俺の心臓に触れてくれ

 初めて触れた温もりを今でもずっと覚えている。
 汚れたことなんて一度もないような、真っ白な手は柔らかく、そして染み入るような温かさを宿していた。熱くも冷たくもないただ優しく温かいその温度が雨に打たれて冷え切った自分の指先に触れた時、心の底から思ったのだ。
 ああ、生きている。
 それが、玲央が初めて自分の生を感じた瞬間だった。
 そぼ降る雨の中で体の芯から凍えるほどに冷え切った玲央の手に触れてすぐさま奪い去られた彼の体温が悲しくて、けれど同時に自分と同じ温度になった手のひらから互いの境界が消え失せて混ざり合うような恍惚を覚えもした。
 今まで誰とも繋がることのできなかった自分が初めて他者と繋がれたことへの喜び。眩しいほどに白く清らかな手に対する憧憬とほんの僅かに芽生えたその手を汚したいという欲望。その全てが獰猛なエネルギーとなって玲央に“生きる”ということへの切望を抱かせた。
「手放すな、欲望は君の命だ」
 白い手に力が込められてきつく握りしめられた指先が鈍く痛む。平坦な声は雨の中、まるでシュプレヒコールのように玲央の耳に届いた。
 そしてこの日、初めて玲央は生きることの意味を知ったのだ。

 

 

「欲望を手放すな」
「欲望を搾り取れ」

 

 

