。とりあえず親愛を込めて笑ってみるが、どうにも張り付いたようになるのはこの青年の視線がおそろしく強いからだろう。
 ごろつきや口に出せない稼業に身をやつしているという意味ではない。
 彼の目は研究者の目だ。至極冷静に、時には非情なまでに冷酷に対象を観察する目だ。そうやって自分も見定められているのかと思うとあまりいい心地がしないというのも当然だろう。
「俺は……そうだな。フライデーとでも呼んでくれ」
 しばらくの間何か考え込んでいた彼はそう言って手を差し出したが、慌てたようにすぐさまその手を引っ込め、改めて差し出した右手で僕の手を取り握りしめた。
 人には名前を名乗らせておいて自分は本名を名乗らないのはどうかと思えども、そんなことをする割に今日の曜日を名前に冠する安直さがどうにも憎めず、貼り付けた笑みを浮かべたまま彼の手を握りかえしてよろしくと答える。
「それで? 何が聞きたいんだ?」
 握った手を離した途端、彼は隣の椅子を勧めながら僕に尋ね、僕は自分の考えが全て彼には見抜かれているのではないかという恥ずかしさからたびたび言葉を詰まらせながら適当な話題を探して口にする。思えば何を話すか全く決めていなかったのだから我ながら呆れた話であった。