美しいゆび(とある青年の話)

 ルークがタタル渓谷に戻ってきた時、世界中の色々なことが変わっていて、そしてそれはかつてルークの恋人であったジェイド・カーティスも例外ではなかった。
 具体的にいうのであれば、譜眼の為の譜陣を外して瞳の色が変わっていたり、この二年間で大きく出世して大佐から元帥になっていたりしたけれど、中でも特にルークの気を引いたのが左手の四番目、薬指に嵌められた指輪だった。
 銀のリングに緑の貴石が彩りを添えているその指輪は、控えめながらもジェイドによく似合っていた。
 似合っているからこそ気に入らない。一体誰がその指輪をジェイドに贈ったのかが気になって仕方ない。
 けれど、気に入らないからといってそれをどうこう言えるような立場にないことも分かっているので、その指輪に対しルークはずっと口を噤んでいた。
 これならばジェイドに帰ってきて下さいと言われたときに素直にうんと言えば良かったと、後悔してもあまりにも遅い。
 だってあの時はルークは自分が帰ってこられるなんて思っていなかった。帰ってきて下さいと言ったジェイド自身だって信じてなんていなかっただろう。
 だからこそあの時ルークはジェイドの言葉を否定したのに、結果は何故か音素乖離で消滅することもなく、音譜帯の一部になるようなこともなく、五体満足でジェイドの家に転がり込んでいるのだから、人生とは何があるか分からない。
 あの時、自分の可能性を信じて、嘘でも帰ってきてほしいと願ったジェイドの気持ちを信じて頷いていたら良かったのだろうかと、何度目になるか分からないもしもを考えながらルークは深い溜息を吐いた。
 必ず帰ってくるからジェイドも俺のことを待っていて。なんて言えたら、今彼の指にはあの小憎たらしい指輪は嵌まっていなかっただろうか。
 エルドラントから戻ってきてこの方――更に言えばジェイドと一つ屋根の下で生活するようになってから、ルークの悩みは目下ジェイドの指輪についてだった。
 ガイに聞いてもピオニーに聞いても、ジェイドがどうしてその指輪を嵌めるようになったのかは知らないという。いつ頃からあの指輪があるのかを尋ねても、気がついたらつけるようになっていたと言われるばかりで、かろうじて分かるのは指輪を見かけるようになったのは、あの旅以降らしいということくらいだ。
 あれこれと聞き出してみても、この二年間ジェイドにそれらしい恋人や浮いた話が流れたこともないというのだから余計に謎だ。
 周囲の人間にも隠しているような秘密の恋人がジェイドの側にいて、その人がジェイドに指輪を贈ったのだろうか。或いはジェイドがその人のために二人分の指輪を用意したのかもしれないけれど、いずれにせよルークにとって面白い話ではない。
 だけれども、この二年間ほぼ死んでいたのと同義だったルークがそのことに文句を言える筋合いなど当然あるはずもなくて、その結果口を噤むしかないのだから、それが余計にルークの精神をささくれさせた。
 ルークは一度死んだようなもので、帰ってきてほしいというジェイドの望みすら一度は断った自分が不在の間、ジェイドに恋人がいたりしても何らおかしい話ではない。
 そもそもジェイドが未だなおルークのことを恋人だと思っている保障すらないのだ。
 半ば我儘を言ってジェイドの家に転がり込んだとはいえ、叩き出されていないのだから嫌われているわけではないだろうけれど、ジェイドが何も言ってこないだけに自分の中途半端な立ち位置が不安になる。
 ジェイドが自分の家にルークを上げてくれるのも、実家であるファブレ公爵家にはアッシュが収まり、公爵家にいづらいルークを哀れんでのことではないと言い切れはしないのだから。
 そんなにうじうじと悩むのならばいっそのことひと思いに聞いてしまえばいいと考えたことは一度や二度では足りないが、もしもそれでジェイドの逆鱗に触れたとしたら。嫌われて突き放されて、ここから出ていけなどと拒絶されたら流石に立ち直れない。