 青白く張り詰めた肌の向こう側、温度のない羊水じみた液体に満たされた体に指先をそっと差し込む。ゆらゆらと揺れる水面は決してそれ以上は揺らぐことも溢れることもなく静かにさざ波を立てるだけで、その光景を不思議なものでも見るような心地で玲央は見下ろしていた。
 耳元でほう、と小さく漏れた吐息にぎゅっと眉根を寄せながら恐る恐る腕を更に深い場所へと押し込んでいく。
 そうやって初めて触れた彼の心臓は、あの雨の日に感じた温かさなど欠片もなくまるで氷の塊のように冷たくてその冷たさを想像だにしていなかった体が竦む。驚いた爪先が硬い彼の心臓を引っ掻いて思わぬ刺激に腕の中の彼がびくりと跳ねたがそんなことを気にしている余裕などなかった。
 これは一体何なのだろう。
 鈍色に輝く心臓は生命の息吹とは程遠い、無骨なまでに硬質な機械仕掛けの代物だった。誰がみてもそうと分かる紛い物の心臓が、まるで本物よろしく彼の体の中心で脈打っている。その事実に強烈な違和感と吐き気を催しそうなほどの嫌悪を覚えてうなじがぞわりと総毛立った。
 決して本物にはなり得ない形ばかりの偽物が彼の体の中に鎮座ましましている。紛い物のからくりによって彼の体は動かされている。
 胸の奥からじわりと湧き上がる、異様なまでの嫌悪の正体は目の前の存在に対する明らかな拒絶であり、自分自身の感情に密かに玲央は戸惑った。
 だってこれは真武なのだ。今玲央の目の前にいるのは、自分の腕に抱いているのは他ならぬ真武なのだ。少なくともこれは真武だったものなのだ。あの雨の日に差し伸べられた手を覚えている。混ざり合った体温も、胸に灯された欲望の火も全部、鮮明に覚えている。
 誰とも繋がれなかった玲央に初めての繋がりを与えてくれたあの手を、温もりを忘れるわけがない。
 けれどたった今玲央の指先に触れた心臓はそんな熱などどこかに忘れ去ってきたかのようにただ冷たくて、それが玲央を恐れさせた。ここには真武にあるべきものがない。真武が持つべき温度がない。
 ならばこれは真武ではないのだ。真武の皮を被った紛い物だ。そのことを今はっきりと思い知った。
「……玲央?」
 竦んだまま動かない玲央を訝るように名前を呼ばれてはっと我に返る。
 僅かに細められた目はこぼれんばかりの涙を湛えて何かを期待するように玲央を見上げ、聞こえた声は熱っぽく掠れていて、それに対して何故だか無性に腹が立った。
 だってお前には何の温度もありはしないのに。お前の心臓はこんなにも冷たいのに。
 真武と同じ顔をして、真武と同じ声をして、温度を持たない心がまるで熱を湛えるかのように玲央を呼ぶのだ。それがひどく気に入らなかった。
 ぎりりと音が聞こえるくらいきつく奥歯を噛みしめて、苛立ちをぶつけるように無遠慮に真武の心臓を鷲掴む。
「……っ!」
 細く聞こえた声なき声とひくりと震える薄い胸にどうしても覚えてしまう罪悪感やほの暗い興奮を飲み込んで、一息にその心臓を引き抜いた。ああ、これが真武であればよかったのに。これは真武じゃない。少なくとも、玲央が求めている本物の真武じゃない。
 もしも今ここにいるのが本物の真武であったとしたら、今この手にあるものが機械仕掛けの紛い物ではなく柔らかく、熱い本物の中身だとしたら、こんな乱暴なことはしない。もっと大事に触れて、痛みも苦しみも感じないように、彼が一番気持ち良くなれるように、細心の注意を払って丁寧に丁寧にその心臓を引きずり出しただろう。恍惚に細められた目を見つめて笑いかけて、何百回でも名前を呼びながら、彼と繋がる為のこの儀式を何よりも尊く思っただろう。
 けれど今玲央の胸にあるのは虚しさだけだった。
 機械でできた心臓が玲央の指先から体温を奪っていく。なのに心臓は少しも熱を持つことなくただただ冷たいままだった。玲央の熱は機械の心臓を素通りして、決して真武を温めない。ここにいるのがかつて玲央と共にいた真武ではないとしても、あの日玲央が真武から与えられた温もりを返すことはできないのだと思い知らされるようで冷ややかな温度が悲しくて仕方なかった。
 目の前の男は温度を持たない。玲央に手を差し伸べたりしない。あたり前のように玲央と繋がることだってない。こうして苦く湧き上がる怒りや苛立ちや虚しさを噛み砕いて飲み込んで、鈍く輝く心臓を触れるまでしなければ繋がらない。
 昔はもっと、そう今よりもずっと簡単に繋がることができたのに。
 他愛ない話をして、一つの食卓を二人で囲んで、ささやかで平穏な日々の中で十分繋がりを感じられた。日々を重ねていく内にもっと真武と深く繋がりたいという欲が重く深く膨れあがっていったのは否めなかったけれど。初めて手を重ねたように混ざり合った体温と共に互いの境界さえ曖昧にして、彼を形作る輪郭さえ全て壊して、一番深いところまで繋がってみたいと考えたことがないといえば嘘になるけれど。だが、それにしたってこんな風に彼の胸の奥に無遠慮に手を差し込んで本来柔らかくあるべきものを掴んで引きずり出すような真似なんてしたくはなかった。それなのに、玲央はもうこんな方法でもとらなければ真武とは繋がることもできない。
 今ここにいるのはかつて玲央が見知った真武ではないけれど、紛い物だと断じながらも他ならぬ玲央自身がその紛い物の中に真武の面影を探して縋っていることも自覚している。だってもう、他に方法がない。これ以外の方法で、どうやったら真武と繋がっていられるのかも分からない。どんなに腹立たしくてもどんなに悲しくてもこのか細いよすがだけが真武と繋がる唯一なのだ。それを手放せるわけがなかった。

 

 

