君を待つ

 どうやら、俺は死んだらしい。
 らしいというのはそれが本当にあったことなのか、正しいのか分からない為である。
 俺は“ここ”にいると感じられるし、“俺”が何者であるかという問いに答えることができる。この俺、フライデー――まあ、本名はここでは必要ないからおいておこう。ロンドン大学医学部に所属している問題児、或いは首席。21グラムの魂の秘密、その本質を解き明かす研究に明け暮れるごくごく普通の学生だった。込み入った話をするとなれば別であるがざっとこんなものだろう。
 俺は俺という存在を認識し、俺の存在はここにあると実感し、俺が俺である為には何が必要かを考えることもできる。否や第一に俺が俺であると思考することも、そのための意識活動も持ち合わせている。思考の働きや精神的な活動においては俺は一昨日までと何一つ変わらないが、しかし物質的な存在として俺はつい昨日棺桶に収められ、暗く湿った土の中に埋められた後、友情に篤い大馬鹿ものの親友の手によって掘り返された後に屍者として蘇った。
 つまり、一般論で論じるのであれば俺は確かに死んでいる。そしてここに物質的な存在としての俺と、それ以外の何かでできた俺という二人の俺がいるということになる。現実ではおおよそ観測しえない実におかしな話であるが実際に起きていることなのだから疑いようもなかった。
 酸素や炭素、窒素に水素といった有機物。それからリンや硫黄やカルシウム他様々な無機物から構成された物質的な俺。俺の肉体。その肉体から乖離した、一般的な物質以外の何かでできた俺は大雑把に言えば“魂”という単一のもので構成された、質量にして21グラム程度の存在だ。いや、魂を構成するものが一体何かなんて未だ解明されていないのだから“単一のもの”ではなく、“単一の概念”と言った方が正しいのかもしれない。万人に理解しえる定義もなく、その存在も未だ証明されていないあやふやな21グラム。それを包括する言葉。
 魂。それは俺たち人間が解明できていない未知を便宜的に呼び表す為につけた記号にしか過ぎず、そして俺の実感からするに魂の重さは21グラムという定義から外れて、今の俺はもっと軽くそしてもっと脆いように思えた。なので今俺を構成しているものはもしかしたら魂かもしれないし、または魂とよく似た別の何かなのかもしれない。
 何にせよ常軌を逸した状況であることには変わりなく、俺という存在はふわふわと薄い膜の中で漂っていた。その膜が一体何なのか俺には分からないが、この膜によって俺は外と隔てられ、膜の向こうに見えるものだけが今の俺にとっては世界の全てだ。そう、例えば親友の屍体を掘り返し屍者化した狂気の医学生や、その親友の手によって屍者として蘇ったクリーチャーや、或いは軍人といった人間たちの旅を俺はまるで観劇でも見るかのようにただぼんやりと眺めている。
 しかし、その薄膜が時折破られることがある。
 それは常に観劇の登場人物たちが眠りについてからのことだ。眠りは死に通じるなんていう考え方もあるくらいなのだから、それは決してあり得ないことではないのかもしれない。
 他にすることも、もっと言えばできることもない俺はただ両手を広げてその男を迎え入れるだけである。そこに横たわるどうしようもない虚しさを俺は噛み殺し、腹の底に押し込んで、ただただ唯一俺のこの狭苦しい世界の薄膜を破る男を歓迎する。
「フライデー」
 男は俺の名を呼び、俺を求め、俺に縋りつく。
「フライデー」
 いや、より正しくいうのであれば“フライデー”の名を呼び“フライデー”を求め“フライデー”に縋りつく。
 確かに俺はフライデーだ。生前、俺がそのようなあだ名で呼ばれた機会は数多く、この男が呼ぶのもまさしくそれである。こんな奇特なあだ名をつけた人間を俺は他に知らないから、俺も俺で俺を呼ぶ男に応えてやり、求められれば素直に反応を返し、縋りつかれたのならば宥めてやった。
 その声が、その呼び名が目に見えぬ剣となって俺の心臓を貫いてどくどくと血を流させることをこの男は知らないし、そう呼ばれるたびにこの男の為に広げた腕をその首に回し殺してやりたいと思う程の憎しみに俺が駆られることをこの男は知らない。
 奇しくも。そう、奇しくもというより他にない。
