君を待つ日々、過ぎ去ったあの日

 それは旅の間、しばしば見る光景でもあった。
 テーブルランプ形の音素灯が淡いオレンジ色の光を放っている。いつもは真っ直ぐ伸びた背中がほんの少しだけ丸められて、柔らかなヘーゼルブラウンの髪が横顔にかかって影を作っていた。
 軍服の上着を脱いで、指先まできっちりと覆ったいつもの長手袋も外して、いやに白い指先がペンを握って紙の上を走る。
 ジェイドが何か書き物をしていることは以前から知っていた。多分ガイも他の皆も知っているだろう。旅の間、宿に泊まった時、或いはアルビオールの中で野宿する時、ひっそりとジェイドが何かを書き留めている姿を見かけたのは一度や二度ではない。
 ルークだって毎日日記を書いているし、他の面々も時折手紙を書いたりだとかしているのを見かけたことはあるので、ジェイドが何を書いていようと特段気にかけたことはなかった。何せ彼はグランコクマに戻ると空いた時間を殆ど執務室で過ごしている。他にやらねばならないことや調べるものがあった時はそちらを優先させてはいるが、自由時間ともなると軍部に用意された自分の部屋で黙々と書類と向き合っている。そんな彼が旅の間でも何か――それは例えばピオニー陛下への手紙であったり報告であったりだ――を書いているというのはそうおかしな話ではなく、そこに立ち入るつもりもルークにはなかった。きっとそれをジェイドは許してはくれないだろうか。
 だから、ルークがそれに興味を持ったのは他に意識をやる場所もない、小さな机とベッドしかないような宿の中で手持ち無沙汰になってしまったからだった。
 生憎とガイは一人部屋で、ルークはジェイドと同室だった。部屋が分かれる時には恒例の、平等なじゃんけんによるものだから仕方がないとはいえ、ジェイドはそうお喋りなたちではない。
 人前ではやたらとからかってくることもあるが、二人きりになると殆ど喋らない。寡黙というわけでもないのだろうけれど、誰かと一緒にいて沈黙の中で過ごすことに苦痛を感じないタイプなのだろうとルークは考えている。逆にルークはそういった場での沈黙が苦手だった。相手が気にしていないと分かっていても、自分が気にしすぎだとしても、折角一緒にいるにもかかわらず沈黙しかないというのは妙に落ち着かなくてそわそわしてしまう。
 ガイはそれを「構ってほしいからだろう」なんて言って笑うけれど、ルークにとっては笑い事ではない。
 ジェイドも冷たい訳ではないのでルークが声をかければそれなりに相手はしてくれるけれど、それもやっぱりそれなりでしかなく、ルークが二人きりになって一番落ち着かない相手はジェイドだった。
 それでも旅の間、そこそこ短くない時間を一緒に過ごしているのだからルークにだって多少はジェイドのことが分かる。そうでなくても自分が何かしている時に他人から意味もなく声をかけられるのを煩わしく感じるのはルークにだって分かることで、だから最初は黙っていた。
 黙ろうとしていた。努力はしたのだ。
 けれどその沈黙も三十分を過ぎた頃から重たく感じられ、どうにもこうにもいたたまれなくなってくる。ベッドに腰掛けて黙々と何かを書き綴るジェイドの横顔を眺めているのにも飽きてしまえば、一気に時間の進みは遅くなる。そしてそんな時に限って睡魔は遠くベッドに入ったところでやはり寝付けぬ息苦しさを感じるのは目に見えていた。
 だからルークは努力することを諦めて、この状況の打破に一番手っ取り早い方法をとることにした。
「……なあ」
「何でしょうか」
 意を決して声をかければ机から顔を上げずになおざりな返事が投げ返される。その素っ気なさにくじけそうになりながら、だけどここで会話を終えれば後には沈黙が待っていると分かっているルークはどうにか言葉を探す。
「何書いているんだ?」
 それについて聞いてみたのはただただ単純に今ジェイドがしていることだったからで、ルークとしてはまともに答えが返ってくるなんて思ってもいなかった。
「日記ですよ」
 だからジェイドがそう答えて顔を上げたのには驚いたし、わざわざ自分の方に振り向いた時には更に驚いた。そんな真面目に答えるような話題でもなかったのに。
 吃驚しすぎて返す言葉を見失い、俺も日記書いていると今更分かりきったことを口走れば微かにジェイドが口許を緩めて知っていますよと返された。当然と言えば当然だ。つい一時間ほど前まで、その机で日記を書いていたのはルークだったのだから。
 ジェイドが小さく笑って場の空気が緩む。ついでにルークの気も緩んで、ついぽろりと余計なことまで口にしてしまう。
「……何か、ジェイドが日記書いてるなんて意外だな」
