夜更けの傷痕

 ダアトの夜は静かだった。ローレライ教団の総本山があるからなのか、この街には歓楽街と呼べるような場所はなく、旅人向けの酒場が数軒あるだけだ。慎ましやかな街は、その数えるほどしかない酒場が店仕舞いをしてしまうと他に行く場所なんてなくて、途端に人の通りも絶える。
 少し前まではそれなりに賑やかであった宿のすぐ側の通りの方へじっと耳をすましてみても今はもう人の声も物音もしない。精々聞こえるのは虫の鳴き声くらいなもので、まるで世界の全てが寝静まったような錯覚に陥った。今この夜闇の中で目を開けているのは自分だけなのではないのかと、妄想じみた考えが脳裏を過ぎったものの緩く頭を振ってその考えを振り払い、頭から毛布を被りなおす。
 ここに誰か、誰でもいい。誰かいてくれたのならきっとルークのそんな馬鹿げた考えも笑い飛ばしてくれただろうに、こんな時に限って部屋には誰もいなかった。当然だ、今日のルークは一人部屋があてがわれた。ルークだけじゃなくて他の皆もそうだ。
 皆それぞれ考えたいこともあるだろうと言ったのは誰だっただろうか。
 ジェイドか、インゴベルト陛下か、それともピオニー陛下だったか。或いは、トリトハイム詠師だったかもしれない。気を遣われていることくらいはルークにだって分かる。何せ、明日になったらルークは死ぬのだ。
 レムの塔に登って、そこで一万人のレプリカたちを道連れに障気を中和する。それが明日のルークの役目だった。第七音素を使った障気の中和なんて、普通の第七音譜術師だったらまず肉体が絶えられない。レプリカであるルークならば尚更だ。中和と共にルークの体を構成する第七音素は解けて空に還る。
 音素の結合が緩めば人は死ぬ。レプリカだって変わらない。ルークは死ぬ。塔に登った、他のレプリカたちと同じように。
 それが恐ろしかった。死ぬという実感もないくせに、明日の先を考えられないことが恐ろしかった。他の誰もにくるはずの明日の向こう側を望めないことがいやだった。そして思う。自分が今まで殺してきた人たちも、死を看取った人たちも皆、同じような怖れを抱いていたのだろうか。
 オラクルの兵士、マルクトの兵士。イエモンさんたち。シェリダンとベルケンドの人々。名前も知らない野盗に盗賊。フリングス少将、そしてイオン――空気に溶けるように、解けていったルークのともだち。
 イオンがいた場所には骨どころか髪の毛一筋残らなかった。まるで最初からいなかったかのように消えてしまった。それがルークにとっては何よりも怖かった。
 死ぬということをルークはまだ理解しきれていない。命が終わるということ。自分の思考や感情が途絶えるということは分かっている、つもりだ。けれどそこに対する実感は乏しい。そんなルークにとっては明日自分が死んだとして、全てが終わることよりも自分の何もかもがなくなってしまうことの方が何倍も怖かった。
 レプリカは骨の一欠片、髪の毛の一本残せない。ルークが死んでしまえば後に残るものは何もない。そうしていつかはルークがいたことすら薄れて消えていくのだろう。この七年間、ルークがアッシュの居場所を上書きし続けていたように。
 被験者の居場所を奪っておいて、自分が消えることが、そうして自分の居場所がそのままなくなってしまうことが嫌だなんて我儘もいいところだ。それはルークが望んでいいものではない。ルークはアッシュの居場所を奪って生きてきただけで、ここだって本来ならばルークがいるべき場所でもないというのに。
 ルークが消えるのは障気の中和と引き換えだ。
 結果、障気は消える。一万人のレプリカも消えて、人口の問題だって多少は軽減する。残ったレプリカにはちゃんとした居場所が与えられて、ついでにアッシュは元の場所――ルーク・フォン・ファブレに戻れる。いいことずくめだ。ジェイドだって言っていた。
 ジェイドの言葉はいつだって正しい。個人的な感情を排して、一体何が現状において最善かを見定めた公正な判断に基づいている。だからこそ、その判断とは真逆の、彼の正しさに罅を入れたような謝罪が頭から離れなかった。すみませんと、彼がこぼしたその声が今でも耳の奥で反響している。ジェイドが謝る必要なんてどこにもないのに。
 まるで寄る辺のない子供のような声をして、「私は冷たいですから」なんて、自分を責めるようなことを口にした。ジェイドのあんな声を聞くのは初めてで、そしてあれが最初で最後になるのだろう。明日にはもう、ルークは死ぬのだから。
 そうだ、死ぬのだ。
