駅前のスーパーで安売りされていたそれは熟した果実特有の腐り始める寸前のような甘ったるい匂いをまき散らしていた。ほんのり赤く色づいた見た目に、これから向かう家に住む恋人のことを思い出してごく自然に燕太は店先に並べられた桃を手に取った。
 会計を済ませ右手に感じる重みに丁度いい手土産ができたと思うことにする。
 ビニル袋に入れられてもなお甘ったるい匂いを振りまくそれを、相手に振る舞うことを考えればそれだけで歩くスピードも速くなるが、今手に持っているのは柔らかな果実で少しでも乱暴に扱えば傷んでしまう。浮かれて走り出すなんて真似はせず、それでもできる限り急ぎ足で燕太は彼の住む家へと向かった。
 そうして予定よりも少し早めについたアパートにチャイムも鳴らさず持ってきた合鍵で上がり込み、そのまま真っ直ぐ台所に向かう。
 かろうじて埃こそ被ってはいないもののさほど使われている痕跡のないシンクの脇には申し訳程度に安物の三徳包丁とまな板が立て掛けられているが、別段燕太も料理をするというわけではないので気にすることなく、早速買ってきたばかりの桃を袋から取り出した。
 食べ頃をすぎ柔らかく熟れすぎた桃は少し力加減を間違えただけで指の形に潰れてしまう。溶ける寸前のような果肉から薄い皮が簡単に剥がれて、中に詰まっていた果汁が指を伝ってぽたりぽたりとシンクに落ちていく。隙間とあらばどこにでも入り込んでくる果汁に包丁を握る手が滑る。ついでに桃を持っている手も柔らかな実とたっぷり詰まった果汁に滑るが、かといって力を込めて握りしめることもままならず壊れ物でも扱うようにそっと掴むより他になかった。
 べたつく指先の不快感を無視しながら一口大に桃を切り分けて、皿の上に盛っていく。
 柔らかく甘い部分を全て切り分けた後に残るのは種の回りにこびりついた部分だけで、勿体ないからと囓ってみると甘さの中に混ざるえぐみが舌を刺したので皮ごとゴミ箱に捨ててしまう。
 蛇口をひねって手を洗い、包丁も洗って、切ったばかりの桃が酸化する前に部屋へと運ぶ。
 狭苦しいアパートの狭苦しい台所と扉一枚挟んだ、やっぱり狭い部屋に男が一人転がっている。薄いタオルを肩にかけて丸まって眠る姿は燕太と同い年のはずの男を本来の年齢よりも下に見せた。起きていればどちらかというと燕太の方が幼く見られるというのに、こういう時だけ幼く見えるのが少しばかり腹立たしい。
 部屋の外、窓の外では室外機が低いうなりを上げていて、部屋の中は半袖では少し寒く感じるほどに冷やされていた。ゆっくりと、冷えた空気が部屋から溢れてくるのが分かる。
 どうやらこの家の主はこの夏も例によって暑さに負けているらしい。
「久慈、起きてるか」
 台所でがちゃがちゃとうるさくしていたにも関わらず反応がなかったあたり起きてはいないだろうと思いながら声をかけた。
 日に焼けた畳の上で薄い座布団を枕がわりにして寝こけている悠をつま先で軽く小突けば、やがて悠が目を覚ました。寝ていた時の体勢のままぼんやりと目をしばたたかせてじっと動かない。もう一度久慈と名前を呼んでやると、やっと燕太のことに気付いたようでのろのろと起き上がりはしたもののどうしてここに燕太がいるのか分からないという顔をしていた。寝起きの悠の反応は大抵いつもこんなものだから今更燕太も気にはしない。
「……お前」
「前から言ってただろ、今日はこっちに来るって」
 土曜日だしと続ければ、少しの間を置いてああと小さないらえが返ってきた。
 控えめな返答もおおむね燕太の予想通りで、意に介することなくちゃぶ台の上に置きっぱなしにされていたエアコンのリモコンを手に取り温度を上げる。幾ら悠が暑さに弱いとはいえ、この部屋は少し寒すぎる。こんな部屋に籠もっていればそりゃあ外の気温になんて耐えられないだろう。
