器用さのご褒美

 家に帰って来たらルークがなにやら真剣な顔をしてテーブルに着いていた。緑の目がちらりとジェイドを見上げるが、何か食べているのか閉じたままの口許はもごもごと動いて不明瞭な声を発するのみである。遅めの夕食でもとっているのかとテーブルに視線を落としても料理などはひとつも並べられてはおらず、そのかわりさくらんぼが盛られた小皿がちんまりと置かれていた。つやつやとしたそれは瑞々しく、実においしそうな甘い香りを振りまいている。
「ああ、もうそんな季節なんですね」
 ひとついただいてもいいですかと一応程度の断りを入れて手を伸ばす。断られることはないだろうと分かってはいるもののルークが相変わらず口を閉ざしたまま、ん、と小さく頷いて承諾の意を示したのを確認して伸び果柄をつまんで持ち上げた。ぷちりと果柄を外して、赤く色づいた実を口の中に放り込む。
 柔らかな果肉に歯を立てるとぷつ、と微かな抵抗と共に甘酸っぱい味が口の中に広がった。今年はどうやら当たりの年らしい。歯に当たる種を取り出してゴミ箱に捨て、そこでふと気付く。先程からルークはずっと口を開けていない。その割には相変わらずもごもごと口許はせわしなく動いているので何か含んだままだというのは察せられるが、テーブルに置かれているものを見る限り咀嚼にそう時間がかかるものではないはずだ。
 一体何をしているのか、不思議に思って訊ねてみれば一瞬決まりの悪そうな顔をした後、ルークは渋々といったように口の中のものを吐き出した。
「……なんてもの食べてるんですか」
 呆れ混じりの溜息と共に、やはり呆れ混じりの言葉が漏れる。ルークが吐き出したのは確かにさくらんぼの一部ではあるが、甘い果肉でもなければその中に収まった種でもなく、そもそもそれは可食部ですらない、果実にくっついた果柄の部分だった。
 一体何故、どうしてそんなものを食べようとしていたのか。
 物事の道理も分からぬ赤ん坊でもあるまいし、自分が今何を口にしているか分からないわけがないだろうにそんなものを延々と口にしていたのかと思うと呆れ以外の感情が湧かない。恋人の突拍子もない行動と仕事の疲れも相まって知らず眉間に皺が寄る。思いの外自分が厳しい顔でもしていたのか、叱られるとでも思ったらしいルークが焦ったように言い訳を口にした。
「その、今日夕飯の材料の買い出しに行ったら八百屋のおじさんからおまけでさくらんぼもらったんだよ」
「そうですか」
「それで、ちょっと話し込んで……それでそのとき教えてもらったんだ。さくらんぼの軸で結び目を作れる人は――が上手いって」
「……はい?」
 一瞬、意味が飲み込めず些か間抜けな声が出た。迷信というには可愛らしすぎるそれに対してどう言葉を返せばいいのか分からず、気の抜けた返事しか出来ないジェイドに馬鹿にされたとでも思ったのか、微かに顔を赤らめたルークが吼えるように同じ言葉を繰り返した。
「だからっ、さくらんぼの軸で結び目を作れる人は、キス……が上手いって! 教えてもらったんだよ!」
 それでも核心の箇所では幾らか声が小さくなるのが実に可愛らしい。
 どうやらルークはその言葉を信じて今まで結び目を作ろうと格闘していたらしかった。実に涙ぐましい努力だと思う。もっともその方向性が間違えているだろうことにはあえて口を挟むつもりもない。どうせ何を言ったところで藪蛇になるのが目に見えているのだから、彼が自分の状況と現実を理解するまでは適度に面白がりなら見守るのもそう悪くはない。別段ジェイドに害のあることでもないので、放っておいたところで問題も起きないだろう。
 だから反射的に浮かんだ、そんなことを真に受けて今まで結び目を作ろうとしていたなんて馬鹿なんですかと、何よりも直接的に彼を傷つける言葉はすんでのところで飲み込んで、結び目は作れたのですかと結果を訊ねれば案の定ルークはただでさえ赤くなっていた顔を更に赤く染めて俯いてしまう。
 言葉では何一つ返されてはいないが、無言の反応は何よりも雄弁な答えだった。そもそも器用に結び目を作ることができていたら彼は今頃までさくらんぼと格闘などしていなかっただろう。
 黙ってしまったルークをよそに、ジェイドはまた一つさくらんぼをつまむ。ぷちりとその果柄を外して、赤い果実をつまんだままルークの名前を呼んだ。ちらりと顔を上げたルークの口にさくらんぼを押しつけて、自分は残った果柄で輪を作り、そこに果柄の端をくぐらせる。できた結び目は当然緩いが、両端を引っ張ってやればきゅっと小さく堅く結ばれた。
