美しいゆび(とあるメイドの話)

 カーティス大佐が一体いつからその指輪をつけているのかは誰も知りません。
 そもそも、マルクト帝国の軍人であり、皇帝陛下の信頼篤いあの方が陛下の御前に上がる際には、どんな時でもあのトレードマークとも言える青い軍服を崩すことなく着込んでいるのが常でした。
 ですのでその軍服の下に一体何を隠しているのかなんて、本来わたくしどもは知るよしもありませんでした。
 実際、わたくしがその指輪のことを知ったのも、ほんの些細な偶然によるものなのです。
 その日のグランコクマは朝方こそ晴れてはおりましたが、昼を過ぎた頃から天気が崩れ始め、夕刻の頃にはまるで空にかかった川が氾濫を起こしたような、大層な土砂降りとなっていました。
 そのような天気でしたので、当然カーティス大佐も傘をさしておいででしたが、如何せん横殴りの雨を前にしては気休め程度にもなりません。
 彼の軍服の上着もすっかりと濡れそぼち、鮮やかな青色など見る影もないほどに色を変えていました。
 間が悪いことにピオニー陛下は謁見の間で客人のお相手をしており、もうしばらく待たねば部屋に戻ってこられそうにありませんでした。
 このような日に謁見をする者も可哀想とは思いますが、余程火急のものでもない限り、謁見には事前に日時の指定がされるので、直前になって今日は天気が悪いから別の日にしてほしいなどとは言えません。致し方のないことでしょう。
 特に急ぐ用事でもないからと、カーティス大佐は謁見の終わりまで陛下を待つと仰いました。とはいえ、外からそのままやってきたカーティス大佐は横殴りの雨に晒され、見事なまでの濡れ鼠となっていましたので、そのままの格好でいさせるのはわたくしども王城勤めのメイドの沽券に関わります。
 幸いにもここは王城であり、万が一に備えて客人用のお召し物も用意されています。
 濡れてしまったものはお着替え下さいとわたくしが申し上げたところ、カーティス大佐は少しばかり困ったようなお顔をされましたが、これがわたくしどもの仕事ですからとお伝えすれば納得されたようでした。
 それではと、濡れた上着を脱ぎ、彼の手を覆う長いグローブを外し、わたくしに預けて下さいました。
「よろしくお願いします」
 そのときでした。カーティス大佐の左手に輝く指輪を見つけたのは。
 銀色に輝くリングには、おそらくエメラルドでしょう。鮮やかな緑の宝石がささやかな彩りを添えていました。その貴石以外には装飾らしい装飾もないような、いたってシンプルな指輪ではありますが、飾り気のないその潔さがカーティス大佐にはよく似合っておりました。
 その指輪はわたくしにとって、また他のメイドたちにとっても小さくはない衝撃でしたが、わたくしたちも貴人をお相手する立場にあります。驚いた様子など微塵も見せず、受け取ったグローブと上着を然るべき場所へと運ぶべく、部屋を立ち去りました。
 ええ、メイドは決して主の客人のプライベートなあれやそれを根掘り葉掘り尋ねてはならないものです。
 ですから、カーティス大佐が一体どのような理由でその指輪を身につけているのか、一体いつからつけているものなのか、わたくしは存じ上げません。
 いいえ。メイド如何に関わらず、余人が気軽に知るべきものでもないでしょう。それは本来、カーティス大佐の御心にのみ秘めておけばいいものなのですから。
 ですが、世の中には好奇心旺盛な、他人の秘密を知りたがる人間というものがいるものです。
 彼女もまた、そんな人間の一人でした。
 あの大雨の日から数日がたったある日のことです。一人の若いメイド仲間がカーティス大佐に尋ねました。
「カーティス大佐はどうして、その指輪をつけていらっしゃるのですか?」
 彼女はまだメイドになってから一月程度と日が浅く、この城の中の常識というものに疎い部分がありました。
 そしてまた、王城に勤める女たちに対してカーティス大佐は礼節を保って接して下さるので大変人気がありました。加えて柔らかな物腰とあの美貌ですので、思いを寄せる者もいたでしょう。彼女もそんな女性たちの一人だったのかもしれません。