 この男の名はジョン・ワトソンといい、そして俺の親友の名前も同じジョン・ワトソンであった。フライデーと、ジョン・ワトソン。それはどんな偶然か、それとも何がしかの理由があるのか。そいつは名前も顔も俺の知っている――俺の親友であったジョン・ワトソンとそっくり同じであるのだ。
 俺の遺言通りに俺の墓を破って俺の屍体を屍者にした、あの大馬鹿ものの親友とどこをとっても同じである。これで俺の憎悪の理由も少しは分かってくれたんじゃないだろうか。
 しかし、この男は決して俺の知っているジョン・ワトソンたり得ない。俺の知っているワトソンは、俺の親友はこんなに子供じみた性格でもなければここまで感情的でもない。どちらかと言えばもっと老成したような、落ち着いた雰囲気のある男であった。少なくとも俺の前ではそのように取り繕うだけの理性を有し、ついでに言えば見栄っ張りなところもある。何かにつけて口うるさく、変なところで理屈屋で、間違ってもこのように身も世もなく縋りついて死んだ友人の名前を呼ぶような男ではなかった。
 あいつは存外プライドが高いのだ。そして自分自身のそういった未熟さを許せない男でもあった。おそらくそれは隣に立っていたのが俺だったからというのもあるのだろう。何せ俺はワトソン曰く見た目と年齢と頭の中身のそのことごとくが乖離しているそうなので、それと釣り合おうとするのならば相応の努力は必要であり、そしてそれをあいつは俺の前に見せることを良しとはしていなかった。その密やかなる努力をひけらかし俺の興味や評価を勝ち取ることをあいつは自分に許さなかった。実にフェアで、そして不器用な男である。
 だからこいつは、俺の知っているあいつではない。
 それを理解していながらも、君が戻ってこないと喚きながら泣きつく男を俺は抱きしめ、あやすようにして宥めながら男がほしがる言葉を与えてやる。
 大丈夫だ。心配するな。焦らなくていい。信じている。
 薄っぺらいその言葉を口にするたびに、俺は自分の喉を掻きむしり二度とそんなことを言えないようにしてやりたいと思う。実際のところそのための俺の両手は親友そっくりな男を抱きしめるのに忙しく、そんなことをするいとまはないのであるが。
 俺は俺の親友に言ってやれなかった言葉を、この男のために口にする。あの男を抱きしめられなかった両腕を広げて、この男を抱きしめてやる。その背中を撫でて、できるだけ優しい声を出しながら慰めている。
 俺ではない、俺によく似た“フライデー”と、俺の親友ではない、親友によく似た“ジョン・ワトソン”。
 この男は俺のことなんかこれっぽっちも求めてはいないし、俺が求めているのもこの男ではない。ただこの男の根源はきっと、俺のよく知るあの男と同一のものなのだろう。
 この男の“フライデー”も喪われ、この男はそれを求めている。俺は喪われたまま、あの男が来るのを待っている。
 知っているようで全く知らない男を抱きしめてやりながら、俺はそっと目を閉じる。こんな紛い物ではなくて、本物のワトソンに会いたい、と。
 そしてふと思う。
 あの男も、この目の前の男と同じように泣きついて縋る程俺を求めてくれたのならいい。俺の望み通りに間違いなく俺を屍者化した男の理由の全てが、無責任にも俺が託した約束を愚直に守ったというだけではなく、あの男自身の望みとして俺と再びまみえることを願ってくれたのならばいい。
 たぶん、俺はそれだけで幸せになれるだろう。
 幸せ。
 哀しい幸せだ。この世の全てから喪われた俺のただ一つの幸福は、あの男の破滅のすぐ傍らにあるのだ。俺の求めるものを与えるために、はたしてワトソンはどれほどのものを犠牲に支払えばいいのだろう。それらの根源は全て俺にあるというのに、そのための犠牲を払い罪の清算をするのは俺ではなくあいつなのだ。

 同じような時間、同じような出来事を繰り返す。
 親友と瓜二つの男が目覚めている間、俺は薄膜越しに世界を見る。美しい景色、荒んだ戦場、溢れかえる人。そして屍者。ここがどこであるのか、俺が見えているものが何であるのか、それを考えることを俺は放棄していた。本来研究者としてはあるまじき姿なのだろうし、このような稀有な状況におかれているのならばできうる限りの観測はすべきだと思えども、生憎と俺はもう既に死んだ身であるので、そのようなことをあくせくとする必要もないと判断した。