「それより久慈、ちゃんと飯食ってるのか?」
「……食ってはいる」
 分かりきった問いかけに返される歯切れの悪い返答に、これは嘘なのだろうと理解した。伊達に中学からの付き合いではないし、何より悠は嘘が下手だ。毎年この時期、暑さに負けた悠の食が細くなることくらい燕太はとっくに知っていて、そして知っているからこそ手土産も持ってきたのだから。
「ほら、桃切ったから」
 お前好きだろうと言いながらちゃぶ台の上に皿を置く。好きだなんて言っていないと不満げな顔をする悠を無視して、食べやすいように切った桃をつまむ。柔らかい果肉はほんの僅かに力がかかっただけでとろりと透明な雫を滴らせるが、それを無視して些か強引に悠の口許に押しつけた。
 色味の薄い、見ようにもよっては酷薄さすら感じる薄い唇が果汁に濡れて艶を帯びるのに思わず生唾を飲み込みそうになるのをどうにか堪える。欲情を覚えるにはまだ早い。
 食えよ、と少しばかり強めに言えば悠の方も逆らうべきではないと判断したのか、それともここで無駄な諍いをするのも億劫だと思ったのか、躊躇いがちに口を開いた。無防備に開かれたその中に一欠片の果肉を押し込むと、素直に口を閉じて悠が桃を咀嚼する。その間に燕太も欠片を自分でつまんで口に放り込む。想像通りの甘さが口の中に広がって、柔らかな果肉は口内ですぐに潰されて胃の中へと収まった。
「本当、久慈って昔からすぐ夏バテするよな」
「……悪かったな」
「中学の頃はそうでもなかったのに、また不摂生な生活してるんだろ」
「別に、そこまでじゃない」
 元々そう口数の多いわけでもない悠を相手にすると自然と燕太が喋ることが多くなるのはいつものことで、すっかり慣れたものだった。付き合いが長いと言うのもあるのだろうが、昔の思い出話からこの夏の近況についてまで話題が尽きることはないし、聞いていないようでいて悠はきちんと人の話を聞く人間なので、ぽつぽつと会話は続いていく。決して壁打ちというわけでもない緩やかなキャッチボールは日頃付き合っている友人たちとの会話とはまた別の心地良さがあった。これは悠といる時にふと落ちる沈黙自体がそう嫌なものではないというのも関係しているのだろうが。
 互いに口にする話題が途切れた瞬間の沈黙と静寂に気まずさが流れることはなく、その気楽さはきっと自分が悠に受け入れられているからだと思うのは決して燕太の自惚れではないだろう。
 寝起きだからなのかいつもに比べて大人しく、ぽつりぽつりと言葉を返す悠の口に会話の隙を縫っては桃を詰め込んでいく。
 傍目には甲斐甲斐しく見えるのかもしれないこの行為は燕太のささやかな欲望を満たしてくれる。この時期にだけしか出来ないものでもあった。
 そもそも普段の悠など手ずから何かを食べさせるどころか冗談混じりでさえ「あーん」などということはしないし、逆にやらせもしない。もしも燕太がそんなことをやろうものなら、悠は引きつった顔をして何をするつもりだという視線すら向けてくる。
 その悠が、この時期夏バテで食欲というものをどこかに落としてきた時にだけ渋々燕太の施しを受けるのだ。それが燕太は好きだった。平素は自立心が強く、食事どころか他のことすら燕太の手をなかなか借りようとしない悠が大人しく燕太が食べ物を口許まで運ぶのを受け入れて、食事とも言えない食事をすることにひな鳥をを餌付けしているような奇妙な優越感を覚えるのがひとつ。
 それから、単純に悠が自分の手からものを食べるのが見るのが好きだというのがひとつ。
 尤もそれは単純な庇護欲だとかいうよりももっと下心のあるものではあったが。
