友達の、はなし

「久慈くん」
 可愛らしい声がした。親しみを込めたような、どこか媚びるような、それでいて好奇心を隠しきれない声だった。少し鼻にかかったような喋り方をする声は燕太のクラスメイトである女子生徒のもので、その声に呼ばれたのは自分の名前ではなかったけれど、ここ最近いやになじみ深いものではあったから燕太はついそれに反応してしまった。
 中途半端な隙間が空いたドアを開くために伸ばしかけた手が止まる。ついでに息を殺して扉一つ隔てた向こう側の様子を探りながら考える。
 このまま何食わぬ顔をしてドアを開けてしまおうか、それとも一度立ち去るべきかを悩んでいるうちに先程聞こえたのとは別の声が、素っ気なくいらえを返すのが聞こえた。クラスメイトの中でも特に低く聞こえるそれはやはりここ最近よく聞いていた悠のものだった。
「何だよ」
 必要最低限の問いかけは愛想のない声音に相まって突き放しているようにも聞こえたが、相対する声はそれにもめげずに会話の続きを試みる。
「久慈くんって昔○○小学校に通ってなかった? 家、お蕎麦屋さんだったよね」
 彼女の言葉に燕太は思わず息を呑む。
 それは燕太が少し前に久慈から聞いた話とそっくり同じだった。小学校の話はしていないけれど、悠の家が蕎麦屋をやっているのは他ならぬ彼から聞いている。だが悠が自分からそのことを吹聴するとは思えないので、彼女は一体どこからそんな情報を仕入れたのか疑問が浮かぶ。同時に女子の情報網とは実に恐ろしいものだと恐怖した。この調子で燕太がこっそり一稀とその持ち物にしてきたことまで知られていたらどんな顔をして登校すればいいのか分からない。
 思わず明後日の方向へと大きく振られた思考を慌てて目の前に引き戻す。今は自分のことではなく悠のことだ。さて、彼女は一体どうやって悠の家のことを知ったのだろう。
 妥当なところなら彼女はクラスの女子の中でも特にお喋りや噂話が好きだから、もしかしたら誰かから久慈のことを聞いたのかもしれない。だが、それを知らない悠は彼女の情報網に驚いて、扉の向こう側で同じように息を呑んでいるのだろう。
 そうだとも違うとも返されない沈黙に、硬直する悠の姿が簡単に想像できた。
 ほんの少し、つま先程度に開いたドアの隙間からそっと教室を覗き見ればやはりそこには固まったままの悠と、燕太が想像した通りのクラスメイトがいた。差し込む西日に二人の輪郭が淡く滲む。
「だったら何だよ」
「やっぱり! 三、四年の時にクラス一緒だったんだけど覚えてないかな。小島だよ、後ろの席だった」
 先程よりも低められた悠の声音に臆することなく朗らかに返す彼女の声がいやに耳に絡みつく。彼女の言葉に何かを探るように悠は少しだけ黙り込んで、それから小さくああとこぼした。
 どうやら悠の方にも思い当たる節があったらしい。
 考えてみれば当然だ。悠は元々浅草にいて、同じ場所に戻ってきたというのであればここは彼の地元であるのだし、小学校時代の友達だっていることだろう。それが偶々燕太たち――悠のクラスメイトの一人だったというだけで。
 音寧によって紹介された初日からあまり態度のよろしくない、どことなく不良のような雰囲気を漂わせている悠は未だクラスに馴染んでいるとは言いがたい。互いに抱えた事情が事情であるだけに燕太や一稀は話をするが、それも殆どが学校の外でのことであってクラスではお互いまるで他人のような有り様だ。
 別段それを悠と示し合わせたというわけではない。ただ何となくクラスの中で燕太たちから声をかけるような機会もなく、逆に悠から声をかけられることもない。一匹狼でも気取っているのか、無愛想で素っ気ない態度や不良じみた雰囲気にクラスメイトも遠巻きにしているというのが悠の現状だった。
 だから、今目の前に広がっている光景が燕太には信じられない。
