異説ホームズ

 わたしはジョン・H・ワトソン。開業医の傍らで、かつての同居人シャーロック・ホームズの探偵業の手伝いをしている。

 

 先日、ホームズに呼び出されて事件の調査に乗り出したわたし――ぼくは四日ぶりにやっと我が家に帰ってこれた。さる退役軍人の奥方が持ち込んだその事件は二つの問題が絡み合い、一見とても複雑なように見えたものの、ホームズは見事にそれを解き明かして無事解決と相成った。ただし、この事件の顛末は事件に関係する人たちの名誉に関わることも多く含まれているのでいずれ彼らの名に瑕がつかないだろう頃にでも改めて書き記そうと思う。
 ホームズとはベイカー街221B、かつてぼくがホームズと暮らしていたハドソン夫人の下宿で共に軽い夕食をとった後に別れ、ぼくはこうしてぼくの待つ人がいるぼくらの家に帰って来た。
「おかえりなさい」
『ただいま、ハダリー』
 玄関を開けてすぐに飛んできた出迎えの声に、ぼくは無言でいらえを返す。
 ぼくは家では喋らない。人並みに喋ることはできるけれども、声帯を酷使すると頻繁に喉を痛めてしまうから、発声を伴う会話を必要としない自宅では唇を動かすだけに留めている。そのためにぼくの帰りを待つ人、ぼくの妻は読唇術を学んでぼくが喋らなくてもいいように気遣ってくれる。
 ぼくの現パートナーでもあり、形式上のぼくの妻の名はメアリー・モースタン。またの名をハダリー・リリス。ホームズが知る名前で呼ぶのならば、アイリーン・アドラー。
 まさかホームズもこんなすぐ側に自分を出し抜いた女性が居座っているなんて知らないだろうし、それをぼくが知っていて何食わぬ顔をしていることも知らないだろう。
 ホームズは何故かぼくがハダリーもといメアリーと結婚したことを快く思っていないので、ぼくに会いにこの自宅兼診療所にやってきても彼女と顔を合わせようとはしないし、ハダリーの変装はいつだって完璧だからきっとホームズの目を持ってしてもそう簡単には見抜けないだろう。
 ぼくが結婚したということになっているメアリーが、彼が唯一あの女性と呼ぶアドラーだと知ったらどんな顔をするだろうかと考えると時々ホームズに真実を告げてやりたい気持ちにもなるけれど、今のところその予定はない。
 ただ、ぼくの役割が終わる頃にはそれが叶うといいとは思っている。
 誰かに語ることはできないけれども、ぼくがハダリーと暮らすことになったことにはとても込み入った事情がある。そもそもぼくがホームズと相棒となったこと自体がとても込み入った理由からだ。
 そのことを説明するにはまず、ぼくが何者かから始めなければならない。
 ぼくはジョン・H・ワトソン。少なくとも今のぼくを知る人たちの間ではそれで通っている。ハダリー・リリスの今の名前がメアリー・モースタンであるように。
 ではぼくは何者か?