 もう二度とジェイドのあんな声を聞くことはない。すみませんと、頼りなく謝られることもない。
 けれどそれは裏を返せばもう二度とジェイドと話せないということでもあった。もうどんな言葉も告げられない。どんな言葉も重ねられない。何一つ、ジェイドに伝えられない。何よりもジェイドと交わす最後の言葉がそんな寄る辺のない謝罪であるなんて絶対にいやだ。
 だけれども、ルークの終わりは目と鼻の先で、残された時間はあまりにも少ない。そう思ったらいても経ってもいられなくて、ルークはそっとベッドから抜け出した。素足に夜気の冷たさが染み入る。寝間着の上に上着をはおって部屋を出た。すぐ隣はガイの部屋で、その向こうがジェイドの部屋だった。今夜は珍しく全員に一人部屋があてがわれたから、相手の同室者のことを考えなくてすむのはありがたい。
 小さく深呼吸して気持ちを落ち着け、軽くドアをノックする。しんと静まり返った廊下に乾いた音が響いたけれど、その後何の音もしなかった。よくよく考えてみれば今は深夜だ。明日に備えて皆眠りについていたっておかしなことではなく、きっとジェイドも眠ってしまっているのだろう。
 勢い込んだ気持ちが急速にしぼんでいくのを感じながら自分も寝ようと踵を返す。明日寝不足で中和に失敗したなんてことになったら目も当てられないのだからと自分に言い聞かせて、未練がましく部屋に帰るのを渋る足を引きずって自分の部屋の前に立った、丁度そのときだった。
 かちゃりと小さな音がして、一つあけた向こうの部屋から廊下を覗く白い顔と目が合った。
「気のせいかとも思ったのですが、どうやら気のせいでもなかったようですね」
 静かな声が他に何の音もしない廊下に響いて思わず声を上げようとしたけれど、すんでのところで口を塞ぐ。急ぎ足でジェイドのところまで戻ってごめんと小さく謝った。
「……まったく、今何時だと思っているんですか」
「ごめん」
 やっぱり眠っていたのを起こしてしまったのだろうかという申し訳なさと、ジェイドがドアを開けてくれた嬉しさがない交ぜになりながらひとまず先に謝罪を告げて、それから部屋に入ってもいいかを尋ねる。ジェイドは束の間沈黙した後、構いませんよと答えてドアを開けてくれた。
 促されるまま中に入る。部屋の中はテーブルに置かれた音素灯の明かりが灯っているだけで薄暗い。もしかして寝ていたのかと部屋の音素灯に明かりをつけるジェイドに聞けば、明日は忙しいですからと何気なく返された。
「用を済ませたらあなたも早く寝なさい。あなたが失敗しては元も子もないのですから」
「あー……うん、分かってる」
「それで、何の用ですか?」
 ベッドに腰掛け、ジェイドが尋ねる。ルークも少し迷ってからジェイドの隣に腰掛けた。
 子守歌をご所望なら私よりもガイの方が適任でしょう。軽口めいた言葉の割に、その声音は硬い。まるで拒絶されているようだった。距離をおかれていると思ったのははたして思い過ごしだろうか。それとも、この期に及んで何かジェイドを怒らせるようなことでもしてしまっただろうか。我が身を振り返ってみたところで思い当たる節もなく、仕方なくルークは一番可能性が高そうなものに当たりをつけた。
「寝てるところ起こしてごめん……今日が最後だって思ったら、少しジェイドと話したくなったから、ちょっとだけ付き合ってほしいんだ。すぐに終わらせるし、明日にはちゃんと」
 できるだけ明るく話そうと思ったのに、喋っているうちに段々と舌が重たくなっていく。言いたいことと言うべきことが混ざり合って何を言えばいいのか分からなくなっていく。焦る気持ちが舌に張り付いて余計に上手く動かせなくなる。
 ひゅる、と細く喉が鳴いて、それからようやく会話を続けた。
「ちゃんと死ぬから」
 ルークの言葉にジェイドの眉が微かに跳ねる。
 違う、こんなことを言いたいわけじゃなかった。ちゃんと障気を中和してみせるから安心してほしいと、そう言いたかったのに口からこぼれた言葉はもう取り返せない。上手い言い訳すら思いつかない。喉が震える。声が出ない。そんな顔をさせたかったんじゃない。気持ちばかりが焦って舌がもつれる。どうにか発した声はひどく震えてまるで嗚咽のようだった。みっともないと頭の中でもう一人の自分が罵る声がする。
 違うのだと、縋る気持ちでジェイドの手を握りしめる。不思議と抵抗はなかったけれど、それが何故かなんて今のルークには考える余裕もなかった。ほんの少しだけ、力が込められたジェイドの手が緩くルークの手を握り返す。
「死にたくないと、言ってもいいんですよ」
「……っ!」