 そうでなくともルークではない別の恋人からもらった指輪なのだと返されてしまった日には最早どんな顔をすればいいのかさえ分からなかった。まがり間違っても笑顔で祝福などは到底できず、きっと何故と詰ってしまうだろう。
「……じぇいどのばーか」
 飲み下せない不満を小さく口に乗せる。ただの八つ当たりだなんていうことはとっくに理解している。
 それが子供じみた独占欲。身勝手な嫉妬だと分かっているからジェイドになど聞かせられる訳もない。
「おや、聞き捨てなりませんね」
「?! ジェ――っうわ!!」
 だから、真横から聞こえた声に心臓が止まるかと思った。振り向けば今一番見たくない顔があって、驚きすぎて椅子ごとひっくり返る。受け身をとる暇もなく強かに後頭部を打ち付けて無言で悶えた。
 じわりと反射的に涙が浮かんで視界が滲む。ぼやけた世界にすっくと真っ直ぐ伸びた二本の足が憎らしい。
「……帰ってきたならそう言えよ」
「丁度今帰ってきたところだったんですよ。そうしたらあなたが一人でふて腐れていたものですから」
 呻きながらも文句を口にすれば、どうかしたのかと思いまして、なんて白々しいことを言う。
 緩く細められた瞳は心配の色など欠片もなくて、寧ろルークの懊悩を楽しんでいる節さえあるくせに、差し伸べられた手は優しくて、掴めば確かに温かいのだから腹立たしい。
 ジェイドに手を引かれる形で立ち上がり、それから倒れた椅子も元に戻す。
 ジェイドもルークの隣に座って、それでと話の続きを促した。
「あなたは一体何が気に入らないんです?」
「……」
 その不満を口にしてしまったら、ジェイドの答えを聞かねばならない。その指輪が何なのかを知りたいけれど、知りたくはない。
 答えが定まってしまえばもう今のようにぐずぐずと悩むことだってできなくなってしまうのだ。ジェイドが自分以外に好きな人がいるなんてまともな顔をして聞けるわけもない。
 小さな子供のようにだんまりを決め込むルークの態度に、ジェイドが大きな溜息を吐いた。
 怒らせただろうか、呆れられただろうか。不安に駆られて顔を上げればぴん、と指先で額を弾かれる。
「黙っていても何も分かりませんよ。思うことがあるならはっきり口にしなさい」
 黙ったまま分かってもらおうなんて虫のよすぎる話です。
 厳しくも正しい言葉の割にその声音は柔らかい。その優しさがいたたまれなくてルークは再び視線を床に落とした。ジェイドの顔を直視できない。
 ちゃんと目を見て話した方がいいというのは分かっているのに、ジェイドが今どんな顔をしているのか知るのが怖かった。
「ジェイドは……俺のこと好き?」
「何いきなり言いだすんですか」
 好きですよと返された答えは思っていた以上に素っ気なくて、ああやっぱりジェイドはもう自分のことなど何とも思ってはいないのかもしれないと泣きそうになる。
 けれど不思議なことに今までずっとぐずぐず悩み続けていた時に比べればずっと心は穏やかだった。例え嘘でも好きだといってもらえて少しは余裕ができたのかもしれないし、逆にその素っ気なさから覚悟が決まったのかもしれない。
 ジェイドの口にした〝好き〟の意味が分からない。恋情ではないかもしれない、もしかしたら友情かもしれない。或いは別のものかもしれない。
 それでも、ジェイドの中でルークが何らかの〝好きな人〟であるのなら、それがもう恋でも愛でもなくたって許せる気がした。
「……指輪」
「はい?」
「前はつけてなかっただろ」
 だから、それで。気になって。
 続く声はどんどんと小さくなっていく。一度口に出した言葉はもう取り戻せない。なかったことにはできない。
 ああ、とジェイドが相づちまで打ってしまえば尚更だ。
「これのことですね」
 そう、目の前にぬっと突き出された白い手の四番目の指、薬指。
 そこに綺麗な緑色の石が嵌まった指輪が控えめにその存在を主張している。
「故人を偲ぶつもりであつらえたものなんですけど、そうですね……今となっては意味のないものです」
 そういいながら引っ込んだ手につられるように顔を上げた。