 何となく彼はそういった類いことはしないようなイメージがあったが、人は見かけによらないものだ。もっとも、ルークも毎日日記を書いていることを知られた時は意外がられたものだったけれど――ルーク自身、医者にいわれたからとは言えどもよく毎日日記をつけていられるなと思う――それにしてもジェイドがそんなものをつけているなんて露ほども考えたことがなかったから、ルークにはそれがとても意外で新鮮なものに感じられた。
 ルークの何気ない感想を拾い上げて、ジェイドが笑う。今度は少し意地が悪い、からかいのネタを手に入れた時の顔だった。
「まあ、あなたが毎日書いている立派な日記に比べたら味気ないものですが」
「何だよ、それ。そりゃ俺の日記なんて大したこと書いてないけどさ」
 柔らかな皮肉にこれ見よがしに口をとがらせ拗ねた素振りを返す。それにしてもジェイドが書く日記というのは一体どんなものだろうか。俄然興味が湧いてくる。今まで一度だってそんなこと考えてもみなかったからジェイドがどんな風に日記を書くかなんて全然想像がつかない。頭のいい彼のことだからルークが日々書き散らかしているようなものではないことだけは確かだろう。
 とはいえ日記なんていうのはプライベートの塊で、その上相手はジェイドなのだから素直に見てみたいと言ったところでみせてくれるはずもないだろう。それならどうやれば見られるだろうか。ジェイドが寝ている隙をついてこっそり日記を盗み見ようかとも考えたがまず無理だろう。何せ彼は常にルークよりも遅くベッドについてルークよりも早く起きている。同室になった時、朝起こされるのはいつもルークの方なのだから、この作戦は少し――いやかなり現実味がない。もしやジェイドは寝ていないのではないだろうか。この男ならば一日二日、或いは一週間でも一ヶ月でも眠らず起きていられそうな気もするが流石にそこまで人間離れはしていないだろう。そう思いたい。
 他愛のない考えはすぐにあらぬ方向へと脱線してしまう。
 軽く頭を振って余計な考えを振り払い、どうすればジェイドの日記の中身を知ることができるだろうかに意識を戻す。ガイだったら少しは見たことがあるだろうか。実際に中身を知らなくても少しは話の種で聞いたことがあるかもしれない。
 ジェイドの日記の中身が気になってそわそわとするルークの頭の中でも覗いたかのように、ふむ、と小さく呻ったジェイドがぽんとそれまで書いていた日記を閉じて放り投げる。
 少し大きめの手帳サイズのそれは綺麗な放物線を描いてルークの手に収まった。
「見られて困るようなものではありませんから、ご自由にどうぞ」
 中身を気にしてつきまとわれるよりはここで開示して大人しくさせた方が手っ取り早いとでも思ったのか、自分の目で見た方が納得もいくでしょう。なんて少しばかり辛辣だけれど、的確にルークの行動を見透かしているのは流石としか言えない。ルークが単純だと言われてしまえばそれまでだけど。
 そこそこの厚みがあるその日記帳はその分重たく感じられた。
 一体どんなことが書いてあるのか期待を込めてページを開く。そこに書かれた文字を辿って、一分も経たないうちにルークの眉間に皺が寄る。
「……何かこれ、日記っつーか」
「ええ、記録と言った方が正しいでしょうね」
 げんなりとしたルークとは裏腹に涼しい顔をしたジェイドが手を差し出した。日記を返せということなのだろう。無言の要求に素直に従ってルークはジェイドに日記を返した。
 そこにあったのは毎日の日付と天候、それからその日のうちに何があったかというルークたちの、ジェイドの記録だった。どこに行って何を食べて、どんな魔物と戦って。出会った誰が何を言ったのかまで、乱れのない美しい筆致で正確無比に書き連ねられたそれはジェイドの言った通り記録に近い。いや実際にそうなのだろう。それは日記と呼ぶにはあまりにも無機質だ。
「マルクトに戻ったら報告書をあげなければならないので」
「でもジェイドなら報告書にするような大事なことは覚えてるだろ?」
「当然です。ですが、私の記憶だけ、というと疑ってかかる者もでてくるので」
 そこでこれの出番です。と、ジェイドの白い指が日記の表紙を軽く弾く。
「もっとも、この記録だって実際に起きた出来事であるという証拠はない。穿って見れば幾らでも疑えますが、それでも何もないよりはましです」
 嘘を書くにしても、毎日破綻なく書き続けるのは至難の業ですし。なんて冗談めかして答えるジェイドにそういうもなのかと尋ねればそういうものですと至極真面目に返された。
「人の記憶なんて適当ですからね。私も他人より物覚えがいいだけで、忘れていくことなんて山ほどあります」