 ぼくはフライデー。
 ぼくを生み出した二人の研究者のうちフライデーと呼ばれたその一人の屍体を使い、ぼくは生まれた。もう一人の研究者がぼくに言葉を書き記させ、物語綴らせ、ありとあらゆる言葉の解析を試みて、ついにはヴィクターの手記にまで手を出し混乱と動乱の果てにぼくの魂は生成された。
 ジョン・H・ワトソンというのはぼくの生みの親のもう一人からとった名前だ。
 この時点で大分込み入っている話だと分かってもらえるだろう。
 ではお前という存在は何なのだと聞かれたらぼくはこう答える。
 最初の屍者ザ・ワンと同様に、魂を持った屍者。それがぼく、フライデー。
 数年前に起きたロンドン塔に起きた異変と、世界中で同時に起きた屍者の暴走事件。それとほぼ時を同じくしてぼくの魂は一応の完成を見せ、まるでぼくの魂と引き替えにするかのように古き良きワトソン博士の魂は異なる言葉の平野へと去ってしまった。
 あの時の大きな動乱が収まった後、ぼくとワトソン博士の身の上に何が起こったのかというのはぼくでは未だ明確な言葉に直しきれるものではないけれども、とりあえずその断片だけでも答えるとするのならば、ワトソン博士は崩れ落ちるロンドン塔から屍者の言葉とザ・ワンの魂を封じ込めたヴィクターの手記を持ち出した。
 多分そのことを知っているのはハダリーとぼくだけだ。勿論これは彼女が他の誰にもそのことをいっていないのなら、という但し書きがつくけれど。
 その後、ワトソン博士とぼくは、ワトソン博士がぼくの前のぼく――フライデー博士と共に魂の研究をしていた二人の研究室に戻り、そこで手記を自分の中に取り込んでしまった。その後、博士がどういう状況に陥ったのかをぼくは知らない。ただ分かるのは、彼の頭に記憶の混乱が生じ、彼はぼくのこともぼくの前にいたはずのフライデー博士のことも、あの長くて短い旅のこともすっかりと頭から抜け落ちてしまったということ、そして今のワトソン博士には生者と屍者の見分けがつかないということだけだ。
 ワトソン博士が手記を取り込んだのちぼくは何とかワトソン博士を椅子から引きずりおろし、部屋にあるベッドまで引きずって服を着せ、できるだけ普通であるように見せかけた。その時のぼくの行動力は生まれたての魂にしては多分なかなか頑張った方だと思う。かつて通り過ぎた極東の島国の言葉でいう“火事場の馬鹿力”とかいうやつだ。
 そしてぼくは幾つかの言葉をノートに書き付けた後あの人の銃を握りしめて、この部屋にやってくるだろう侵入者をずっと待っていた。
 どれだけ時間が経ったのか分からない。
 十分か、一時間か、或いは一日か。もっと長かったかもしれないし逆にもっと短かったかもしれない。
 ようやく待ちわびた侵入者が部屋にやってきた時、ぼくは自身の頭に銃を突きつけ、もう一方の手で相手にノートを突きつけた。
〈手記の情報が欲しいのならこれ以上近づくな、そして動くな〉
 ノートにはそう書き記していた。
 幸か不幸か分からないけれども、ワトソン博士が手記を取り込んだことはぼくだけしか知らない事実である。そして一般的に、生者を屍者にすることはできない。常に変化し絶え間なく自ら上書きを続けている21グラムの魂は、決してネクロウェアの上書きによる書き換えを受け付けない。それこそ阿片と変性音楽を使った変性意識の生成でもしない限りは。
 ましてや手記ならば尚更だ。
 幸いにも、ぼくの記録に残る限り生者の屍者化の技術はイギリスには流れておらず、Mの行った外道的な方法もあの理屈を理解する人間はほぼいないだろう。
 そしてぼくは見るからに屍者という見てくれをしていて、その屍者が自らの頭に銃を突きつけ、ノートには脅しめいたことを書いて相手を牽制するという一種異様な状況に、やってきた侵入者たち――恐らくはウォルシンガムのエージェントたちも多少は度肝を抜かれたらしい。
 相手が動かないことを確認して、ぼくはノートのページを捲る。
〈ぼくは手記を解析した〉
〈ぼくの頭の中には手記に書かれた情報が詰まっている〉
〈信じる信じないはお前たち次第だ。だけどお前たちがぼくの言葉に逆らうのならぼくはこの頭を撃ち抜く。そしたら永遠に手記の情報は喪われるだろう。今はもうロンドン塔も機能せず、手記はあの瓦礫の下で壊れてしまったのだから〉