 故人とは一体誰のことだろう。その人のことを偲ぶためにそんな指輪をあつらえたなんて、そんなロマンチストでもなかったくせにと新たな不満が湧いてきて、それをぐっと飲み込んだ。
 できるだけ適切な言葉を選ぼうと考える。ジェイドを傷つけたりしないようなものを、まがり間違っても詰ったり責めたりなどしないようなものを。
「キムラスカだと、その指に嵌めるのって結婚指輪なんだ。夫婦が二人でお互いの指輪嵌めて、永遠の愛を誓うんだ」
 子供時代にナタリアからそんな話を聞かされたのを覚えている。
 あなたがわたくしと結婚する時には王家に代々伝わる指輪を交換するのです。と白い頬をほんのり赤く染めながらそう言った幼馴染みは正しい婚約者との結婚を来年に控えている。
 実におめでたいことだとは思えども、自分の恋が危機に瀕している今は素直に喜べないのがさもしいばかりだ。
 不安に自己嫌悪が合わさって、マルクトじゃどうかは知らないけどと、いいわけがましく口にした言葉は思いの外拗ねた響きを孕んでいた。
「マルクトでも同じですよ。左手の薬指は本来、既婚者が指輪を嵌める場所ですね」
 優しくもなんともない、いつもの変わらない声音でさらりとそんなことを言われてしまって心が一気にくしゃくしゃになる。
 顔色一つ変えないジェイドが憎たらしい。
 じゃあなんでそんな指に指輪なんて嵌めているんだと聞いてしまいたかったけれど、そんなもの聞くまでもない。
 顔も知らないその故人の為にジェイドはその指を捧げたのだ。それが羨ましくてどうにかなりそうだった。
 やっぱり友情なんかじゃ嫌だと思う。どんな殊勝なことを考えたって、一度は恋人だったこともあるのに、たった二年いなかっただけでなかったことにされるのはあまりにも悲しかった。
 ひどいと詰りそうになるのを飲み込んで、小さく息を吸う。
 ジェイドには俺がいるのにと、言えてしまったらどんなに楽だっただろう。けれど今、ルークにそれを言う権利はどこにもないのだ。
 だからそのかわりに別のことを聞いてみる。
「ジェイドはさ、さっき俺のこと好きって言ってくれたじゃん」
「ええ」
 問いかけははぐらかされることなく首肯され、それに少しだけ勇気づけられた。もしかしたらジェイドは今でもルークのことを好きでいてくれるのかもしれない。それは実に都合のいい希望であるけれど、好きだと言ってもらったのなら少しは夢を見たっていいはずだ。
「俺とその指輪の人とどっちが――あ、いやええと……俺が指輪贈るから。もっとジェイドに似合うやつ」
 だから。
「だから、俺が贈った指輪をつけてよ。それを外して」
 するりとこぼれた言葉に、本当に言ってしまったと、後悔ともつかない思いが胸を過ぎる。
 どんなに言い聞かせようとしても自分を誤魔化そうとしてもやっぱり無理だ。ジェイドが好きだし、同じ分だけジェイドに好きでいてほしい。友情なんかじゃ我慢ができない。
 だってルークはずっとジェイドが好きなままだ。二年前から変わらずに、ずっと。
 でもそれも終わりかもしれないなと頭の片隅で冷静な自分が囁きかける。
 ジェイドの心はもう、件の指輪の相手に捧げられてしまっているのだ。だというのに未練がましく追い縋ったところで勝ち目などあるはずもない。或いはここでもっとちゃんと食い下がることができるほどに根性があればまた別の道も拓けただろうか。
 そんなことばかり考えていたから、ジェイドの返事に咄嗟に反応できなかった。
「構いませんよ」
「えっ?」
「どうしてあなたが驚くんですか」
 あなたが言いだしたことでしょうと呆れ半分の言葉に、だってとしどろもどろにいらえを返す。
「駄目だって言われると思ってたから。ジェイド、その人のことが大事なんだろ?」
「ええ、大事ですよ。だから言ったじゃないですか、もう意味のないものだって」
 分からないのですか。
 真っ直ぐにルークを見つめてジェイドが聞いた。これ以上ないくらいに近づかれてルークもたじろぐけれど、座ったままでは上手く逃げられるわけもない。体を反らせるのが精々で、それもジェイドに逃げないで下さいと言われてしまえばささやかな抵抗はすぐに終わった。