 人間の脳はそういう風にできていますと呟いたジェイドの横顔は、音素灯の明かりの所為かひどく寂しそうに見えた。だからつい、余計なことだと分かっていながらも言ってしまった。
「ジェイドもさ、普通に日記書けばいいのに」
「面倒なのでお断りします。同じ出来事を二度も三度も書く暇もないですし」
「ばっさりだな……でも結構書いてると楽しいぜ? そりゃ、毎日退屈だったりすると書くこともなくなるけど、後で読み返してああこんなことあったなあとか、色々思い出したりもできるし」
「……七年も律儀に書いてきた人が言うと重みが違いますねえ」
「茶化すなよ。……いいじゃん、日記に書いておけば俺がいなくなっても俺がいたことは残るだろ。ジェイドの中にも」
 指先が冷たいものに触れた気がした。ぱきりと儚い音がしてその冷たい何かがひび割れる。
 ジェイドの赤い瞳が僅かに歪められて、それがなんだか悲しむみたいだったからルークの心臓が冷たく跳ねる。ごめんと早口で謝って、けれど気まずさは拭えずもう寝るからと白々しいまでの宣言と共にベッドに潜り込む。
 ルーク。
 背中に声がかかる。こつりと足音が響いて、すぐ側にまでジェイドがやってきたのを全身で感じながら息を殺す。ルークが無視を決め込んだことを察したのか。微かに吐息が聞こえて慰めるみたいな声が降ってきた。
「あなたのことだって、ちゃんと書いていますよ」
 その優しいけれどもずれた言葉にぐっとシーツを握りしめて湧き上がる感情を飲み込んだ。そうでもしなければ今すぐにでも飛び起きてジェイドを詰ってしまいそうだったから。
 違う、そうじゃない。
 あんな無機質で冷たい記録に書かれた中にルークはいない。そこに書かれたルークの行動も言動も全部、それはジェイドの中を通り過ぎて行くだけだ。ジェイドの中に残るものじゃない。
 記録じゃなくて記憶がほしいと、そう言えれば楽だったのに。それを望むのはルークの我儘なのだ。

 言葉通り世界中を飛び回るような長くて短い旅を終えてから、ジェイドは小さな手帳を持ち歩くようになった。誰にも見せることのないそれは、いたって個人的な日記帳でもある。
 軍に提出する為の記録とは違う、ジェイドの所感や出来事を書き留めたそれは思いの外書くことが難しく、日記をつけ始めた当初は一週間も経たないうちに投げ出したくなった。同時にこれを七年間毎日続けていた子供のことを思って密かに感嘆する。
 ジェイドの職場はそれなりに忙しい。日々色んなことが起きるし様々な人物とも顔を合わせる機会がある。大なり小なり、その日の分の日記にしたためるような話の種は転がっていてなおこの体たらくなのだから、長い間屋敷に軟禁され、ろくに人と会うことも許されずに退屈な日々を送っていた彼はさぞかし書くことがなかっただろう。
 少なくとも出会った当初のルークは毎日の生活からささやかな楽しみや喜びを見つけられるような人間ではなかった。変わらない日々、定められた将来に対する諦念と退屈に倦んだ目をした子供だった。
 それでも律儀に七年間、医者にいわれたことを習慣として日記を書き続けたルークにならってジェイドもどんなに書くことがなくても日記は続けた。天気のことを書く日があれば、昼に食べた定食を話題にしたこともある。誰にも見せられたものではない拙いそれを書くことに幾ばくかの楽しみを見出したのは日記を書き始めてから三ヶ月は経った頃で、以来ページを手繰って過去の自分が書き付けた内容を読み返しながらここ二年ほど、途切れることもなく日記を書き続けている。
 一言で終わらせることがある日もあれば、数ページにわたって書き綴ることもある。その内容はどれもこれも取るに足りないものではあるが、全てジェイドが残しておきたいと思ったことだ。
 一日の終わりに日記を書くことはジェイドにとっての習慣になり、日記を書きながらエルドラントで別れた子供の困ったような苦笑いを思い出すのもまた習慣になっていた。帰ってきてほしいというささやかな望みは他ならぬ彼に砕かれたけれど、どうして諦めきれずに未だずるずると彼を待っている。
 一言、一行、一ページ。
 インクが白かった手帳を染めていくたびにルークを思い出す。記憶ばかりが深まっていく。彼がいなくなってからの二年間、この手帳は――ジェイドのささやかな日々が綴られた日記は、ルークに伝えたかった言葉の結晶だった。彼がいなくても世界は廻る。彼が守ったから、世界は今日も進み続ける。
 彼のいない日々の隙間を埋めるように、今日もジェイドは日記を書く。いつかルークが帰って来たら伝えたいことばかりが小さな手帳につもっていく。