 温かさも冷たさも感じない、実に平坦な声でジェイドはそっと囁いた。それは慰めるようにも聞こえたけれど、それと同時に突き放すようにも聞こえた。一体、そのどちらが正解なのかなんてルークには当然分かるはずもなく、ジェイドの言葉に困惑するばかりだ。俯いていた顔を上げ、まじまじとジェイドを見つめるルークに、見つめられている当の本人は少しだけ表情を緩めて口を開いた。
「私は優しい人間ではないので、あなたの弱音も泣き言も、全部聞かなかった振りをして差し上げます」
 そうして明日、例えあなたがどんなに泣いて嫌がろうとも、引きずってでもレムの塔へ連れていきます。
 だから今、この夜の静けさに、この闇の暗さに任せて胸の内を全てぶちまけてしまえばいいのだとジェイドは言っている。死に対する怖れも自分が消える恐怖も、本当は死にたくないと願っている弱さも全部。今夜ここでぶちまけたルークの全てをなかったことにして明日を迎えさせてやると言っているのだ。
 そんな惨いことできるわけがない。ルークの舌が再び凍り付く。一度起きてしまったことは取り戻せない。一度発した言葉だって本当になかったことにはできない。例え表面上その振りができたとしても真実、それを取り消すことなんてできはしないのだ。それが分かっていてどうして弱音なんて吐けるだろう。
 ジェイドの中に残るルークの最後の姿がそんな情けない、弱いものだなんていうのは絶対にいやだった。そんな風に哀れまれて死ぬのだけはいやだった。可哀想なものを見る目で見られて、可哀想な子供のままで死ぬくらいならいっそ強がりでも何でもいいから笑ってゆきたかった。
 そうしてジェイドの中に未来永劫消えないものとして刻まれたい。
「泣き言なんて言ったりしないよ……もう決めたから」
 だから今のルークは嘘だって吐ける。本当は怖いしできるのならば死にたくなんてない。けれど、誰かが死なねばならないのならそれはルークであることがきっと一番望ましいのだろう。
「ジェイドはさ、確かに優しいとは言いがたいけど、でもジェイドが自分で思ってるほど冷たい奴でもないだろ」
 本当冷たい奴は謝ったりなんてしないだろうと、出かかった言葉は飲み込んだ。あんなに寂しそうな声ですみませんなんて言ったりしない。それはジェイドの本質が優しいということの証明ではないだろうか。本人が気付いてないだけで、ジェイドだって十分に優しいのだと思う。
 何よりも、あれがジェイドの本心の吐露だというのならば、それは確かにルークの望むものだった。
 ルークの生を願ってくれた。結局ルークはそれを振り切るはめになるけれど、それは仕方の無いことだ。慰めの言葉を口にしないかわりに、手を握る力を強くする。ほんの少し視線を上げれば長い髪の向こうに白い顔が見えた。眼鏡越しの赤い瞳に温かな光が灯っている。
 ジェイドの顔がすぐ側にある。手を伸ばせば触れられる。少し背を伸ばせば口付けだってできる。そう思ったら我慢なんてなった。
 ギシリと重たくベッドが軋んだ音がして、ジェイドが逃げる。彼が顔を背けたために口付けはできなかった。唇の端にほんの僅か触れただけだ。僅かに掠めた温もりを名残惜しく思いながらジェイドから身を離す。
「ジェイドが背中を押してくれた」
 友人としては死んでほしくないと、ジェイドが言った時、ルークの心は決まった。死にたくない。けれどルークはしななければならない。残すのならばレプリカよりも被験者。ジェイドは正しい。けれどその正しさの中で、ジェイドの気持ちは置き去りだ。だからルークがもらっていくことにした。全部勝手に決めたことではあるけれど。
「俺のこと、忘れないで」
 その言葉を口にした瞬間、さくりとジェイドの中のやわらかいものに鋭い刃が突き刺さる音がした。
「俺のこと、全部覚えていて」
 たった今口づけたその温度も柔らかさも全て。ジェイドの言葉がルークの背中を押したことも、そうしてルークを死に追いやることも。何一つ取りこぼすことなく覚えていてほしいなんていうのは無理な話で、突き詰めればそれはルークの我儘でしかない。
 だけれども、哀れまれるだけの記憶なんてまっぴらだ。
 ルークはジェイドの中に残りたい。美しい思い出として、或いは残酷な傷として。誰よりも深いところを抉って二度と消えることの無いものを刻みつけたい。
 この先も続く彼の人生において、触れれば痛む傷になりたい。ジェイドの心臓の、最も奥深く、柔らかで脆い部分に刺さって抜けない棘になりたい。ここで死んでしまうのならば、永劫ジェイドの中に残り続けるものになりたかった。