 ほんの目と鼻の先にジェイドがいる。少し手を伸ばせば触れられる、どころか口付けすれすれの距離でジェイドが口を開いた。
「昔、私を無遠慮に見上げてくる子供がいたんです。その子の瞳が、丁度この石と同じ綺麗な緑色でした」
 そう言ってジェイドはちゅ、とキスをした。
 それはルークの唇にではなく、指輪にだったけれども、自分にキスをされたときと同じくらい心臓が跳ねたのをルークは感じた。
「いなくなったと思ったんです。けどね、最近私のところに戻ってきてくれました。だからもう、これは意味がないんです」
「……うん」
「分かってくれましたか」
「うん、分かった。……それとごめん」
 蓋を開ければこんなに笑えることもない。ジェイドは変わらずずっとルークを好きでいてくれて、ルークはそれを知らずに他ならぬ自分自身に嫉妬していたのだ。こんなことならばぐずぐず悩まずにもっと早くに聞いておけばよかったと、この顛末に拍子抜けする。
 もう憂うこともなくなって、すっかり軽くなった心でジェイドを抱きしめた。
 指輪の嵌まった手を引いて、限りなく近かった距離を詰めて。触れた体は温かかった。懐かしい香水の匂いが鼻をくすぐり、甘えるように凭れてくるジェイドの背中に腕を伸ばす。
 思えばエルドラントから戻ってきて以来、こんな風に触れたのは初めてだったかもしれない。一拍遅れて幸福の実感が追い掛けてきて、不覚にも鼻の奥がつんとした。
 ジェイドがルークをずっと待っていてくれたことも、寂しいと思っていてくれたことも、偲んでいたことも知って嬉しさがじんわりとわき上がる。
 忘れられてしまったとしても、しょうがないと思っていたのに。
 だってルークはあの時ジェイドに帰ると約束しなかったのに。帰らないルークを思って、心ごとその薬指を捧げてくれたことが嬉しかった。
 けれど、ルークは生きている。こうしてジェイドの側にいる。ジェイドももう、指輪はいらないと言った。
 亡き人を偲ぶための指輪は。
「ねえ、ジェイド。俺、とびきりジェイドに似合う指輪選ぶから。そしたら俺の指輪をつけて。それを外して。俺のことを思っていてくれたのは嬉しいけど。ジェイドにそんな寂しい指輪、ずっとつけててほしくない」
 喋っているうちに段々と顔が熱くなってくる。今鏡を見たらきっと茹で蛸のようになっているだろうと思う。それでも、帰ってきてからこの方ずっとちゃんとした告白だってまだだったのを考えれば、ここでやめる訳にもいかない。
「俺はここにいるから」
「ええ、分かりました」
 いっとう似合うものを選んで下さいと微笑むジェイドは本当に綺麗で、帰ってきて良かったと心から思った。

 

 翌日、早速宝飾店に行こうとしたルークは家を出る直前にジェイドに呼び止められた。私の指のサイズはご存じですかと尋ねるジェイドにそういえば知らないなと、サイズを測ってメモをとる。
 よくよく考えればこうして誰かにアクセサリーを贈るのは初めてだった。
 過去、ティアにペンダントを贈ったことはあるけれど、あれは馬車の運賃がわりに彼女が御者に明け渡したものを買い戻しただけなので、数に入れるのは気が引ける。
 浮かれた気分で店に行くと、煌びやかに飾り立てられたアクセサリーがずらりと並んだショーウィンドウに出迎えられて、そのきらきらしさに気後れする。
 人にアクセサリーを贈るのが初めてならばこのような店を訪れるのも初めてだ。
 バチカルの屋敷暮らしの頃は貴族相手の商人が直に家までやってきたし、旅をしている頃はこんなところにやってくるような余裕もなかった。
 店に入った途端にこやかに出迎える店員に、指輪がほしいのだとしどろもどろになりながら伝えれば、なんだか微笑ましいものを見るような目を向けられた気がしたけれど、気のせいだろう。気のせいだと思いたい。