 勿論これははったりであり、そしてぼくの持てる唯一の切り札であった。
 手記を取り込んだのはワトソン博士だ。だけど彼らはそれを知らない。それを知っているのはぼくだけだ。そしてぼくはぼくなりに、日本で取り込んだ手記の解析を済ませている。それが正しいかはこの際考えないことにするが、とにかくぼくには他に方法がなかった。
 ぼくはぼくの持てる手札を最大限に利用し、ぼくという存在をウォルシンガムに売り渡すことでワトソン博士を守ろうとした。守りたかった。
 ザ・ワンと同じように魂を持った屍者。手記の情報を身内に抱えた屍者。彼らの欲する技術をその頭に埋め込まれた屍者。それがぼくの持つ彼らに勝てる唯一の切り札なのだ。
 ぼくはそこでノートのページを更に捲って、次の言葉を突きつけた。
〈ぼくは意思を持っている。自らの力で考え、判断ができる。お前たちがもし不穏な動きでもするのなら手記は喪われることになるが、ぼくのだす条件を呑むのなら、ぼくはお前たちに協力することも厭わない〉
 ぼくの体には、もう心臓の鼓動なんてものはなくなって久しいけれども、もしぼくの心臓がまだ動いていたとしたらその時は人生の中で一番の早鐘を打っていたことだろう。
 正直なところ、ぼくにはこのはったりが百戦錬磨のエージェント相手にどれだけ通用するのか分かっていなかった。けれどここで退いてはいけないことくらいはぼくにだって理解できていたし、それは多分向こうも同じだったのだろうと思う。
 ぼくの牽制により奇妙な均衡だけが部屋に満ち、ぼくらは互いに動くこともできずに向き合ったままだった。
「そこまでにしておきなさい」
 そのどうにもならない均衡を破ったのは彼らの後ろから聞こえた声だった。
「銃を下ろしなさい」
 恰幅のいい紳士がエージェントの後ろから顔を覗かせる。
 落ち着いた声は有無をいわせない響きが籠もっていて、エージェントたちは戸惑いながらも銃を下ろす。だが紳士はそれだけでは飽き足らず、銃をしまえと重ねて命じた。そうして彼は初めてぼくを見て、エージェントたちと同じように銃を下ろしなさいとぼくに命じた。
 この銃と、ぼくの存在だけがワトソン博士の生命線だ。だからそれはできないと思ったけれど、自身に銃口を向けられたままではできる話もできなくなるといわれてしまえば、ぼくとしても不承不承従わざるを得なかった。ぼくは別に争いたいわけじゃない。ただ、ワトソン博士が無事でいればそれでいい。そして彼はぼくに対し話合いの意を見せた。とりあえずはそれで十分だ。
「初めましてだね、Noble_Savage_007」
 ワトソン博士をはじめとするぼくの周囲の誰もが使わなかった方の名前で呼ばれて、ぼくは盛大に顔をしかめた。彼の言葉に一つ首を振る。
 ちがう。
 ぼくはウォルシンガムのNoble_Savage_007じゃない。ぼくは、ワトソン博士のフライデーだ。
 露骨に嫌な顔をしたぼくに、ぼくの言いたいことを察したのだろう。彼は苦笑し、フライデーとぼくの名前を改めて呼んだ。ぼくはそれに一つ頷く。
「わたしはM、前任者の尻ぬぐいを押しつけられた。本名はまあ、言わなくても許してくれ」
 イエス。承知した。
 彼の言葉にぼくは頷く。
 Mの名前が何であろうとぼくにとって大して重要なことじゃない。
 ワトソン博士は手記を取り込んでから未だ目覚めず、ぼくは背後にワトソン博士を庇いながらもMと調停の席に着いた。目的はお互いに目的の落としどころをつけての利害の一致。彼らは手記の回収を、ぼくはワトソン博士の身の安全を。互いの望むものを、より有利な条件で勝ち得る。そのための駆け引き。
「分かりきったことを聞こう。手記はどこにある?」
〈もうない。手記はロンドン塔の瓦礫の下にある。多分壊れてしまっただろう〉
 Mの問いにぼくはノートに答えを書き記す。
〈ただしワトソン博士はぼくを使って手記の解析を試みた。その時に取り込んだ手記の情報はぼくの中に蓄積されている〉
 つまり、ぼくは今手記そのものだと暗にほのめかす。