 四角く切り取られた窓の外はすっかり夜だった。白々しい部屋の明かりがいやに眩しくて目を閉じる。視覚を閉ざした分、少しだけ鋭くなった嗅覚がほんの少し青臭いような埃っぽいような湿った匂いを嗅ぎ取った。
 きっともうすぐ雨が降るだろう。
「玲央」
 けれど降ってきたのは雨ではなく平坦な声で、自分の名を呼ぶそれに玲央は渋々目を開いた。相変わらず煌々と輝く明かりが目に痛く、僅かに細めた視線の先には真武が湯飲みを二つ手に持って立っていた。
「何をしている」
 言葉だけは問いの形をしていたけれど、その実真武が玲央に対して答えを求めているわけでもないことは分かっているので別にと素っ気なく答える。案の定真武の方はぶっきらぼうな玲央のいらえに顔をしかめることもなくそうかと答えただけで机の上に湯飲みを置いた。飲めということらしい。
 しばらく湯飲みと真武の顔を交互に睨んだ後に諦めて玲央は湯飲みに手を伸ばした。熱い緑茶はするりと喉を滑り落ちて腹の中へと落ちていく。じんわりと内側からお茶の熱が広がっていくような気がして、そこで初めて玲央は自分の体が冷え切っていることに気がついた。
 当然といわれれば当然かもしれない。先程までずっと玲央はあの冷たい心臓を握りしめていたのだから。
 湯飲み越しに伝わる熱にじん、と指先が痺れるような感覚がする。丁度かじかんだ手が温められた時のような。冷え切った体を丸ごと温めた家の中に押し込んだ時のような。染み入るような温度に吐き出したのは安堵の混ざった吐息ではなく、落胆混じりの溜息だった。
 少し視線を上げれば玲央の目の前には涼しい顔をした真武がいた。そう、涼しい顔だ。
 先程までの恍惚などすっかり影をひそめて、あれだけ目に浮かべていた薄い水の膜もいつの間にか乾ききった無感動な顔がそこにある。それが玲央には不満だった。真武の中には何も残らない、何も届かない。玲央には未だに虚しさも不快感も腹立たしさも、それでいて真武と繋がれた――彼との繋がりを例え細い糸のようなものだとしても保っていられた――ことに対する微かな喜びだってあるのに、真武の中には何もないのだ。温もりに満ちた熱と同じように全部が素通りしていってしまう。
 そしてその全てを溜め込んだ玲央の方はと言えば、あらゆるものが混ざり過ぎてぐちゃぐちゃだった。
「どうかしたのか」
 じっと自分を見つめる玲央の態度が気に掛かったのか、特に表情を変えることもなく真武が問う。それは先程と同じように玲央の返答を期待するものではなくてただただ吐き出された言葉に過ぎない。意味を持たない問いかけに玲央はぎゅっと眉を寄せ、真武への返事ではない別のことを口にした。
「お前の心臓は冷たかった」
「そうか」
「まるで生きていないみたいだった」
「機械仕掛けだからな」
 だから冷たくて当然だと言わんばかりの真武の言葉にますます玲央の眉間に皺が寄る。ぎりぎりと噛みしめすぎた奥歯は今にも砕けそうなまでに鈍く痛んで、それがひどく不快だった。
 何よりも腹立たしいのは真武の答えが一点の曇りもない事実なことだ。玲央が不満をぶつけたところで悪びれることもない。もっとも、今の真武にとってそれらは当然のことなのだから悪びれる理由もないのだが、そのことさえ玲央の不快だという感情に油を注ぐものでしかない。
 ともすれば顔色一つ変えない男の胸ぐらを掴んで、胸の内に溜まったどろどろとしたものをぶつけるべくあらゆる言葉を投げつけてやりそうさえなって、玲央は緩く頭を振りその考えを否定した。そんなことをしても後で虚しくなるのは自分の方であることを玲央は既に知っている。この男には何も響かないのだ。どれだけ繋がったとしても玲央は真武に何の痕跡も残せない。
 湯飲みに残っていた緑茶を全て飲み干して、がたりと立ち上がる。微かに真武が眉を上げたがあえて見ないふりをして玲央はそのまま交番の出口に向かった。
「どこへ行くつもりだ?」
 彼にしては珍しく答えを求める声音に振り返らずに答える。
「見回り。遅くなる前には戻ってくる」
 それ以上話すことはないと口を噤んで玲央は夜の街に足を踏み出した。とはいえ別段あてがあるというわけでもなく、目的もないままにあちこちを歩く。今警察官の格好をしていなかったら自分の方がどこかしらで呼び止められて職質でも受けてしまいそうだと考えているとぽつりと腕に何かが当たった。