 誰に、どんな目的で。予算はどれくらいか。デザインは流行りのものがいいのか、それともオーソドックスなものがいいのか。材質や宝石にこだわりはあるか。サイズは幾つか。等々の質問に答えてめぼしいものを見繕ってもらう。
 年上の綺麗な人に贈る指輪。結婚指輪ではないけれどそのかわりになりそうな、シンプルなデザインで装飾は華美すぎない、長く身につけていても邪魔にならないもの。
 ルーク自身は特にこだわりのないままやってきてしまったので、これならばもっとジェイドの好みを聞いておくべきだと思ったが、彼の意向を全て聞き入れるとあの銀の指輪になりそうな気もした。それだけは嫌だと思うのは、ルークのささやかな意地である。
 ルークの挙げた注文に、店の奥から店員が次々と指輪を取り出しては見せてくれるがどれもこれもぴんと来ない。
 どれもシンプルで、長くつけていても邪魔にならない。それでいて洗練された美しいデザインで、ルークの注文にはぴったりなのに。
 マルクトの海のようなアクアマリン、赤が鮮やかな珊瑚、淡い輝きを放つ真珠、きらきらと眩しいダイヤモンド。飾られた宝石たちも、どれをとっても申し分ない。
 そのはずなのに、何故だか不思議と気に入らない。その一つ一つをジェイドがつけたところを想像しても、しっくりとこないのは何故なのだろう。
 あれでもないこれも違うと随分と長い間指輪を吟味し続けて、流石にルークも疲れてきた。
 対応してくれた店員には悪いが、今日はこのあたりで切りあげるべきだろうか。納得いくものが見つけられないのならば仕方がない。今度はまた別の店でも覗いてみようかと、口を開きかけた時、ふとそれが目についた。
 その指輪はルークのテーブルにまで持って来られていたものの、特に紹介されることもなく忘れ去られていたものだ。
 まず、真紅のルビーがルークの目を引いた。まるでジェイドの瞳みたいだと思ったのは殆ど天啓のようなもので、そうと思ったら目が離せなくなっていた。何か理由があるのか、渋る店員にこれをもっとよく見せてほしいと頼み込む。
 小さなルビーが一粒、控えめに嵌められたその指輪は今までルークの前に並べられたものの中で一番可愛い作りのものだった。
 淡いピンクゴールドのリングには繊細な模様が刻まれていて、ジェイドが、というよりも男がつけるには些か愛らしいデザインをしている。
 だというのに、その指輪が一番ジェイドに似合うと思った。
 あの白い手に、このささやかなピンクゴールドが色を添えて、一際輝くルビーが鮮やかな彩りを与える。ジェイドがつけるならこれしかない。少し可愛すぎるくらいが丁度いい。だってこの指輪はジェイドに贈る為に選ぶのだ。
 ルークの可愛い人に。
 そう考えて、気付けばするりと言葉が出ていた。
「これにします。これをください」
 しかしそう上手く事が運ばないのが世の摂理というもので、このデザインの指輪は今ルークの前にあるものが最も大きなサイズらしく、これ以上のものとなると半ばオーダーメイド扱いになるという。時間もかかる上に懐具合を考えると少々厳しいものではあったが、これ以上ジェイドにぴったりとくるものは見つけられない気がして、それでも構わないと頷いた。
 指輪は一月後にはできるそうで、前金を支払いルークは意気揚々と家に帰っていった。
「おや、ルーク。お帰りなさい。どうです? 気に入る指輪は見つかりましたか?」
「んー、まあな」
 でもその指輪がどんなものかはまだ秘密だと告げればジェイドもそれ以上何も聞かなかった。
「では私も一月後まで楽しみにしていましょう」
 どんなものを選んだのかともっと詳しく聞かれるだろうと身構えていただけにこの反応は多少物足りない気もしたが、ジェイドからの全幅の信頼は、それはそれで嬉しかった。
 あの指輪を早くジェイドに見せて、贈りたいと思う。そのときジェイドはどんな顔をするだろうか。
 驚くだろうか。こんなもの自分には似合わないと眉をひそめるだろうか。感極まってうれし泣き、なんていうのはなさそうだけれど、少しでもジェイドが喜ぶものであってほしいというのはルークの本心だった。

 