 これはあながち嘘ではない。ぼくなりに解析をした手記の情報は確かにぼくの中に存在し、ぼくはその気になれば手記の情報をぼくの思う通りに引き出すことだってできる。ただそれをしないだけだ。そんなことはきっとワトソン博士は望んでいないだろうから。
「そのワトソン博士は目覚めていないようだが?」
〈それはぼくにも分からない。チャールズ・バベッジの混乱で中心部にいた生者はワトソン博士だけだから〉
 内心の動揺を気取られぬようにぼくは細心の注意を払ってノートに答える。
 それが本当は違うことをぼくは知っている。ワトソン博士が目覚めないのは恐らくは手記を取り込んだ所為だ。決してチャールズ・バベッジでの出来事が原因なわけではない。だがそれを知られるわけにはいかないのだ。屍者ではなく、けれどネクロウェアを上書きされた生者でもないあの人のことをウォルシンガムが知ったら、ぼくの手の届かないところへとワトソン博士は連れ去られてしまう。それだけは絶対に避けなければならないのだ。
「……ふむ、確かに誰かに指示を受けて動いているというわけではなさそうだな」
〈ぼくは普通の生者と同じようにものを考えて自分で動くことができる。或いはザ・ワンのように〉
「君には魂があると?」
〈ぼくがぼくであるという思考が、魂によるものだとするのなら〉
 Mの目がぼくを見定めるように細められる。その目を真っ直ぐに受け止めて、ぼくは屍者の目でMを見返す。
 ぼくの武器はワトソン博士から拝借した拳銃。そして紙とペン。切り札はぼく自身。些か心許ない手札ではあるけれども、かき集めて並べれば何もないよりは幾分かましだと言えるだろう。
 だけどMはぼくの精一杯の虚勢すら見抜くように小さな笑いを漏らすだけだ。
「ザ・ワンは魂を持ち、自ら喋ったと聞くが」
 喋ることもできないのならただの屍者に毛が生えた程度だろう。
 それは嘲笑というよりもどこかぼくを挑発するような響きが籠もっているようにぼくには聞こえた。ただの屍者ではないというのなら喋ってみせろと。自分を特別だと示したいのであればそれにふさわしい振る舞いをしてみろと。彼は決して善良なばかりの人間ではないのだ。それを忘れてはならない。ぼくに何の価値がないと思われれば、或いはぼくよりもワトソン博士の価値の方が重いと思われれば、ワトソン博士が僕の手の届かないどこかへと連れ去られてしまうことだってあるのだ。
 圧倒的に不利なのはぼくの方で、場の支配権はMにある。ぼくはできるだけぼくが有用であることをMに示さなければならない。そうでなければぼくは魂だけではなく、物質的にもワトソン博士を喪ってしまう。
 ひゅうひゅうと使い方を忘れたように喉が鳴る。呼吸を止めて久しい肺腑に空気を送り込み、声帯を震わせ、口を開き意味を成さない音と声を何とか言葉の形に作り直す。
「……ぼ、くは」
 まさか本当にぼくが喋るとは思っていなかったのか、流石にMも驚いたような顔をした。その顔に少しだけ溜飲が下がる。ぼくに魂を宿したワトソン博士の技術を、情熱を、あの人が親友を求める為に燃やした執念を甘く見てもらっては困る。ぼくはあの人の願いの具現なのだから。
 ぼくの存在こそがあの人と、あの人の親友であったフライデー博士の研究の成果なのだから。二人が信じた魂を、奇蹟を裏切るような真似をぼくはできない。するつもりもない。
「ぼくには、たましいがある。ぼくの……魂、が……ぼくを動か、す」
「……ああ、確かにそのようだな」
 もう喋らなくていいといわれてぼくは口を噤んだ。
 いくつかの言葉を口にしただけでぼくは今にも倒れ込みそうな程に疲弊している。これはもっと訓練を積めばザ・ワンのように滑らかに喋ることができるようになるものなのだろうか。生者に紛れても違和感なく溶け込めるようになるには、はたしてどれほど時間がかかるだろうか。
「他には何ができる?」
〈強制的な屍者の制御。その気になればぼくは屍者を操ってロンドンの街を死の街に変えることもできる〉
 ぼくの思考を断ち切るようなMからの問いかけにペンを走らせて答えるけれども、これは殆ど嘘である。