 確かに彼女は賑やかな、悪く言えば口うるさくお節介でお喋りがすぎるタイプの女子ではあるけれど、いくら小学生の時に席が近かったからといって今の悠に平然と声をかけられる度胸は十分賞賛ものだろう。関わるきっかけがなければ悠のような人間はご遠慮願いたいというのが燕太の正直な感想で、そんな相手に自分から話しかけていく彼女の神経は少々燕太には理解できない。
 ただ、それはどうやら悠の方も同じ感想のようだった。
 いぶかるように眉をひそめて、鬱陶しそうな顔をして相手を見据える。元々目つきが悪い悠なので、丁度睨んでいるようにも見える。流石の彼女も少し怯んだようだったが、気を取り直すように一層明るい声を出してねえと小首をかしげた。
「久慈くんって、四年生の時に転校したよね」
「……」
 何も言わない悠を気にした風もなく弾んだ声で彼女が言葉を重ねる。そこにはもう、隠しきれないまでにぎらぎらとした好奇心が顔を覗かせていた。それも、斜に構えたような雰囲気の転校生への興味ではなく、もっと無邪気で下世話な類いの。
「そのときお母さんたちが話してたの聞いたんだけど、夜逃げしたって本当なの?」
 ひゅ、と細く聞こえた音は悠が発したものか、もしかしたら燕太の喉から聞こえたかもしれない。
 あまりにも無邪気に無遠慮に無神経に、好奇心を理由に悠に踏み込もうとした彼女の足跡がくっきりと見えるようだった。
 彼女の中で悠の転校は、その理由だったかもしれない借金と夜逃げというものはきっとテレビの向こう側にあるドラマのように現実味の薄いエンターテイメントの一つなのだ。例えばいつも彼女が口にする他愛もない本当かどうかも分からない噂話や芸能人のゴシップと同じように。
 だけど燕太は彼女の疑問が正しくないことを知っている。知っているからこそ、その無神経極まりない質問が許せなかった。
 悠は何も答えない。答えようがない。あまりにも不躾に投げかけられた疑問に驚いてぽかんと開いた口許がきつく引き結ばれるのを見て、咄嗟にドアに手を掛ける。こういう時、燕太は頭で考えるよりも体が先に動いてしまうタイプなのだ。
 そのまま一息に勢いよくがらりと引き戸になったドアを開いて、勢いをつけすぎた為に跳ね返ったそれを押さえながらわざとらしく悠の名前を呼ぶ。
「久慈!」
 はっと驚いたように燕太の方へ顔を向けた悠が何か言いだすよりも早く口を開いた。
「こんなところにいたのかよ。数学の田中が呼んでたぜ」
「……田中が?」
 燕太の言葉を不審に思った悠がなんのつもりかと目で訴えてくるがそれを無視して歩み寄り、一方的に手を掴む。驚いているクラスメイトに連れていってもいいかを訊ねて、彼女があっけにとられて答えられないでいるうちに急ぎだからと逃げ出すように教室を出た。少し無理矢理だったかもしれないと気付いたのは階段を下りてからで少し迷った後に連れていったのは人気の少ない校舎裏だった。
 日も落ちかけた夕暮れ時の校舎裏は殆どが影に覆われていて薄暗い。悠の姿を隠すにはぴったりだった。
 ここならば彼女が追ってくることもないだろう。握りしめたままの手を解こうとして、そこで初めて悠も自分の手を握りしめていることを理解する。強張った指先は驚くほどに冷たくて何故だか燕太の方が苦しくなる。
 影の落ちた暗がりの中で、悠の顔だけが白く浮かんでいる。いつもの突き放すような近寄りがたさも何もない悠の姿はひどく無防備で、まるで迷子の子供のようだった。そのくせ歩いている間ずっと噛みしめていたのだろう唇は真っ白で、彼がずっとあらゆる言葉を飲み込んでいたのだと分かる。
 青ざめた顔をした悠から目が離せない。何を言えばいいのかも分からず木偶の坊のように突っ立っていると、悠が微かに唇を震わせた。小さな隙間から深い溜息が聞こえる。何かを振り払うように軽く頭を振って燕太を見つめる悠はもうすっかりいつもの悠に戻っていた。
「聞いてたのか」
 どこからだと訊ねる声はさっきよりもずっと低くて、苛立ちを隠さない声音に正直に答えるべきか迷う。だけどあの状況から悠を連れ出したのは他ならぬ燕太なのだから偶々出くわしたというのはあまりにも苦しい言い訳だ。悩んだ末に正直に答えた方がいいだろうと判断して燕太は口を開いた。