 それが何かに気がついて顔を上げればぽつぽつと落ちてくる水滴はあっという間に数を増し、降りしきる雨の中で玲央はすぐさま濡れ鼠になってしまった。慌てて今はシャッターの閉まった店の軒先を借りる。止めどなく落ちる雨粒は激しいという程ではなく、けれど傘をささずに歩けばすぐさまずぶ濡れになってしまう何とも言いがたい降り方だ。もっとも、玲央はもう既にずぶ濡れではあったけれど。
 さむい、と誰にともなく呟いて剥き出しの腕を抱さする。春になったとは言え、昼間こそ暖かいが夜はまだ冷える。雨の降る晩はなおさらであり冷え切った体は否が応でも昔のことを思い出した。
 真武と初めて出会った日、彼に手を差し伸べられた日も雨が降っていた。冷たい雨だった。その凍えるような冷たさの中で、染み入る温もりを今でも玲央は覚えているしそれをずっと大事にもしていた。
 あの日以来、玲央の生活は真武と共にあった。
 真武と繋がっていた日々は幸せだった。
 今はそれら全てが遠い。そのことが悔しくて仕方なかった。
「……くそったれ」
 吐き出した呪詛は誰の耳にも留まることなく雨の音にかき消される。濡れてけぶる街はますます人の気配が希薄になって店先の通りには人一人歩いてはいなかった。
 こんなところで待っていても真武は迎えにはこない。自分を探すということすら思いつかないだろう。濡れた体に吹き付ける夜風がどんどんと体温を奪っていって、ぶるりと震えた体に仕方なく交番に帰ることにした。濡れそぼった服は重たく肌に張り付き、金の髪はじっとりと色を濃くしてその毛先から雫を滴らせている。
「早かったな」
 惨めな気持ちを抱えながら交番に帰れば出迎えるのはやはり平坦な声で、明るく乾いた室内は、雨に濡れない分暖かく感じた。ついでに、その建物の中でぬくぬくとしていただろう真武も、だ。
 血の通わないような青白い肌は、それでも今の冷え切った玲央よりは温かいのではないのかと夜の街を歩きながら覚えた感傷がそう思わせたのかもしれない。半ば無意識に伸ばした手が触れた頬は、けれど何の温度も感じなかった。それは本当に真武が冷たいからなのか、それともそれすら感じられないほど玲央の体が冷え切っていたからなのかも分からない。
 凍えるような冷たさはなく、ただただ温度というものが欠落したそれを悲しいような腹立たしいような不思議な気持ちで撫でていた。
 頬を、首筋を、窪んだ鎖骨を撫でて胸の中心。紛い物の心臓の真上、確かな鼓動を感じるそこにきゅうと何かがせり上がってくる。まるで本物のようだった。この薄い肌の下に一体どんなものが収められているのか玲央はとっくに知っているのに、規則正しく繰り返される鼓動は玲央の知っている真武のそれにそっくりで、懐かしさと愛しさがこみ上げてくる。
 その所為だ。
 だから余計なことを口にした。
「本当は、オレの方がお前よりも体温が高いんだ」
「そうか」
 真武の体温を温かいと感じた時、玲央の体はこれ以上無い程に冷え切っていた。そのことを知ったのは真武と一緒に過ごすようになって少し経ってからだった。
「だからきっと、オレの心臓の方がきっとお前よりもずっと熱い」
 後から思えば何故そんなことを言ったのか分からない。真武の方も怪訝そうに眉をひそめて玲央の言葉の意味を吟味しているようだった。その反応に少しだけ溜飲が下がったのは本当だ。少しはこの男を揺さぶれただろうかと、そんな愚にもつかないことが頭を過ぎった。
「オレの心臓をお前に見せてやりたい」
 できれば触れさせてやりたいと、一瞬でも思ったのは確かだった。
 この胸を切り裂いてその白い手首を掴んで無理矢理にでも、ねじ込んで白い指先が赤く染まるのをわらって見ながらどくどくと熱く脈打つ己の心臓に触れさせたかった。そのまま玲央が真武にしたのと同じようにむんずと掴まれて引きずり出されて、いっそのこと握り潰されたって構わない。
 お前にだってかつて、オレと同じように熱を持った心臓があったのだと今や温もりなどなくしてしまった目の前の男に知らしめてやりたかった。