新しい年

 最後の書類を仕上げて時計を見上げれば針は八時を回っていた。道理で疲れるはずだと深い溜息を吐いて、窓の外を窺うと、黒く塗りつぶされた硝子にくたびれた顔をした自分の姿が見えてもう一度溜息を吐く。
 今日はやたらと忙しかった。一年が終わる日でもあったからか来客がひっきりなしにやってきて、大して実のない年末の挨拶と来年もよろしくという決まりきった文言を口にする。かくいうジェイドとて縦社会の極みとも言える軍に属している以上、如何に面倒とはいえども上層部には挨拶に行かねばならず、何人かの執務室を訪ね、最後にゼーゼマンの元へ赴けば大分疲れているようだなと笑われてしまった。取り繕うことには慣れているつもりではあったが、ローレライデーカンも終わりに近づくにつれて年が変わる前にと駆け込みでの報告書やら何やらの書類が束のようにジェイドのところへ寄越されるので家に帰ることもままならなかった。
 早くて日付が変わった後にやっと帰宅の途につけるといった有様で、その上三日に一度は執務室に泊まりがけだ。
 一つの仕事に取りかかっていると急ぎで別の用件が差し込まれる。余人よりも余程優れているという自覚はあるが、ジェイドとて人間である以上は限界があり不眠不休も続ければ疲労となって蓄積される。それでも今日までに仕事を全て片付けたのはひとえに明日からしばしの休暇を申請していたからだった。
 それも連休を、だ。
 これまで有給を消化しないまま腐らせていたどころか軍で規定された休みすらまともにとらないことがあった男が今年は大人しく新年の休暇を受け入れたことで事務方では大層な騒ぎになったと聞いたがジェイドの知ったところではない。偶々今まで行使してこなかったというだけでジェイドにだって休暇を取る権利はちゃんとあるのだし、文句を言われる筋合いもなければ驚かれるというのも不本意だ。
 いずれにせよ、たびたびやってくる来客の対応に時間をとられつつも全ての仕事を終えたのが夜もやや深まった八時過ぎ。ここから自宅までは十分とかからないので帰宅が遅くなることはない。
 若い頃に買った家ではあるが軍本部の遠くない場所であるという立地を条件に選んだだけあってこういう時には楽だと思う。もっともその距離でさえ帰宅する気が失せるほどの仕事量というのもどうかとは思えども、今回に限っては少しばかり、いや、かなり別の理由が混ざっていることも自覚はしていた。
「……さて、帰りますか」
 このままぼんやりしていたところで誰かに捕まって余計な時間をとられることは避けたい。新しい仕事を押しつけられるなどは尚更に。今年のうちにジェイドがやらねばならない仕事は全て終えたのだから、誰にも文句は言わせない。
 軍から支給されたお仕着せの黒いコートにマフラーを巻く。少し褪せたようなくすんだ緑色のそれは柔らかな手触りと抜群の暖かさを気に入って愛用している。
 今年の秋――暦の上では秋であるものの、その終わりだから実際には冬のはしりのようなものだが――ジェイドの同居人が贈ってくれたものだ。
 巻き込んだ髪の居心地の悪さに、マフラーを巻き直して部屋の明かりを消す。部屋から出れば扉の横にはいつも通り部屋の番をする兵士が立っていて、お疲れ様ですと今年最後になるだろう挨拶をかけられる。
「ええ、お疲れ様です。良いお年を」
「ありがとうございます。カーティス大佐も、良いお年を」
 ここ数日ですっかり聞き飽きた挨拶もこうして近しい相手と交わすと不思議と別のものに聞こえる。眼鏡の奥の瞳を僅かに細めながら軽く頭を下げ、部屋を去った。
 彼はこのまま明日の朝、交代の兵士がやってくるまで不寝番だ。街のあちこちにもいつもより多い数の兵士が年越しに浮かれる人々を見守っている。夜の街はまだ宵の口なのもあるだろうが随分と賑やかで人も多かった。今夜ばかりは夜通し店を開ける酒場も多く、そこかしこから喧噪が聞こえてくる。
 海から吹き付ける湿った風が髪を弄んで通り過ぎ、すっかり冷え切った真冬の空気に首を竦めた。おのずと家路を辿る足が速くなる。吐く息は白く、呼吸のたびに冷えた空気が肺に吸い込まれて体の芯から冷えそうだった。