 それからきっかり一月経って、ルークは再び宝飾店を訪れた。前回お世話になった店員がすぐにルークを見つけて、ご用意してありますよと、ビロード貼りの小箱を取り出した。蓋を開ければルークが注文した通りのものがひっそりと収まっている。
 喜んでいただけるといいですねと、サービスで飾り立てられたリングボックスを丁寧に紙袋にしまって、残りの代金を支払いルークは急いで店を出た。
 今日は珍しく丸一日ジェイドが休みだったので、帰ればすぐに指輪を贈ることができる。
 家路を辿る足取りは軽く、ただいまと挨拶もそこそこに家でルークの帰宅を待っていたジェイドに駆け寄った。
「ああ、指輪できたんですね」
「うん」
 早速見てほしいと紙袋から小箱を取り出して、ジェイドの前に差し出す。
 ジェイドの手がその小箱を受け取ってリボンを外し、そっと蓋を開けた。
「……これは、また。私がつけるには随分と可愛すぎるのではないですか」
 途端ジェイドが苦笑するのに思わずむっとする。だってジェイドに似合うと思ったからと言い返せば、苦笑したままジェイドがルークに小箱を返してきた。勿論そこにはまだ手に取られてすらいない指輪が収まったままで、これはいらないということなのだろうかと考える。
 確かに四十近い男に贈るには可愛すぎるデザインかもしれないけれど、こんな露骨に嫌がるのもひどい話ではないかと思いながら渋々突き返された指輪を箱ごと受け取れば、ジェイドが困ったように目を細めてルークを見つめた。
「何、拗ねているんですか」
 その左手に嵌まった指輪――今までずっとつけていたあの、エメラルドのついた銀の指輪だ――をするりと外して、白い手をルークの前に差し出してくる。
 一体どういうつもりなのかが飲み込めず、ぽかんとジェイドを見返せば、微かに笑いながらつけてくれないんですかと尋ねられ、その意味を理解してぼっと顔が赤くなった。
「じぇ、ジェイド……」
「あなたの指輪、つけて下さい」
 ほら、と促すように突きつけられた手の白さが眩しい。
 どくどくと早鐘を打つ心臓をどうにか鎮めて小箱から指輪を抜き取り、もう一方の手でジェイドの手を掴んだ。自分と同じ男のものとは思えない白い手は、それでも手のひらが厚く硬かった。よく鍛えられた武人の手だ。それはきっと槍を扱っているからなのだろう。荒事とは無縁そうに見える手でも、ジェイドのそれは確かに軍人のものなのだとしみじみ思う。
 細くしなやかなその指をなぞって、そっと指輪を嵌める。
 ジェイドの指に合うように作られたそれは、確かにその指にぴったりと収まった。
 その指輪を見ていると、嬉しさと共に言葉にしがたい愛しさがこみ上げてくる。
 可愛らしい人、可愛らしい指輪。
 ルークがジェイドを愛しいと思ったその心が、そのまま形になったようだ。
 後から後から尽きることなく湧き出す想いを宥めすかしながらそっと指輪をなぞればジェイドの手が微かに震える。白い指がルークの指に絡み、僅かな力と共に握りしめられる。
 それだけで、どうしようもなく幸福だった。
「……好き」
「ええ、私もです」
 小さくこぼれた呟きにジェイドがいらえを返す。その答えだけで十分だった。
 目一杯の気持ちを込めて一際強くジェイドの手を握りしめ、それからようやく解放する。その手に自分の選んだ指輪が嵌まっていることを改めて確認して、自然と頬が緩むのが押さえられない。何にやけているんですかとジェイドから胡乱な目を向けられても、嬉しいのだからしょうがないだろうとしか言いようがなかった。
 ただ、ひとつだけ気になることはある。
「それで、今までつけていた指輪はどうするんだ?」
 テーブルの上には今までずっとジェイドが嵌めていた指輪が鎮座している。気軽に処分するようなものではないが、だからといってしまい込んでしまうのも勿体ないと思ってしまう。
 気に入らないものではあったけれど、元をただせばジェイドがルークを思っていてくれた証でもあるのだから無碍に扱うというのも気が引けた。
