微熱じゃなくて恋だった

 ルークが倒れた。熱を出したのだ。
 朝、少しだるいとは言っていたが動けない訳じゃないと強がる子供の主張を真に受けた結果がこれだった。珍しいルークの訴えに休んだ方がいいんじゃないかと言ったガイの主張は当のルークに却下されたが、現在の状況を見ればガイの主張が正しかったのだと認めざるを得ない。
 急いで近くの村へ運んで宿を取り、ベッドに寝かせたのが昼頃のこと。生憎とこの村の医者は留守にしているらしく、当座しのぎのジェイドの診察では過労とやや風邪の症状がみられるという結果だった。これなら薬も必要無い。たっぷりの休息と栄養をとっていればルークの若さならば二、三日もすればすぐに回復するだろう。ルークが元気になるのを待つついでに他の仲間にとっても良い休みになる。心配そうな四人と一匹に大事ではないからルークの回復次第すぐに出発できるよう食材や薬品類の補充と、各々の休息をとるように言いつけてジェイドはルークのいる部屋に戻った。
 何せ、病人様のご所望なのだから現状医者もどきなどしているジェイドには逆らう理由もなかった。
 一人でじっとしているといやなことばかり思い出すから側にいて、なんてしおらしいことを言った子供はそのくせベッドの上で穏やかな寝息を立てて寝こけている。これでは自分なんて必要なかろうと思えども、外に出る気にもなれなくてただぼんやりと時間を擂り潰す。
 少し前までは宿の人間が置いたものか、それとも以前ここを訪れた旅人の置き土産か、古ぼけた小説があったので手持ち無沙汰にそれを読んでいたのだが、それも読み終えてしまって本格的に暇を持て余していた。外はもう暗く、後しばらくすれば誰かが夕食に呼びにくるだろう。
 念のためルークの分は消化に良い病人食にしてほしいとも頼んである。今ジェイドができることは全てした。ヴァンの動向を考えると焦る気持ちがないとは言わないが、足止めされている以上今は焦ったところで意味がない。単独行動も考えないではなかったが、それにしたってできることは限られていて言ってしまえば誤差の範囲だ。
 とりとめのない思考は頭を振って振り払い、それからルークの容態を確認する。脈拍は正常の範囲。発熱の為か体温は幾分か高めで、触れれば少し熱かった。氷嚢の中身も溶けて水になってしまっているのに気付いてルークの額からすっかり使い物にならなくなったそれを外した。
 そっと部屋を抜け出し、溜まった水を捨て、宿の主人に頼んで氷をもらう。小さく礼を告げれば、お大事にと微笑まれた。世界の情勢はどこも不安定極まりないが、それでもこうして名も知らぬ子供を案じて声をかけてくれる人間がいるというのはおそらくそう悪いことではないのだろう。
 新しく中身を取り替えた氷嚢を額にあてがい、それから薄らと滲んだ汗を拭ってやる。
 様々なことがありすぎてすっかり忘れてはいたけれど、思い返せば彼はとびっきりの箱入り息子で屋敷の外にさえも出たことがない子供だった。見慣れない外の世界も、大地の崩落も、障気渦巻く魔界も、戦争も何もかも、彼の精神と体力を摩耗させるには十分過ぎるもので、寧ろ今までよく保った方だと感心すら覚えてしまう。知り合った当初など「ダリー」などとよく文句を口にしていたものだが、そんな不満を聞かなくなったのはいつからだろう。
 或いは、逆に自分を追い詰め過ぎてそんなものを感じる余裕さえなくしていたのかもしれない。
 子供が子供のままでいられないというのはある種残酷なことだとジェイドは思う。だが同時に、それが許されない子供がこの世には確かにいるのだということも知っている。ジェイドが主君と戴く男もそうだった。預言に流されるままに、閉ざされた雪の町で出会った子供はいつの間にか皇帝になっていた。
 ルークの子供時代はもっと短い。彼は生まれてからまだ七年しか経っていないという。
 七年、自分が七歳だった頃一体どんな子供だっただろうか。過去を手繰ったところでろくな思い出など残ってもいない。その頃のジェイドはまだ瞳を赤く染めてはいなかった。譜術というものを知り、初めてこの世の根幹たる音素とそれを用いた譜術に触れたのが丁度そのくらいの年だった。
 ピオニーとも、ネビリムとも出会う前のことだ。
 未来などずっと遠くて、自分があの雪に閉ざされた街から出るなど露ほども思わず他の人々と同じようにあの街で生きて死んでいくのだと信じていた時代の話だ。懐かしいとも呼びがたい、微かに苦さを覚える記憶に眉を寄せる。
 昔から可愛げのない子供だったことは自覚しているが、そのなれの果てがこれなのだから笑えない。それに比べれば今目の前にいる子供は余程可愛げというものを持っている。この子供が子供でいられる時間はもう幾ばくも無いだろう。レプリカであるなしにかかわらず、王族――立場ある家に生まれてきた子供は得てしてそういうものだ。私よりも公を優先される。ルークが生まれたのはそういう世界だ。覆すことは、この非力な子供には無理だろう。
 ヴァンにそそのかされた時、自由が得られると彼は信じていたらしい。なるほど確かに生まれてこの方彼に与えられず、そしてきっとこんなことにでもならなければこの先も永劫与えられないものだっただろう。思惑があってそう仕向けられていたのだとは言えども、ルークの望みを誰よりも一番理解していたのが他ならぬヴァン・グランツであったというのは皮肉だとしか言えない。
「……」
 小さなうめき声と共にルークが寝返りを打つ。その拍子に氷嚢が額から滑り落ちた。
 これでは何の意味もない。ベッドに投げ出されたそれをとって再びルークの額に載せてやる。微かに触れた指先にルークの熱が移る。ジェイドの体温よりも遙かに温かな子供の温度がそこにあった。

 

title by シャーリーハイツ