 常冬のケテルブルクで育ったものの、暮らした時間はもうグランコクマの方がずっと長い。あの雪に埋もれたような街に比べて格段に暖かいこの街の冬でさえ寒さを感じることに、少しばかり老いを感じる。ジェイドももう、四十近い。というよりも年が明けて誕生日がくればいよいよ不惑だ。
 老人と呼ぶにはまだ早いが、それでも若い頃に比べれば無理がたたる年にはなった。随分と中途半端だと思う。若いというには年をとり、さりとて老いを謳うほどでもないというのは。
 それとも、そんな感傷じみたものを抱くようになったのはジェイドなりの家庭とも呼ぶべきものを得たからだろうか。
 玄関先の小窓から漏れる明かりに目を細める。寒さに強張った指先でコートのポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込む。微かな手応えと共に鍵が開いて、ドアノブに手を掛けた。
「た、」
「おかえり、ジェイド」
 ふわりと家の中から暖かい空気と芳しい香りが溢れ出す。ジェイドが何か言うよりも早く出迎えたルークに出鼻をくじかれた戸惑いを飲み込んで、ただいま帰りましたと言いそびれた言葉を返す。
「ジェイド帰ってきたなら今から蕎麦茹でるからちょっと待って」
 ひょっこりと台所から覗かせていた顔を引っ込めた向こうからルークの声がする。ええ、と聞こえるようにいらえを返してコートを脱ぎ、自室にかけた。鞄は机のすぐ側に。リビングに行く前に洗面所に立ち寄って手洗いとうがいをしてから台所を覗けばルークが茹で上がった蕎麦をどんぶりに移しているところだった。
 並べられたどんぶりは二つ。その事実に少しだけ眉をひそめる。
「夕飯、まだとっていなかったんですか」
 先に食べてしまっても良かったのにとぼやけば顔も上げずにルークが笑った。
「ジェイド、今日は帰って来るっていってたから、それなら一緒に食いたいだろ? 一人で食うのも、一人で食わせるのもやだったし」
 褐色のつゆを注ぎながらルークが答えて、あらかじめ準備していたらしい具材をのせる。ルークの十八番の鴨せいろ、は流石に冬場だと少々季節外れ感が否めないので鴨南蛮だ。
 味の方もいわずもがな、だろうか。
 旅をしていた頃、それこそ出会って間もない時はおにぎり一つまともに握れなかった子供が随分と立派に成長したものだと感心してしまう。独り身だった時に比べて幾らかは自宅で過ごす頻度は上がったとはいえ、それでもたびたび家を空けるジェイドに代わってこの家の家事を一手に引き受けているのはルークで、今ではすっかり炊事洗濯掃除も板についている。そのことに罪悪感がないとは言わないが、ルークの方はさして気にした様子もなく自分は居候の身だからと特に不満を口にすることもないので、ジェイドもあえてそのことには触れないようにしていた。
 ルークがこの家の居候などと寂しいことをジェイドは考えたこともないというのに、ルークがそんな風に思っていることに不満を抱いているなどと口が裂けても言えるわけがない。
「はい、これジェイドの分」
 伸びる前に食べよう、と差し出されたどんぶりを受け取ってテーブルに運び、少し遅めの夕食をとる。
 つるりとしたのどごしの蕎麦を啜る。鰹と昆布のだしがきいたかけつゆに外の寒さで冷えた体がほっと温まるような気がした。
 曇った眼鏡を外して箸で掬い上げた麺をまた啜り、しゃくしゃくと程よい食感の葱を噛みしめる。
 ちらりと向かいに座ったルークを窺えば彼は目の前の蕎麦を平らげることに集中していてジェイドの視線など全く気付いてはいないようだった。礼儀作法の教科書にでも載せたくなるような実に綺麗な箸捌きでつるつると蕎麦を啜る姿は不思議と品があって、これでもやはり彼は上流階級の子息だったのだと実感させられる。
 心地よい沈黙の中で進む食事に、自分もさっさと蕎麦を平らげてしまおうとジェイドは目の前のどんぶりと改めて向き合った。

「ごちそうさまでした」
「お粗末さま。今日は早く帰って来てくれて良かった」
「……まあ、今年最後の出勤でしたしね」
 ジェイドと一緒に食べられて良かったと、今更なことを言うルークに本当はもっと早く帰って来るつもりだったのだとは言えずに曖昧な答えを返すに留める。