 長年王宮勤めをしているわたくしなどは、ピオニー陛下と軽口のたたき合いとも言える応酬を見かけることも多々あったので、今更幻想を覚えるようなことはありません。ですが少女からようやく大人の女性になったばかりの、まだ年若く世間知らずの彼女からしてみればカーティス大佐が白馬の王子様に見えたとしても何らおかしな話ではないでしょう。
 とはいえどのような理由であれ、指輪のことはカーティス大佐の私的なものです。本来、当人に直接窺うようなことではありません。それはあまりにも不躾というものです。
 ですので、わたくしは彼女のその問いかけを咎めました。それは当然のことですし、カーティス大佐の手前、彼女の上司であるというわたくしの立場上叱らざるを得ません。ですが本心を言えばわたくしも彼女と同じ疑問を抱いてはおりました。
 例えば、その指輪が右手――左手だったとしてもせめて他の指に嵌められていれば、彼女は何も尋ねなかったかもしれません。
 しかし華奢な指輪が嵌められているのは左手の四番目、つまり薬指だったのです。
 マルクト帝国において、その指に嵌められた指輪の意味を知らぬ女性はいないでしょう。
 生涯の伴侶に永遠の愛と共に捧げられる薬指。
 カーティス大佐のような方であれば、どれほど隠していたとしても、婚約なり結婚なりという話は知られるものです。やんごとなき身分のご婦人、令嬢のお茶会の話題の一つとして。或いはわたくしどもメイドたちの他愛ない噂話として。
 ですがわたくしの知る限り、カーティス大佐の周辺にはそのような浮いた話一つありませんでした。
 現状、彼の周囲に飛び交う噂といえばいつ昇進するのか。昇進するとしたら階級はどれほどまで上り詰めるのか。そのような話題ばかりで、婚約や結婚どころか、どこそこのご令嬢と親しくしているなんていう話もとんと聞きません。
 そのような方が、――そしておそらくは、その指に指輪を嵌める意味を正しく理解しているだろう方が、左の薬指などに指輪を嵌めた理由が気にならないと言えば嘘になります。
 とはいえそれを当人にぶつけるというのはあまりにも不躾な振る舞いです。彼の不興を買ったとしても文句を言えるわけもないのです。
 だというのにも関わらず、カーティス大佐は若いメイドの無遠慮な質問に腹を立てるでも咎めるでもなく、他の人には秘密に、と前置きした上でわたくしたちにその指輪の理由を教えて下さいました。
「忘れられない人がいるのです」
 そう仰ったカーティス大佐に、やはり聞くべきではなかったとわたくしは心底後悔しました。少なくとも軽率な好奇心から聞くべきものではありませんでした。
 何故なら、そのときのカーティス大佐があまりにも愛おしそうに、悲しそうにその指輪を見つめていたので。
 同じことを彼女も思ったのでしょう。ありがとうございますとしどろもどろに礼を返した後、口を噤んでしまいました。
 もしかするとカーティス大佐に想い人がいるということに打ちひしがれたのかもしれません。
 その後すぐにやってきたピオニー陛下に連れられてカーティス大佐は部屋を出て行かれてしまいましたので、特に何があるということもなく指輪の話はそれで終わりでした。
 終わりのはずでした。
 そんなことがあってから更に一月、二月が経った頃でしょうか。カーティス大佐の左手の薬指に指輪が嵌められているという噂がまことしやかに流れました。
 無論、わたくしはその指輪を実際に見ているので、その噂が事実であることを知っています。おそらく噂を流したのもわたくしと同じように偶然カーティス大佐の指輪を見かけた誰かなのでしょう。
 もしかしたらあの若いメイドかもしれません。軍の誰かかもしれません。或いはわたくしの知らない誰かだということも十分にあり得ます。
 今まで浮いた話の一つもない方です。
 カーティスの名を名乗ってこそいるものの、当主の立場はカーティス大佐ではなく、養父の実娘――カーティス大佐から見れば義理の姉がとった婿のものであることは王城に出入りする者であれば誰でも知っている話であり、そしてまた、カーティス大佐自身、跡継ぎを作る必要もないからと独り身を満喫しているような節すらありました。