 というのは建前で、実際のところはただひたすら同じようなことばかりが繰り返される状況に、俺は段々とくたびれていっていた。少なくとも俺は俺の上に起きている緩やかな変質をそのように理解した。
 無窮の時間は俺の意識というものを少しずつほどいていき、俺は俺というひとかたまりから徐々に霧散していく。それは錯覚なのかもしれないし、或いは現実に起きていることなのかもしれないが、俺がそれを知ることはおそらくないだろう。
 これが魂なるもののなれの果てであると言うのであれば、今俺の持っているそれはきっと21グラムになんて到底足りないことだろう。では、摩耗し粉々に砕けた魂のゆく果ては一体どこにあるのだろう? そんなことを考えても、俺の思考はすぐさま行き詰まるようになり、そこで俺はそれ以上頭を働かせるのをやめた。
 そして今日も、俺ではない俺の名前を呼びながら俺に縋りつく男を慰めてやる。あいつには決して言えなかった言葉の中から、男のほしい言葉を選んで与えてやる。数多の言葉が俺の口からこぼれるたびに、俺の中にある何かは少しずつ削り取られて小さくなっていく。思考は言葉に先行する。言葉があるなら心があり、そこには魂がある。言葉によって削り取られる何かが俺の心――ひいては魂であるのなら、俺の理論はなかなかいいところを突いていたということになりはしないだろうか。そんなことを考えて俺は少しだけ笑った。例えそれら全てが事実であっても、俺にはもうそれを証明する手立てもなければ証人もいない。俺の唱えた夢見がちな理論を、研究の証人となる俺の親友はここにはいない。
 今更ながら当たり前のことに思い至って笑いが止まらなくなる。俺は一体こんなところで何をしているのだろうか。あいつによく似た男なんて抱きしめて、あいつの身代わりのように嘘っぱちの優しい言葉を並べてやって。馬鹿馬鹿しすぎて、女々しくて、笑うより他に何もできない。
 くつくつと笑う俺のそのいつもとは違う態度に気がついたのか、男は怪訝そうに俺を見下ろす。あいつによく似た碧い瞳が訝るように俺の瞳を覗き込み、そして言った。
「お前は誰だ」
 随分今更な問いである。俺はその碧い瞳を静かに見返してただ笑っていた。その時の俺に笑う以外一体何ができただろうか。俺は気付いてしまったのだ。この男は今初めて俺を見た。いやこの際、“フライデー”でもいい。この男はこの時初めて自分が縋った相手は誰かを見たのだ。それまでこいつは俺も“フライデー”も見ようとはしなかった。
 何という傲慢だろうか。この男は相手を確かめることもせず、自分の前にいる相手はこの男にとっての親友だと信じて疑っていなかったのだ。そのことにおかしさよりも哀れみを覚える。この男にも、この男の“フライデー”にも。
 その哀れみを嗅ぎ取ったのか、碧い瞳はますます険を帯びて眇められ、敵意の光を灯して鋭く俺を射貫く。
「お前はフライデーじゃない」
 フライデーはどこだ。お前はぼくを騙していたのか。
 俺を問い詰める声とほぼ同時に強い力で俺は頬を殴られ、その場に殴り倒される。久方ぶりに感じた痛みと目眩に、生前から手荒いことは得意ではなく、晩年では立っているのもやっとだったということを思い出した。口の中はひりひりと痛み、ぬるりと生温かく鉄臭い血の味が口の中いっぱいに広がる。
 もう死んでいるというのならこんなものまでリアルに再現しなくてもいいじゃないかと内心悪態をついた後、もしかしたら人間の感覚器官とは魂と連動しているのかもしれないという新しい仮説を思いつき歯噛みした。生きていれば新しい研究のテーマが一つ増えたというのに、死んでいるということは実に惜しい。
 突然の痛みと衝撃により明後日にとばされた思考をつらつらと走らせていると、今度は首に圧迫を感じた。二本の腕が俺に向かって伸びていて、大きな手のひらが俺の喉を覆う。明確な意思を持つ手によって俺の気道は狭められ、呼吸を妨げられた喉がひゅるりと鳴いた。
 お前は誰だ。フライデーをどこにやった。フライデーを返せ。
 俺を詰る声が妙にくぐもって遠く聞こえる。
 フライデーじゃないなんて、よく言えたものだ。こいつの求める“フライデー”ではないだけで、俺だってフライデーであるし、そんなことを言ったらこいつだって俺の望むワトソンじゃなかったじゃないか。俺が誰だかも分からない時はフライデーだと信じきって縋りついてきたくせに、俺が本物でないと分かった途端にこの仕打ちとは随分と薄情なことであると罵ったつもりではあったが、はたして声が出たのかは分からない。