 ここ最近の忙しさにかまけてろくに相手をしてやれなかったことを咎められるかと思っていたのだが――それがジェイドの家に帰りたがらなかったもう一つの理由であったが――こんな風に嬉しそうな顔をされるとかえって居心地が悪く感じる。基本的にルークがやきもち焼きだというのは短くない付き合いで理解しているし、幾らか大人になって物わかりが良くなったとはいえ、ルークに対するジェイドの態度がぞんざいになればなるほど分かり易く機嫌を悪くするのは旅をしていた頃から変わらない。
 そんな態度も平素であれば微笑ましいものだと受け流すことも可能だが、忙しくなればなるほど相手をする時間も減れば、そのための余裕もなくなっていく。特にここ数日は仕事の忙しさを優先した自覚はジェイドにもあったので小言や嫌味の一つ二つ、拗ねたルークから投げつけられるのは覚悟していたのだけれども、こうも正しく理解を示されてしまうと逆にどう反応していいのかも分からない。
 せめてもの罪滅ぼしに片付けくらいはしますよと立ち上がれば逆に疲れてるだろうからジェイドは休んでいてと席に戻されて落ち着かない。どんぶりから箸からグラスまで、食器は全部ルークに持ち去られてしまって、手持ち無沙汰になったジェイドはとりあえず食卓からソファへと場所を移した。
 ふかふかと柔らかいソファがジェイドを包んで自然と体から力が抜ける。程よくぬくまった室温にすっかり温められた体は腹が満たされたこともあってか眠気が声高に主張してくる。このままではいけないと頭では分かっていてもすっかりソファに預けてしまった体はもう起き上がることさえ億劫で、かろうじて首を振ってみたところで眠気が飛ぶのは一瞬でしかない。
 せめて寝るのならばこんなところではなく寝室へと考えたところでそうではないということを思い出す。今日はまだこの後出かける予定があるというのに、ここで寝てしまうというのは流石にまずい。
 うつらうつらとしながらジェイドが眠気と戦っていると洗い物を終えたルークが戻ってきた。
「……ジェイド、眠い?」
「いえ、少し疲れが溜まっているだけですから。大丈夫ですよ」
 答える声は我ながら頼りなく信憑性にも欠ける。
 微かにルークが眉を寄せ、壁に掛けられた時計を見上げる。つられてジェイドも見上げれば、針は九時半すぎを指していた。出かけるにしても少し早いなと、ぼやけた頭で考える。ああけれど、外に出れば寒さで眠気も吹き飛ぶのではないだろうか。それなら散歩でもしてこようか。
 ジェイドがそんなことをとりとめもなくつらつらと考えていると時計から視線を戻したルークが寝室からブランケットを持ってきてジェイドに被せた。
「疲れてるなら少し寝てろよ。何時頃に起こせばいい?」
「……それでは、十一時に」
 柔らかな手触りのブランケットに包まれて、最後に残っていた意識さえぬるい眠りにとけていく。半ば呂律の回らなくなった舌でお願いしますと呟いた声ははたして最後までルークに届いたかも怪しいけれど、そんなことを気にするよりも先にジェイドの意識は落ちていった。

 ゴーン、と遠くで鐘の音がする。
 夢うつつの中で聞いた、ひび割れたような低いその音が鼓膜から脳髄を震わせて、ジェイドの意識を眠りの淵からゆっくりと引き上げていった。
 は、小さく息を吐いて目を開ける。
 夜の街に響く低い鐘の音はどうやら夢の中のものではなかったらしい。
 目覚めたものの未だ覚醒には至らない頭でぼんやりとまばたきを繰り返し、周囲を見渡せばすぐ側に何故か気まずい顔をしたルークがいた。一体どうしてそんな顔をしているのか分からず僅かに眉を寄せれば、ジェイドの小さな表情の変化を別の意味だと誤解したルークがごめんと即座に謝罪する。
 ますます意味が分からずどうかしたのかと問えば、やはり気まずそうに時間がとそれだけ口にしてルークは黙ってしまった。
「……じかん?」
 時計を見上げて、それから徐々に動き始めた頭で考えて、今が十二時を回ったところだということに気付く。同時にジェイドを起こした鐘の音の意味も理解した。未だ鳴り続けている鐘は一年の終わりから、新しい一年への日付が変わった、つまり新年を迎えたということだ。
 オールドラントでは新年を迎えた後、ローレライ教団の下へ詣でる風習がある。元々は始祖ユリアへの挨拶、そして今年一年のことに関する預言を詠んでもらうためのものだが、預言がなくなった今でも人々は新年を迎えるとローレライ教団の教会へ訪れるのが習慣となっていた。預言を詠まれることはないが、宗教というのは人々にとってはよりどころらしく、詠師からの祝福や加護を祈る言葉を楽しみにしているらしい。