 ルークの視線につられるようにじっとテーブルの上を見つめて、ジェイドがふむと小さな声を上げる。
「あの指輪、いりますか?」
「え?」
「あなたがほしいというのなら、譲りますよ。私にはもう必要のないものですし。何より……」
 あなたが贈ってくれた指輪がありますから。なんて言われて嬉しくない男がいるだろうか。否や、いるはずがないだろう。
 これ以上だらしない顔を晒さないように気をつけながら、少し迷った後にほしいと答えた。
「ジェイドの指輪を俺にちょうだい」
 そう言いながらテーブルに置かれた指輪を手に取って、ジェイドの前に突きつける。
「俺に嵌めて。俺がジェイドにしたみたいに」
 その言葉に少しだけ複雑そうな顔をしたジェイドは、けれど何かを言うこともなく黙ってルークから指輪を受け取り、そして左の手を取った。
 親指から数えて四番目。薬指に指輪をあてがい、嵌められる。
 嵌めようとした。
 だけど、その細い銀の指輪はルークの指には嵌まらなかった。第二関節の辺りで指輪が引っかかってしまい、それ以上は入りそうにない。
「……あなた、前々から手のひらは大きかったですもんね。すっかり失念していました」
 謝罪ともつかないすみませんという言葉と共に、中途半端に指輪が収まった手を撫でられてなんだかとても残念な気持ちになる。
 まさかつけられないとは思っていなかったし、一度その気になってしまった後に今更無理でしたなんていうのはあまりにもつまらない。どうにか入らないものかと無理矢理にでも押し込もうとすれば、やめなさいとジェイドに止められてしまったのだからそれ以上はどうしようもなかった。
 これ以上無理をされては困るとでもいうように、するりと薬指から指輪が引き抜かれる。
「でも、俺もジェイドみたいにちゃんと指輪、つけていたい」
「……ルーク」
 我慢ならずに漏らした不満に、困ったような声が重なる。
 ジェイドはしばし考えこんでいたようだったが、やがて何か思い立ったのか少し待っていて下さいと書斎に入っていった。
 手持ち無沙汰になったルークは特にすることもないので、自分の指から引き抜かれた指輪を手に取って眺める。
 エメラルド。ルークの目と同じ色をした貴石。
 その指輪はあまりにもシンプルで、その石を除けば飾りらしい飾りもない。ジェイドがどんな思いでこの指輪を選んだのかは知らないが、彼の目には自分がこのように映っているのだろうかと思うとなんだかとても不思議な気がした。
 そうしてしばらくしていると、かちゃりと書斎のドアが開きジェイドが戻ってくる。
「何していたんですか?」
「指輪、見てただけだよ」
「そうですか。ではそれを少し貸して下さい」
 ジェイドが書斎から持ってきたのは細い鎖だった。ペンダントなりネックレスなりに使うものらしい。そこに指輪を通して、それからルークの首に鎖をかけた。
「こうしておけば、いつでも身につけていられますし、なくすこともないでしょう」
 背後から聞こえるジェイドの声に小さく頷く。
「サイズを変えて作り直してもいいんですけど、あなたは嫌がりそうなので。――ああ、よく似合っていますよ」
 留め具を嵌めれば当然もう指輪は落ちない。ルークの前に戻ってきたジェイドがしげしげと眺めて、微笑んだ。
 お世辞でも何でも似合うと褒めてもらえたなら嬉しい。鎖を通して首にかけられたその指輪を手に取って光にかざす。
 銀の鎖に銀の指輪。その中で、小さなエメラルドが鮮やかな輝きを放っていた。
 ルークの指には入らない指輪。ジェイドの指輪。ジェイドがルークの為に、ルークを思って用意した指輪。
 少し前までは憎らしかったはずのそれが、今ではなんでか愛おしく感じられて、首にかけたばかりの指輪を持ち上げそっと口づける。
 感じるのは金属らしい冷たさばかりだったけれども、それだけではない温もりのようなものがあるように感じられたのは、はたしてルークの錯覚だろうか。
 指輪に円くくり抜かれた視界では、ジェイドがなんだか不満げな顔をしていたので、調子に乗ってその唇にもキスをした。