青天の霹靂 あるいは唐突なプロポーズ

 それは冬も本番、比較的温暖な気候のグランコクマもシルバーナ大陸からの冷たい季節風が吹き付けるルナリデーカンのある日のことだった。
 その日、特別な何かがあったという訳ではない。ジェイドの誕生日はとうに過ぎ去り、またルークの誕生日を祝うにしてももう少し先だ。一年の終わりが見え始める頃ではあったがそれも年の瀬と呼ぶにも少し早い。本当に何の変哲もない休日だった。
 仕事が仕事であるだけに決まった休みがあるわけではないジェイドがルークと休みが被ることはまず殆どない。それが偶然重なって、互いに怠惰な朝を満喫した後朝食を兼ねた昼食をとりに出た。最近よく通っている店があるというルークに連れられて入ったレストランは開店間もないこともあって客も少なく居心地が良かった。料理の方はと言えば量もそれなり、味はルークが褒めるだけあって洗練されていた。
 ランチセットを食べ終える頃にはジェイドもその店を気に入って、また今度、次は夜にでも来ましょうかと話ながら店を出た。家に帰る途中、市場に立ち寄って夕食分の食材を買っていく。つい先程昼食をとったばかりだというのに夕飯はあれが食べたいこれがいいと訴えるルークの主張を適当にかわして野菜や肉を買い込み、予定よりも少し重くなった荷物を抱えて帰路についた。
 それはごくありふれた二人の休日であり、特別なことは何もない。強いて言うのであれば、冬に入ったこの季節にしては珍しく暖かな気温だったということくらいだろうか。
 昼を少し過ぎたばかりの住宅街は静かで、家々からはおいしそうな食事の匂いが漂っていた。
 穏やかな街の景色にジェイドの意識も緩む。
「……ルーク」
 だからそれは、実に何気なく緩んだジェイドの頭からこぼれ落ちた言葉だった。
「結婚しましょうか」
 並んで歩いているだろう相手を見ることもなくこぼれた言葉は他ならぬジェイド自身が誰よりも驚いて、なんとはなしに隣りを振り返ることも気恥ずかしさを覚えて少しだけ歩調を速めた。隣りで歩いていたはずのルークがいつの間にか置いてけぼりになっていることに気がついたのは曲がり角にさしかかった時で、ようやくいつもだったらいやでも視界に入るはずの赤毛が見えないことに気がついて振り返れば遙か後方で呆然と立ち尽くしている。
「……」
 遠目にもその顔が赤いのはきっと見間違いでも何でもないのだろう。先程自分が言ったことを思い出して、どうやらあれは確かにルークの耳にも届いたらしいという事実にいたたまれなさを覚えながらもルークを呼ぶ。
「そのまま突っ立っていたらおいていきますよ」
 ジェイドの呼びかけにはっと我に返ったらしいルークが荷物を抱え直して慌てて駆けてきた。それを視界の端に収めながら踵を返し、さっさと角を曲がる。二人の暮らす家まで、もうそれほどかからない。

 なんてことがあったのがほんの三日前の話だ。そして今、ジェイドの執務室にはピオニーがいた。何故かなどと言うのは愚問であるし、そもそもジェイドはこの男が執務室の床から顔を出した場面から一部始終をつぶさに見ていたので、この男が王宮の私室から張り巡らされた地下通路の一体どこをどうやって通ってやってきたのかそらんじることさえできる。
「で、お前この間ルークにプロポーズしたんだろ」
 面白そうなことしてるじゃないか。どうして俺には言わなかったんだ。
 咎めるというよりもいかにも面白がっているという口ぶりでそんなことを聞くピオニーに溜息を吐く。別段ルークに対して口止めをしたわけでもないけれど、当の出来事からほんの三日でここまで届いていることを考えるに噂というものは随分早く駆け巡るものなのだと考えざるを得ない。
 もう少し謹んでもらいたいものだと今この場にはいない赤毛の恋人のことを考えながらもう一度大きく溜息を吐いてジェイドは今の今まで書類と向き合っていた顔を上げた。
「その噂の発生源はどこからなんですかねぇ……」
「ガイラルディアからだな。いやあ、朝ブウサギの散歩をさせに来たあいつがこの世の終わりみたいな顔をしていたもんだからな? 相談にのってやったら、これが面白い。ルークがお前にプロポーズされたのだと何だの」
 曰く、ルークに相談という形で先日のジェイドのプロポーズの話を聞かされたガイが親友とその恋人の進展に対して諸手を挙げて喜ぶに喜べず、けれども親友が無邪気に喜んでいるので水を差すこともできず、そもそも相談というていで散々のろけを聞かされて胸焼けと消化不良を起こし沈痛な面持ちを拭えぬまま職場に出たら面白そうなものを見つける目だけは確かなピオニーが嗅ぎ付けて聞き出したということだ。ジェイドの予想とほぼ変わらない噂の経路に思わず遠い目をしそうになるが何とか持ちこたえ、大したことではないと絞り出す。
「別に結婚と言ったって特に変わりませんよ。姓を移すわけでもないですし、役所に提出するような書類もありませんし、そもそも一緒に暮らしていますし」
「まあそうだけどな。正直俺はお前がそんなことを言いだすとは思わなかったぞ」