 そのような方にわざわざ指輪を嵌めさせるほどの相手とは一体どのような人物なのかと、退屈に倦んだ人々が好奇心から無責任な憶測を巡らせることも、そう珍しい話ではありませんでした。
 ある方は故郷に残してきた恋人でもいるのだろうと仰りました。また別の方はカーティス大佐とは身分違いとなる、さる貴族のご令嬢の名前を挙げました。また別の方はカーティス大佐の部下の女性ではないのかと仰いました。高貴な身分のご婦人だと言う者もいれば、ローレライ教団に入った聖職者ではないかと言う人もいました。
 ですが、わたくしはそのどれもが違うような気がしてなりませんでした。だって、あの指輪を見つめるカーティス大佐のはとても悲しそうで、寂しそうで、それでも愛しさに溢れていました。
 だからわたくしは思うのです。カーティス大佐が心に秘めた想い人というのは、もうこの世にないのではないのかと。
 何せ、ほんの少し前にマルクト帝国とキムラスカ王国は戦争をしていましたし、レプリカだの何だのという得体の知れないものが突如出てきて、それに伴い沢山の人が亡くなりました。
 そうやって生まれた沢山の犠牲者の中に、カーティス大佐の想い人がいても何らおかしくはありません。
 ですがわたくしはわたくしのその思いつきとも言える考えを決して口にするようなことはしませんでした。もしも仮にわたくしの想像が当たっていたとしたら、単なる好奇心を満たすためにカーティス大佐の胸の内を暴くような真似をするのはあまりにもむごたらしいと思ったからです。
 いいえ、カーティス大佐の想う人が生きていても死んでいても、側にいても離れていても、それを気軽に口に乗せることは決して許されないことのはずです。
 ですがカーティス大佐はご自身の噂が耳に入っているでしょうに、気にした様子もなく嫌な顔一つせず日々を過ごしておられるようでした。

 

 さて、人の噂もなんとやらといいます。
 カーティス大佐の噂が流れて半年も経たぬうちに話題は変わり、どこぞの舞台俳優が同じ一座の女優との熱烈な恋愛がばれてスキャンダルになっただとか。どこかの商家のご子息が貴族のご息女と手に手を取り合って駆け落ちしただとか、そういう話題に押し流されてカーティス大佐の指輪のことなど世間から忘れられつつありました。
 わたくしも、あの雨の日以来カーティス大佐の指輪を見かけるどころか、あの方がグローブを外すところすら見かけたことがありませんでしたので、日々の忙しさに埋もれ、いつしか件の指輪のことはすっかりと忘れ去っておりました。
 それを思い出したのは、あの雨の日から二年は経った頃でしょうか。
 その日、カーティス大佐――いえ、その頃のカーティス大佐はもう昇進もして元帥にまで上り詰めていたので、カーティス元帥が正しいのですが――は珍しく私服で王城までやってきました。
 聞けば軍の話ではなく、極めて私的な要件でピオニー陛下に会いにきたということでした。
 カーティス元帥がそのような振る舞いをピオニー陛下から許されているとはいえ、何分急な話でしたので、折悪くピオニー陛下はお供のガルディオス伯爵と共にペットのブウサギの散歩の為、席を外しておりました。
 いつものことならば小一時間もすれば帰ってきますとお伝えすれば、その間待たせてほしいと仰るのでわたくしたちも張り切ってお茶の準備を始めました。
「どうぞ、こちらを」
「ありがとうございます」
 わたくしが差し出したティーカップをカーティス元帥が受け取った時のことです。
 わたくしは彼の手に小さな違和感を覚え、不躾とは思いながらもほんの一瞬、彼の手を凝視しました。
「……あら?」
 その違和感に気がついた時の驚きとでも言いましょうか、困惑とでも言うべきでしょうか。とにかく、そのときの微かな動揺を外に漏らしてしまったことは、それも当の本人がいる前だというのにも関わらずに声に出してしまったことは、わたくしにとって一生の不覚であります。
 ですが、わたくしの驚きを正しく汲み取ったカーティス元帥はそれを責めることもせず、にこやかに笑いながらティーカップを口に運び、一口紅茶を堪能した後「ええ」と小さく頷きました。
「私には可愛すぎますね」