 解析した手記の中にザ・ワンやハダリーが行ったような屍者制御の技術、方法論があったことは本当で、それを解析したぼくも理屈の上では屍者を操ることができるだろう。何せその技術自体は手に入れているのだから。
 だけど、ザ・ワンですら巨大な解析機関を利用しなければ大規模な屍者の暴走事件など引き起こせなかったというのに、一度たりとて屍者の制御などしたことのないぼくにそこまでの力があるのかは大いに謎であった。ただそれくらい言っておかなければぼくに何の価値もないのではないのかと思われてしまいそうで、それ故にぼくは大きな嘘をついたのだ。
 だけど、生まれたばかりのぼくと年相応以上の経験を積んでいるだろうMではあらゆることに対して経験に差が開き過ぎている。Mの目はぼくの頭の中まで見透かすようで、ぼくはその目に少しだけおそれを抱いた。
 屍者にはそんな感情はないはずなのに。
「ではそれだけの力があるというのに何故何もしない」
 けれどぼくをじっと見つめたMはぼくの精一杯の嘘のあらを指摘するようなこともなく、寧ろぼくの言葉を信じたような素振りさえ見せてぼくに問う。だからぼくも、誠実をもって彼に答える。
〈ぼくは屍者にむやみに人を襲わせたりしない。屍者の暴走も、必要ないのなら起こさない。ワトソン博士はきっとそんなことを望まないから〉
「君は、自分の生みの親を恨んではいないと? ザ・ワンとは違って?」
〈恨む理由がない。ワトソン博士はぼくの生みの親だ。ぼくはずっとあの人を側で見てきた。この先、あの人がぼくを忘れて二度と戻ってこなかったとしてもぼくはワトソン博士を恨んだりなんてしない〉
「……」
 ぼくの返答にMが黙り込む。もとより喋ることの下手なぼくもまた黙りこくっている。だけれども、もしもぼくに涙を流すことができたのならば、きっとぼくは泣いていただろう。
〈あの人がぼく忘れて二度と戻ってこなかったとして〉
 その仮定はぼくにとってあまりにも残酷なもの過ぎた。
 ワトソン博士が戻ってこない。異なる言葉の地平へと去ったワトソン博士は、その果てに彼の探し求めた親友と再び巡り会えるのだろうか。その地平の果てに彼の求めた魂が佇んでいるから、目覚めることもなくこちら側へ戻ってくる気配もないのだろうか。
 ぼくを生んだぼくの両親はぼくが産声を上げきる前にどちらとも遠い果てへと行ってしまった。生まれたばかりのぼくだけが、この世界に取り残された。だけどぼくは二人を求めて暗闇の中で手を伸ばし、その手を握ってくれる手があることを信じている。いや、そうであってほしいと願っている。
 長い沈黙だけが横たわる。
 重苦しい空気に包まれてぼくが一人で感傷に浸っていると、しばらくしてやっとMが口を開いた。
「きみの望みは何かね、フライデー。そのために君は何を対価とする?」
〈ワトソン博士の身の安全。彼が安らかに暮らせること。対価ならぼくとぼくの中にあるものを全て〉
「全て、とは?」
〈言葉通り。ぼくの体も頭の中身も。あなたたちが手記に書かれたことを悪用しないと約束するのなら〉
「博士の為なら自分はどうなってもいいと?」
 Mの言葉にぼくは少し首をかしげる。彼の言っていることの意味が分からなかった。
 ぼくはもう死んでいる。魂を得ても、屍者は屍者だ。二度目の死はいずれ来るだろうけれど、それは自然の摂理に反した存在が再び自然の環に還るというだけのことだ。ぼくは痛みも苦しみも感じない。そのような機能は最早失われてしまっている。
 例えぼくの肉体が細切れにされたとしてもぼくの魂は存在する。ぼくをぼくたらしめる21グラムは確かにある。それはワトソン博士がフライデー博士と共に証明したことだ。だからぼくはぼくのことに関して何の心配もしていない。
 ぼくの曖昧な反応にMは溜息をついてエージェントたちを部屋の外へと追い出した。残ったのはぼくとMとワトソン博士の三人のみだ。
「さて、腹を割って話そうか」
 Mはなんだか可哀想なものを見る目をしてぼくを見つめてそう言った。