 そんながらでもないだろうと言うピオニーの言葉は至極もっともで、ジェイドもそれに首肯した。彼は正しい。ジェイドだって自分があんなことを言いだす日が来るなどこれっぽっちも考えてはいなかった。
「……どうしようもない、理由ですよ。あなたにだから言いますけどね」
 少しだけ考えてピオニーにだけはあの奇行の理由を告げてしまおうと考える。もう随分と長い付き合いだ。ジェイドが他人に言いふらされたくないことのひとつふたつ、この男はよく分かっているし、何よりも誰にもその理由を知られないというのは少しだけ寂しい気がした。
「その日、ルークとお昼を食べに出かけたんです。帰りがけに買い物もして、よく晴れていたし風も珍しく穏やかでしたから、この季節にしては暖かな日でした」
「ああ、確かにあの日は朝から暖かかったな」
「ええ。まあ、そんなことはどうでもいいんです。ルークと休みが合うのが久しぶりで、朝から一緒にいるのも久しぶりでした。一緒にいて、ああいうのが幸せというんですかね。――彼とこうしてずっと一緒にいられればいいなと思ったんです」
「……それで結婚か」
「いい年して随分夢見がちな話でしょう。ですが、ルークは存外律儀なので、ああいうことを言えば真面目に私の言葉を聞き入れてくれるだろうっていう打算もありました。悪い大人でしょう」
 蓋を開けてみれば何とも他愛のない理由だ。その証にプロポーズまがいのことをしてからも特段ルークとの関係に変化は見られない。
 別段ジェイドだった真面目に結婚だの何だの考えている訳ではないのだ。ただ一緒にいられればそれで良いし、そこにルークの意思もあれば尚更良いというだけのことで。例えば明日にでもルークがもうジェイドとはいられないと言ったとしてもきっと自分はそういうものかと受け入れるだろう。
 過ぎ去って行くものに対して追い縋って引き止める術をジェイドは知らない。過去を振り返ってもそんなことをした記憶もないのでやり方も分からない。だから明日そんなことを言われる前に、先手を打って縛るようなことを言ってしまった。随分と狡い真似だというのは他ならぬジェイド自身がよくよく理解している。
 けれどピオニーはそうとは思わなかったようで、これ見よがしに溜息を吐いて口を開く。
「俺は時間の問題だと思ってたがな」
「……はあ」
「そもそももうルークも子供じゃあないだろう。そりゃあ、お前と比べたらまだまだケツも青いがな」
 それでもお前と旅していた頃と比べたって随分成長しているんじゃないのかと指摘され、そうですねと生返事を返す。過去の記憶が強い分、いつまで経ってもルークのことを十七歳の子供と見てしまうのは自覚していた。けれどルークももう二十三だ。すっかり大人になったというにはまだ若いかもしれないが、それでも旅をしていた当時のガイの年齢だって超えている。人前で取り繕えるほどには落ち着きだってあるし、常識も良識もちゃんと弁えている。
「というかお前は男なのに男心がぜんっぜん分かってないな」
「そうでしょうか」
「そうだそうだ。俺がルークでお前にプロポーズされたらショックで三日は立ち直れん」
 まあそこら辺はガイラルディアに話した分楽になったのかもしれないが、なんてルークの行動を分析するピオニーをそういうものかと眺めながらも頭ではルークのことを考えていた。ジェイドからしてみれば多少の打算はあったものの何気ない告白のつもりだったけれど、それでルークの何かを傷つけたのなら申し訳ないことをした。そういえばその告白の答えもうやむやになったまま聞いてはいなかったことを思い出して少しばかり苦いものがこみ上げる。
 今日は早めに仕事を切りあげて、家に帰ろうと意識を雑談から仕事へと切り替える。
「まあ、私の話はそんなところです。暇つぶしにはなったでしょうから、あなたも戻って仕事をして下さい」
「何だよ、相談に乗ってやったっていうのに冷たいな。ガイラルディアはもうちょっと感謝してくれたぞ」
「そうですね。聞いて下さってありがとうございます」
 俯いて書類と睨み合いながらなおざりな感謝を口にすればすぐさま飛んでくるだろう反論はいつまで経っても返されず、その代わりに変わるものだなと小さな呟きが聞こえた。妙にしみじみと感じ入ったその声に眉を寄せて顔を上げればそこにあったはずのピオニーの姿はなく、部屋の中に視線を巡らせれば雑多に散らかった一角に金色の頭が潜っていくところだった。
 普段はどれだけ帰れ、仕事に戻れと言ってもなかなか聞き入れてくれないというのに今日に限っては随分素直なものだと感心しながらも、大人しく仕事に戻ってくれるのであればジェイドとしても言うことはない。ピオニーの頭が完全に見えなくなって、隠し通路の扉が閉まる軋んだ音が聞こえたのを確認して、ジェイドは再び自分の仕事に取りかかった。
 珍しく定時に仕事を終えて家に帰ったジェイドが、プロポーズの返事を尋ねたら顔を真っ赤にさせたルークに「改めて俺の方からプロポーズさせてくれ」と乞われたのは夕食前のことだった。