「いいえ」
 カーティス元帥のお言葉に、わたくしは即座に首を振りました。
 カーティス元帥が嵌めている指輪は確かに少々、いえ……かなり可愛らしいもので、もう四十も近い男性がつけるには些か不釣り合いに見えました。
 淡い光沢を放つピンクゴールドのリングの頂きには、かつてのカーティス元帥の瞳を思わせる真っ赤なルビーが嵌まっています。繊細な模様が彫られたそのリングは女性であればきっと贈られた誰もが喜ぶでしょうが、軍人がつけるというにはあまりにも少女趣味というか、華奢で愛らしく、男性の中では細身で美丈夫ともいえるカーティス元帥がつけていてなお、その指輪だけが浮いているようにも見えました。
 少なくともカーティス元帥の趣味で選んだものには到底見えません。それならば過去に見たあのシンプルな指輪が趣味だと言われた方が余程納得できるものです。
 ですが、わたくしにはそのようなことは到底言えませんでした。
「そんなことはありませんわ」
 だって、あなたはそんなにも嬉しそうではないですかと続く言葉はすんでのところで飲み込みました。
 そこまで口にしてしまうのはメイドの領分を超えています。
 カーティス元帥が今嵌めている指輪が彼の趣味ではないというのであれば、それはきっと他に贈った相手がいるということなのでしょう。どのような相手がカーティス元帥に指輪を贈ったのかわたくしは存じませんし、その機会もないと思います。ですが、その方がカーティス元帥のことを心から想い、愛し、慈しんでいるのは、その可愛らしい指輪からも窺えました。
 その方からはきっと、カーティス元帥は彼が嵌めている指輪のように可愛らしい方に見えているのでしょうから。
 わたくしは、マルクト帝国において左手の薬指にどんな意味があるのかを知っています。誰かからもらっただろう指輪を嵌めているカーティス元帥のその意思も少なからず窺えます。ですから、一介のメイド風情がこれ以上のことを口出しするのはあまりにも分不相応というものです。
「とてもお似合いですわ、元帥」
「ありがとうございます。……こういうのは、お世辞でも嬉しいものですね」
 微かに顔をほころばせて礼を返すカーティス元帥にわたくしも微笑みます。ふと湧いた好奇心を飲み込みながら。
 ですが流石軍人とでも言うべきでしょうか。それとも四十にも満たない若さで元帥まで上り詰めた天才と感嘆すべきでしょうか。わたくしが飲み込んだ些細な疑問を察したカーティス元帥は僅かに目を細め、小さく声を漏らしました。
「ああ、そういえばあなたには以前指輪の話をしましたね」
「……はい」
「あれはもう必要無くなったので、人に譲りました」
 いつかと同じように、これは他の者には秘密にと悪戯っぽく微笑んで、カーティス大佐はそう仰いました。
 どうせいつか秘密は噂話として漏れてしまうでしょうが。
「それはそれで構いませんよ」
「……はぁ」
 そういうものなのでしょうか。
 生憎とわたくしたちは噂を流される方ではなく噂を流す側なのでカーティス元帥のお考えなどこれっぽっちも分かりませんが、彼がいいと仰るのならばそうなのでしょう。楽しそうに微笑むカーティス元帥に、わたくしも曖昧に微笑んでお茶を濁すことにしました。
 扉の向こうからは微かにピオニー陛下のペットたちの鳴き声が聞こえます。
 主が戻ってくればわたくしはまた部屋の片隅に控え仕事をこなすメイドに戻ります。今までのささやかなお喋りも全てなかったことになるでしょう。
 いつもの日常に戻る準備をしながら、わたくしはふと思います。
 そういえば、カーティス元帥に指輪を贈ったのは一体どんな方なのでしょうか。
 できることならば、あの方の安らぎとなり得るような善き人であってほしいと願うのは、ピオニー陛下のお側で長くあの方を見てきたメイドの、ささやかなお節介というものです。

 

 キムラスカ王家に連なる、さる高貴なご子息がお忍びでグランコクマに暮らしているという噂を聞いたのはそれから半月後のことでした。
 カーティス元帥の下にマルクト帝国ではとんと見かけないような鮮やかな赤毛の青年が身を寄せているという噂が立ったのと、ほぼ同じ頃のことです。