「あなたが作りたかったのはこれですか」
「……そう、だけど」
 つまんで見せた果柄を前に種を捨てながらルークが少しばかり目を伏せる。結び目を作れなかったことが悔しいのかもしれない。ジェイドにはどうしてそこまでこだわるのかも分からないが。
 ジェイドは別段、ルークとのキスが不満ではない。そもそもその巧拙に関して強く気にしたこともない。
 確かに技巧を凝らすこともない口付けであるが、年若い恋人の精一杯をぶつけられているようで満更でもないし、この年になってそんな風に誰かから情熱的に求められるようなこともないため逆に新鮮でもあった。特に、それまでジェイドがそのようなことをする相手は皆揃って弁えた人間ばかりであったから、噛みつくような縋りつくような、一欠片残さずジェイドを食らい尽くさんばかりの勢いだけの口付けは若く青臭く、一途なルークそのもので好ましいとさえ思っていた。
「キスなんて愛情さえ込めておけばいいんですよ」
 そう言いながら結び目のできた果柄を捨てる。
 だがジェイドの言い草は癇に障るものであったのか、何だよそれと不満げな声を上げるルークの素直さがおかしくて、笑い出したいのを堪えながら答えた。そのままの意味ですよ。
 愚直な努力だ。それを無駄だと言ってしまいたくはないけれども見つめている先が明後日の方向では無駄と言わざるを得ないだろう。何せ他ならぬジェイドの言葉にも耳を貸してくれないのだから。
「そんなことができたって、何の足しにもならないということです」
 こみ上げるおかしさを飲み込んで、どうにか平静を装って出した声は思いの外冷たく響いた。呆れているようにも聞こえたかもしれない。その声にますます機嫌を損ねたルークが露骨に顔をしかめるが、ジェイドとしてはどうしてこちらの言い分を聞き入れてもらえないのかそちらの方が気になって仕方がない。
 ルークが一番気にしているだろうことに、答えを与えているというのに。
「そんなこと言うからにはジェイドはできるんだろうな」
 分かり易く不機嫌さを滲ませるルークの顔をちらりと見て、それから皿に盛られたさくらんぼを見下ろす。
「さあ、どうでしょうか。私も試したことはありませんし」
 できないかもしれませんね、ととりあえず現状における事実を口にすればルークはそれ見たことかと言わんばかりの顔をしているので、あまりにも分かり易い表情の変化に今度こそ笑いを殺すことができずについ漏らしてしまう。低く震えた喉を誤魔化すように空咳をしてみたもののジェイドが笑ったことは即座にルークにもばれてしまい、じっとりとした緑の目が睨め付けてくる。
「できなかったら馬鹿にしたこと謝れよ」
「それじゃあ、私ができたらご褒美下さい」
 とびっきりので頼みますよ、なんてたまには本気で冗談でも言ってみるものだ。ご褒美に何をねだられるのかを考えたルークが反射的に身構えるが、一度飛び出した言葉は取り戻せず、やっぱり今のはなしだったとルークが口にするよりも早くジェイドはさくらんぼを一つつまんで、青臭さの残る果柄を口に放った。
 思いの外固い果柄と微かに感じる青さに眉根を寄せる。
 先程指で作った結び目をイメージしながら細いそれを頬裏に押しつけ、口の中でもごもごと格闘することしばし、どうにかこうにか輪の形を作り、そこに片端を通してようやくそれらしいものを作ることができた。もっとも口の中を確認することはできないから本当に結び目になっているかどうかは分からないけれど、舌先で弄ったところで解ける様子もないので大丈夫だろうと信じてそれを口からつまみ出す。
 手のひらに取り出した果柄は幾分か緩くはあったものの確かにジェイドの想像通りの形をしていた。
 自分で言いだしたことながら本当にジェイドが結び目を作るとはルークも思っていなかったのだろう。ぽかんと驚いたような顔をしてじっとジェイドの手のひらの上を見つめている。
 彼の方はジェイドが帰って来るまでそれなりの時間挑戦していたからというのもあるのかもしれない。だが、約束は約束であるし、何よりこれは元々ルークが言いだしたことだ。その分きっちり責任はとってもらうべきだろう。
「ルーク」
 名前を呼べばぎくしゃくとぎこちなくルークの視線が手のひらからジェイドへと向けられる。その顔に、わざとらしくジェイドはたっぷりの笑みを浮かべた顔を向けてやった。