 それからしばらくの間、Mの声とぼくがペンを走らせる音ばかりが部屋の中に満ちて、部屋に入る日の光が西に傾く頃に三人きりの密談が終わった。話したことは大したことではない。ぼくがワトソン博士を敬愛しているということ。ぼくに魂が生じてから今日に至るまで片時もワトソン博士の側を離れないでいたこと。ワトソン博士はチャールズ・バベッジの混乱の後ずっと目覚めてはくれないこと――もっともこれには嘘も多分に含まれているけれど。
 長い話を終えて疲れたようにMが溜息をつく。
「正直なところ、わたしは屍者という存在がいつまでも人類にとって有益であるという考え方には懐疑的でね」
 いずれ屍者という存在は廃れてなかったことにされるだろうとMは言った。ぼくもその方がいいと思うので素直に頷けばMは意外そうな目をしてぼくを見てくるので少しばかり目を逸らす。
 屍者は多分いない方がいい存在なのだ。
 屍者というものがなければワトソン博士もきっとここまで死んだ友人を追い求めたりはしなかっただろうから。ああ、でもそうしたらワトソン博士はフライデー博士と知り合う機会もなかったのだろうか。屍者の存在をぼくはあまり賛同できないけれども、彼らの為には屍者がなければならなかったのならぼくは差し出がましい口をきかないことにしよう。
「それでも、君の存在も博士の存在も、ウォルシンガムとしては無視は出来ない」
 それは分かっていたことだった。
 ぼくも腹を決めてMの言葉に頷く。
 大事なものなんて最初からわかりきっているのだ。
 例えぼくが細切れに切り刻まれても、脳みそを取り出されても、ワトソン博士が無事ならそれでいい。

 

 

 話が長くなりすぎただろうか。
 結果として言うのであれば、ワトソン博士の所有していた屍者フライデー、或いはNoble_Savage_007はウォルシンガムに回収された後、解剖されて脳みそを取り出された。そういうことになっている。こうしてぼくが存在している以上、勿論それは嘘だけど。
 Mはぼくに幾つかの選択肢を与えてくれて、ぼくはその中からMの弟であるシャーロック・ホームズと共に過ごすことを決めた。それはぼくがM、ひいてはウォルシンガムの監視下にあるということでもあるし、同時にロンドン中を駆けまわりながらぼくがワトソン博士を見守ることのできる立場でもあるからだ。
 ぼくが屍者でありながらそれを隠し、普通の人間として暮らし、人々の中にとけ込んでいることを知ったハダリーは何とかぼくに接触する機会を窺っていたらしく、とある事件の依頼人としてホームズとその側に控えていたぼくの前に現れ、二人で話し合って形式上の夫婦となった。
 ぼくが結婚を表向きだけとはいえ決めたことに対してホームズはとても不機嫌になって、遠慮無く嫌味をぶつけてきたけれども、ぼくにとってハダリーは数少ない理解者であり味方とも言える女性でもある。屍者の夫に機械人形の妻だなんてこれ以上なくお似合いだとぼくとしては思うのだけれども、ぼくもハダリーも生者ということになっている以上それはホームズに対しても秘密であった。
 ワトソン博士はその後しばらくウォルシンガムの療養所に入れられて更に三日が経った頃ようやく目覚めたものの、記憶の一部がごっそりと欠落しており、屍者と生者の区別もつかなくなっていた。この時ワトソン博士と共に療養所に詰め込まれていたぼくはこの事実がとても哀しかったけれどもこればかりは手記の影響であるのだろうと思われたし、それを悟られるわけにもいかずできる限り平静を装わなければならなかった。
 最終的にMとぼくはぼくの存在も、ワトソン博士の過去も全てに口を閉ざすことを選び、彼は今ジョン・H・ワトソンとは全く異なる名前で屍者とは縁遠い生活を送っている。
 取り残されたぼくは別の偽名を使うこともできたけれど、それでもワトソン博士への未練を断ち切ることなんて到底できずにあえて博士の名前を名乗っている。いつかワトソン博士が帰ってきた時に、彼の名前がどこかにでも残っているように、ぼくは彼の名前をかたる。
 名探偵シャーロック・ホームズの横で燦然と輝くぼくの最も敬愛する人の名前に、ぼくは少しだけ誇らしく思う。

 

 ぼくはジョン・H・ワトソン。開業医の傍らで、かつての同居人シャーロック・ホームズの探偵業の手伝いをしている。そして、ぼくの生みの親であり今は喪われた古き良きワトソン博士の帰還を待ち続けている。