「小島が声かけたところから……聞くつもりじゃなかったからそれは謝る」
 ごめんと素直に謝罪を告げれば少し戸惑ったような顔をして、悠は別にと小さく答えた。
「どうせお前には今更だし」
 それが何を意味しているのかは燕太にも分かる。
 少し前、燕太は悠の秘密を知った。それを知って悠を人殺しだと罵ったこともある。その記憶は燕太にとって苦いものであるけれど、そのおかげで今悠連れ出すことができたのならこれで良かったのかもしれない。
 正確に言えば燕太は悠がどうして浅草から離れたのか詳しい理由は知らない。ただ悠の口から両親が死んで一時期浅草から離れていたと聞いただけだ。その話と以前悠と共有した彼の秘密から推測することしかできないが、それで十分だった。
 少なくとも彼女のように無神経に本人に聞いていいものではないことくらい燕太にだって分かっている。人には誰でも他人に知られたくない秘密を抱えているものなのだから。
 つらつらとそんなことを考えていたからだろう。なにやら気まずそうに口許をもごともごとさせていた悠が何かを言ったが、上手く聞き取れずに思わず間の抜けた声が出る。
「へ?」
「だから、その……助かった」
 微かな吐息混じりに吐き出されたのは感謝の言葉で、珍しい悠の態度に驚いて思わずまじまじとその顔を見つめてしまった。悠の方も自分が口走った言葉がらしくないものだという自覚があったのか、それとも燕太に礼を言うのが気恥ずかしかったのか、気まずそうに顔を逸らしていい加減離せよとぶっきらぼうに握ったままの手を振りほどく。乱暴に払われた手にずっと握っていたのはお前の方じゃないかと反論したかったけれど、それは子供っぽい気がして飲み込んだ。たまには燕太の方が譲ってやってもいいだろう。
 教室でのやりとりを端から聞いていただけに悠を励ましたり慰めたりというような気の利いたことはできないけれど、こんな時くらいは優しくしてやろうという程度の気遣いは燕太にだってできる。
「あんまり気にするなよ。どうせ小島のことだから二、三日すれば忘れてるって」
「別に気にしてなんかねえよ」
 つっけんどんな悠の反応に思わず笑ってしまう。どうやら彼もいつもの調子が戻ってきたようで、燕太も内心ほっとした。愛想が悪くてもぶっきらぼうでも悠はいつもの方がいい。あんな迷子の子供のような顔をされたら燕太もどうすればいいのか分からなくなる。
 続けざまに他愛ない軽口を叩けば呆れたようなうんざりしたような反応が返ってきて、それがあまりにもいつもの悠であったから内心燕太もほっとした。悠がすっかり調子を取り戻したところでそういえば田中はいいのかとわかり切ったことを、それでも律儀に訊ねてくるから燕太は首を振ってあれは俺の嘘だからと答えた。
 咄嗟についた嘘ではあったけど、悠の方は呼び出しを食らう心あたりでもあったのか少しだけ悩む素振りを見せてからそうかと頷く。
 そのとき頭上から鐘が鳴った。耳に慣れた童謡がスピーカーでひび割れながら流れている。下校を知らせるメロディにどちらともなく顔を見合わせて帰ろうかという話になるのは当然で、けれどそのまま帰るには燕太も悠も手ぶらのままだった。何せあの時燕太は鞄を取りに教室に戻ったのだから、そこから取るものも取りあえず校舎裏まで行ったのでは手ぶらなのは当然だ。
 急いで二人で鞄を取りに戻る。教師たちの姿を見ないのをいいことに階段は一段飛ばしで、廊下は走って教室へ。置いてけぼりにされた形だった彼女ももうとっくに帰ったのだろう。電気の消えたそこはすっかり暗く、四角くくり抜かれた窓の向こうは赤みを帯びた紫から濃紺のグラデーションがかかっている。
 夜の気配を感じる空におのずと学校を出る足は速まって、校舎を出る頃には二人とも駆け足になっていた。向かう先はかっぱ橋道具街通り、その一角。
 昼が終わる。夜が始まる。
 夜はカパゾンビとカッパたちの時間だ。