 濡れた唇が開かれて、真っ赤な口内と白い歯がのぞく。その隙間に薄紅混じりの乳白色の柔らかな果実を押し込む一瞬、指先に粘膜が触れるたびに背筋に電流が流れるような心地がした。果汁でべたつく指を舌が舐めとり、ちゅ、と物欲しげに音を立てて吸うときの、僅かに伏せた目元がなまめかしい。甘ったるい果実ごと悠が自分の指を食むのはどこか性交にもにた興奮を覚えて、最初はただの冗談とちょっとした悪戯心から始めたことであったはずなのに、今ではこうして自分からせっせと世話と称して仄かな欲を満たしていく行為にすり替わっている。
 こういうことを考えてしまうから駄目なのだろうという自覚はあれども、今のところは悠に拒否されないのをいいことにこの一風変わった食事風景は燕太にとって毎夏のささやかな楽しみになっている。
 勿論、一時的なものであるとはいえ悠の食が細くなること自体は心配なのでちゃんと自分で食べてくれるようになってほしいとも思ってはいるが、もうしばらくの間はこの楽しみを満喫したいと思ってしまうあたり自分はひどい奴なのかもしれない。
 ささやかな幸福と、それと同等の罪悪感のせめぎ合いに苛まれながらも表面上は何事もなく悠に桃を食べさせて、皿の中が空っぽになると、悠は最後に名残惜しそうに燕太の指を舐めとって、それから満足そうな顔でチラリと唇を舐めた。行儀が悪いがここには口うるさく叱りつける姉はいないしそれを見ているのは燕太だけで、悠の行儀の悪いその仕草を寧ろ可愛いなあなんて見逃してしまう。
 どこかすれたような厭世的というか人と一線をおきがちなのは中学の頃から変わらないけれど、当時に比べたらやっぱり大分雰囲気は柔らかくなったのだろうと思う。それが燕太相手だからだと思うのは流石に自惚れが過ぎるだろうか。
 つやつやと濡れた唇をじっと見ていると先程触れた時の感触を思い出してしまう。柔らかなそれがキスすると気持ちいいことも、彼が無駄にキスが上手いことも燕太はとっくに知っている。昔は「キッスは悪魔だって、兄さんが言ってた」などと言っていたのに。
 なんて他愛ないことを考えながらどうにか意識を逸らそうとして、でも結局その試みは上手くいかずに視線は悠の唇に釘付けのままだったからきっと燕太が何を考えているかなんて聡い悠にはお見通しだっただろう。軽く口の端を吊り上げて、悪戯っぽく笑う口許はいつかに会った彼の兄を思い出させた。
「そんなに物欲しそうな顔するなよ」
 何考えてるかすぐに分かるぜ。
 冗談めいた言葉を囁くくせに裸足のままのつま先が誘うように燕太の足をなぞった。反射的に逃げるように身じろぐと無遠慮に伸びた手が襟首を掴んで無理矢理引き寄せられる。
 触れ合った唇は微かに桃の甘ったるい味がして、上手く乗せられてしまった自分を馬鹿だなあとまだ冷静な頭の片隅で笑いながら、固い畳の上に悠を押し倒す。抵抗もなければ恥じらいもない。暗い色をした髪の向こう側に見える青みを帯びた瞳には微かな期待がくすぶっていた。
 微かに残った甘ったるい果実の味を確かめるように唇に囓りつく。互いの呼吸の合間にこぼれた吐息は熱くて、それがどちらのものかももう分からない。
 洗いざらしで薄くなったシャツを捲りあげ、冷房で冷やされた肌に手のひらを這わせればほんの少しだけ悠が震えたのが分かった。それが何によるものかなんて、聞くだけ野暮という話だ。期待にゴクリと生唾を飲み込んでそれからいいだろうと形だけの許可を求めれば、控えめに喉を鳴らして悠が笑う。
「ダメだって言ったところで言うこと聞かないだろ、お前」
 咎める響きなど皆無の、寧ろからかうような声はまったくもってその通りで、その言葉に燕太に黙秘し先程台所で剥いた果実よろしく、目の前の相手のシャツを剥ぐ。
 ちゃぶ台の上に置き去りにされた皿に溜まった桃の果汁が茶色く酸化していたのがちらりと視界の端に見えたけれど、それを気にかけてやる余裕なんてどこにもなかった。