 そもそも俺は一言もこいつの“フライデー”だなんて言っていないのだから、向こうが勝手に信じて勝手に騙されただけだろう。自分の不始末を他人の所為にするなんて傲慢が過ぎるのではないか。
 非力な俺は抵抗しようにも指一本動かせずただ相手のなすがまま首を絞められて今にも死に至ろうとしている。もっとも、もう既に死んでいるが。
 ただこのままみすみす殺されるのは悔しかった。しかも相手はよりにもよって俺の親友と瓜二つなのだ。こんな状況を悪くないと思える程俺は悪趣味ではないし、こいつに泣きつかれて縋りつかれて、正体がばれた途端にこれではあまりにも腹立たしい。無知とは実に幸福なものなのだなと皮肉に思いながら、それならばとふと他愛ないことを思いつく。
 俺はこいつが俺の親友ではないことをはじめから知っていた。こいつは俺がこいつの求める“フライデー”ではないとことを知らなかった。だからこそできた無邪気な希求。それを求める権利は俺にだってあるだろう。
「わ……とそん」
 圧迫された喉を何とか動かしてただ一言、名前を呼ぶ。ぜい、と喘ぎながらも最期の力を振り絞って腕を伸ばした。
 俺だってあいつを求めている。俺だってあいつに縋りつきたかった。お前が俺にそうしたように、俺だってあいつに縋りついて、死にたくないと泣き喚きたかった。俺をそしるのも詰るのもその権利を有しているのは俺のワトソンだけだ。俺が慰めるのも宥めるのも優しい言葉をかけるのも鼓舞してやるのも本当なら全てあいつに捧げる為のものである。それをお前にくれてやったんだ。たった一度、一度きり俺がお前にあいつを求めたって許されるだろう。どうせ全部分かった今、お前は俺の求めに応じてくれることなんてないんだから。全部分かった上で、一度だけ俺のワトソンを求めたっていいだろう。何も応えてはもらえないと弁えているんだから。お前のその姿に幻想を重ねてもいいだろう。
 必死で伸ばした腕が男の頬を撫でる。その顔が盛大に歪むのを霞む視界の中で見た。
 俺の声帯が震えたことに、俺の手が自分の頬を撫でたことに怯えたのか、それとも今更に自分が人を殺そうとしていることに恐れをなしたのか、男の手が緩んでようやく俺はまともに呼吸ができるようになる。それを馬鹿だなと少しだけ思った。殺すならもっと力を入れて、血管も止めれば脳への酸素の供給も止まり簡単に人は意識を失うだろう。それくらいしなければ。なんなら素手ではなく、そのタイでも使って絞め殺した方が確実だっただろうに。
 徐々に鮮明になる意識と共に、男は俺の首から手を引いて呆然とした顔で俺を見下ろしていた。
 俺はぼんやりとそれを見上げ、そうしているうちに生温かい滴が頬をうつ。ぽたりぽたりと落ちてくるそれは多分男の涙で、水分を含んだ碧い瞳はゆらゆらと揺れてまるで波立つ海のようにも見えた。温かい滴が降り注ぐ。まるで乾いた大地を潤す慈雨のように。
「フライデー……」
 呆然と呟かれたその名前に俺は諦めて、伸ばした腕に力を込める。
 男の背中を抱いた腕は抵抗も無く引き寄せられて、俺は男の少し硬い髪を撫でてやる。いたいけな子供のように泣きじゃくる男に、俺はもう慰めも励ましの言葉もかけてはやらない。俺が俺の親友に言いたかった言葉の数々は、俺の中に飲み込んでおくべきものだ。
 フライデーと名前を呼ぶ声がする。それが俺を呼ぶものなのか、それとも俺以外の誰かを呼ぶものなのか。そんなことを聞くのは野暮であり、あえて問うような真似はしない。
 ただそのかわり、声もなく親友の名を呼んだ。
 ワトソン。
 お前はこいつのように俺の為に泣いてくれただろうか。俺に縋りついてくれるだろうか。
 この男はお前じゃないし、お前のかわりでもなんでもないけれど、多分お前とこいつと求めているものは同じなのだろう。だから俺はここで待つ。この男のゆく果てと同じものがお前のもとにあるのだとしたら、いつかお前は俺を見つけ出してくれるだろう。
 だから俺はただお前がやってくるのを待つ。何もないこの場所で。俺には他に行ける場所もない。お前に見つけてもらわなきゃ、俺はきっとどこにも行けない。
 故に俺は俺という、俺たちの理論の他ならぬ証を携えて、お前が見つけてくれる日を夢に見る。