 本人たちに殆ど信心などないとはいえどもルークもジェイドもローレライ教を信仰していることにかわりはなく、折角なので今年は教会の方で新年を迎えようという話をしていた。そのためにジェイドは多少の残業はあったものの早く帰れるようにしたというのに、結局寝過ごして家で新年を迎えるというのはあまりもお粗末な話で、自分の間抜けな失態に舌打ちの一つでもしたくなる。
「起きなかったならソファから蹴落としてくれても構わなかったんですがね」
 自らの失敗に対する苛立ちが棘となって声に含まれる。あまりよくはないと思いつつも口にした言葉に、ルークが怯んだように身を竦めた。
「そんなおっかないことできるかよ。それに……」
「それに?」
「ジェイド、疲れてるみたいだったから」
 言い訳がましく口にされた言葉はけれどジェイドを気遣うもので、別にそんなもの約束を反故にしてまで優先すべきようなものでもないだろうとは思えども、そんなことを言えばルークの機嫌を損ねることは十二分に知っている。
 家に帰って来てからの態度から考えるに、どうせこの面倒臭い男はここ数日ジェイドが忙しかったのは自分の所為だなどと傲慢なことさえ思っているに違いない。それは決して正しくはないというのに。
 ジェイドが忙しかったのは単純に平素よりも仕事量が増えたからだ。確かに幾ばくかの理由の中にルークと過ごす時間を捻出する為だというのがないとは言えないが、それだけであれば幾らでも調整はきく。今回それができなかったのは単純に、時間の調整をしても収まり切らないほどの仕事を押しつけられたからであって、ルークが直接の原因な訳ではないのだ、決して。
 ゴーンと最後の鐘が鳴って静まり返る夜の闇に、教会に向かうだろう人々の喧噪が微かに聞こえた。
 夜はよく音が通る。街の中心部からほど近いこの家にも新しい年を迎える人々のざわめきが届くのはそうおかしい話ではなかった。
「それで、どうします? 今からでも教会に行きますか?」
 ルークに聞きながらも内心では少しばかりうんざりしていることは否めない。
 何せ、新年を迎えた当日の教会というのはとにかく混雑する。それなりに広いはずの敷地にみっちりと人が詰め込まれて押し合いへし合いの中でユリアへの挨拶をすませるのだ。加えて今は夜である、当然ながら昼間よりも気温は低い。
 ぬくぬくとした家の中ブランケットとソファに包まれて束の間の眠りを貪った体はまだ少し気怠く、何よりこの暖かな家から出て寒空のした見知らぬ人々と密着するにはジェイドは少しばかり疲れていた。それでも最初の約束は約束なのでできればルークの意思を尊重してやりたいと思う程度にはジェイドにだって人の心は備わっている。
 あなたに任せると言外に含ませてルークを見上げれば、教会に行くのは昼間でいいと何とも殊勝な答えが返ってきたので、それでいいのかと聞き返そうになった言葉をかろうじて飲み込んだ。
 それでも、ジェイドが訝る気配は察したのだろう。別にどうしても新年すぐに行きたいわけじゃないからと言い訳がましい口ぶりで答えた後、そんなことよりもと些か苦しい話題の転換にこれ以上聞くのも申し訳なくなって大人しく乗ってやる。
「その……ジェイド、明けましておめでとう」
「ええ、明けましておめでとうございます」
 それはありふれた新年の挨拶だ。
 家庭でも職場でも或いは友人と出会った時でも年が明けてすぐの挨拶の定番だ。特段ありふれたものではなく、それまでの話の腰を折ってまで優先させるものでもない。
 けれどルークはあまりにもそれをまるで何かの告白のように大事そうに口にするので、つられてジェイドの返事も厳かなものになる。それをルークが気に入ったのかは分からないが、くしゃりと嬉しそうに歪んだ顔と一番乗りだと呟いた言葉にルークのささやかな喜びを垣間見て、ついジェイドの口許が緩んだ。
「ルーク」
「うん?」
「今年もよろしくおねがいします、ね」
 今年だけでなく来年もその次も、願わくばこの先ずっと。なんていうのはジェイドの感傷に過ぎないから口に出すことはしないけれど。願う心は本物だった。