「約束ですよ、ご褒美を」
「……お手柔らかによろしくお願いします」
凄みのあるジェイドの笑顔におののきながら振り絞られた声は手心を求めるもので、一体どんな無理難題をふっかけられると思っているのかと勘ぐってしまう。この程度で機嫌を損ねるほど子供ではないつもりだが、先程の笑みは流石に少し大人げなかったかもしれないと思わないでもない。
 別にとって食おうなんて思っていませんよなんて気持ちが全く籠もってない慰めを口にしてもどうやら今のルークには逆効果のようで、俺が悪かったからと殊勝な謝罪まで飛び出されればまるでこちらが虐めているようではないかと内心溜息を吐きたくなる。このままやりとりを続けていたところでジェイドが悪役になるのは目に見えていて、ならばさっさとご褒美をもらってこの話は終わりにしてしまおうと考えた。
 もとよりそう長引かせる話でもない。
 作ったばかりの結び目はゴミ箱に放り捨ててルークの側に寄る。座っている分いつもよりも大きく開いた身長差を縮める為に少し屈んで彼の顔に手を伸ばした。指先で唇をなぞり、無遠慮に割り開いて指を潜り込ませる。
 口内が圧迫される苦しさからか、微かな喘ぎ声がする。あえやかな吐息に少しだけ溜飲が下がる思いで指を引き抜き、その顎を掬い上げて口づけた。
 温かな口内には果実の甘さがほんの少しだけ残っているような気がする。もしかしたらそれは錯覚だったかもしれない。驚いたように見開かれたルークの目をじっと見つめながら舌を潜り込ませる。
 ぬるりと絡めたジェイドの舌を追って、一拍遅れてルークの舌がついてくる。微かに角度を変えて絡ませあい、時折気まぐれに甘噛みする。こぼれ落ちる吐息すら全て吸い取って、呆然と投げ出された右手にそっと指を這わせれば微かに震えたルークの手がきゅっと縋るように握りしめてくる。
 そのほんの些細な仕草に思わず心臓が跳ねたのはここだけの秘密だ。
 ジェイドを見上げる緑の瞳が潤んで、吸い込んだ光をきらきらと反射する。どこかまだ惚けたようなその目の中に自分の影が映っているのを確かめて少しだけジェイドは笑った。
「……ご褒美、ありがとうございます」
 たっぷりと時間をかけた口付けに満足したところでルークを解放してやる。微かに顔を赤らめたルークの息は荒く、自分がジェイドに何をされたのかまだよく理解できてはいないようだった。
「さっき言ったじゃないですか。キスなんて愛情さえ込めておけばいいのだと」
 少し前にルークに告げた言葉をなぞれば、今度こそ彼はその意味を正しく理解したらしい。今や皿に盛られた果実の如くその顔は真っ赤だ。ぱくぱくと声もなく口を開けては閉じるを繰り返していたルークはしばらくしてやっと言うべき言葉を見つけたのか、どうにか反論を試みたけれどそれはジェイドの耳にはただの言い訳にしか聞こえなかった。
「でも、やっぱり好きな人とするならちょっとでも上手くなりたいだろ」
 いじらしい彼の言い分を好ましく思う。殊勝な態度も愚直な努力も決して嫌いではない。けれどそれはきちんと正しい方向を向いていたらの話で、それが斜め右ばかり見つめていたら面白くないと思うのはジェイドが悪いというわけでもないだろう。
「……キスが上手くなりたいのでしたら、あんなことをするよりも私と練習した方がよっぽど近道ですよ」
 濡れたままの唇をなぞって、これ見よがしに舌先で口許を舐めとれば生唾を飲み込む音が聞こえる。分かり易い反応に腹を抱えたくもなるが、痛い程の熱を帯びた視線が向けられていたらそれも叶いそうにない。
「だって、あなたが満足させたいのは他ならない私でしょう」
 自惚れではなく、厳然とした事実を口にすればルークは赤くなって俯いてしまい、一の言葉で十悟らせるが如き露骨なまでに分かり易い反応はあまりにも可愛らしくて名前を呼んで顔を上げさせる。恨みがましい緑の目はこの際見なかったことにして未だ赤みの残る頬に一つ、それから不意打ちに惚けた唇に口づけて告げる。
「あなたの練習なら幾らでも付き合いますよ」
「……っ、ジェイド!」
 感極まった、ほんの少し余裕のない声に名を呼ばれ、答えるより先に塞がれた唇は若いばかりの勢いと技巧を凝らすことのない拙さばかりが目立つけれどもその必死さが何よりも可愛いのだというのはジェイドだけの秘密であった。