遺言

 俺の親友にしてこの上なく有能な助手であるワトソンに一つの約束を託した日の夜、その舌の根も乾かぬうちに俺はひどく後悔をした。それこそ子供でもない、いい年をした大人が身も世もなく泣くくらいには深い後悔だ。
 ワトソンを帰し、俺以外には誰もいなくなった研究室で一人静かに俺は泣いていた。他には誰もいない部屋なのだから声を上げて泣いてもいいはずだったのに、俺は声を殺し、嗚咽を堪え、ただただ滂沱の涙を流して、この先の未来を思って泣いた。
 そう遠くない未来に、他ならぬ俺にその人生を食いつぶされるであろうワトソンの為に。
 とても、そうとても不幸なことにあの男は非常にに頭が良かった。聡明で、理知的で、些か感情的な部分があるものの、その本質は思慮深く、そして何より優秀な医学生だった。年若く学生ということを差し引いたとしても過ぎる程に優秀な男だ。何せ俺の助手を務める程なのだから。
 ロンドン大学の教授連中からの覚えもめでたい。あいつがもっと上を目指したい、もっと学問の道を進みたいと言うのであれば、きっと教授たちはこぞって推薦状を書くだろう。
 それくらいにあの男は優秀で、真面目で、賢くて、だからこそ俺に目をつけられたのだ。
 21グラムの魂を求める研究をしていたこの俺に。
 それがあの男にとっての不幸の始まりだった。
 偶然を装って声をかけ、二度三度深い議論を交わした末に互いに認め合うように仕向け、それからもう少しばかり交流を深めて、この研究室に――終わりの見えない研究へとワトソンを招き入れた。
 その時、俺は助手がほしかった。人間の魂、実体を持たない21グラムのそれを求める研究なんて夢のまた夢で、その証明は困難を極める。そもそも人間は自分たちの意識の根源にすら至っていないのだ。その真理は複雑に入り組んでいて、到底一人で解明できるようなものではない。何より、人間には与えられた体も時間も有限であったから、少しでも人の手がほしかった。
 それも、できるならとびきり優秀な人間の手が。
 そこで目をつけたのがジョン・H・ワトソンであった。ロンドン大学の、それも医学部きっての優等生だともっぱらの評判であった男は確かにその評判通り、有象無象の学生の中でも群を抜いて優秀であり、同時にとてもお人好しであった。
 少なくとも、俺のような人間に引っかかるくらいには。
 もっとも、ワトソンの手を借りたからといって俺の研究が格段に捗ったかというとそうでもない。
 研究の進歩など誤差と言えるようなほんの微々たるものであったし、今や大事な労働力ともなる屍体は全てどこかの企業やら国やらが取り上げていくし、残った屍体に手を出せばそれは立派な骸泥棒として罪に問われる。屍体を手に入れるのはこのご時世ではとても難しく、いっそそこら辺の墓の下に眠っている女の屍体でも使ってやろうと思ったことも一度や二度ではない。
 理論的にそれは決して不可能なことではなかったが、女王陛下の治めるこの英国で流石にそのようなことをするのは憚られ、結局のところネクロウェアの研究や解析を繰り返し、或いは文献を漁って机上の空論を重ねるばかりの虚しい日々ばかりが過ぎていった。
 そして、この日々――この研究においてある程度の不都合は織り込み済みであったが、二つばかり俺の予想から反したものがある。
 ひとつは、俺が病にかかりそう長い命ではないだろうこと。
 そしてもうひとつが、ワトソンに関してのことだ。
 俺は、優秀な助手がほしかった。助手になるのならば誰でも良かった。それこそ、別にワトソンでなくてもよかったのだ。偶々俺と同学年で、偶々その学年の中でもあの男が特別優秀な学生だった。ただそれだけの理由で目をつけ、声をかけ、そして研究の道へと引きずり込んだ。
 もしもその場所にワトソンではない別の誰かがいたとしたら、俺はきっとその誰かに目をつけ、声をかけ、同じように研究へと引きずり込んだだろう。優秀な学生を一人、助手へと引きずり込むまでは俺の計画は決して間違ってはいなかったし、完璧だった。その時までは確かに俺の思い描いていたように事態は進んでいたのだ。
 しかし俺にとって最大の誤算は研究へと引きずり込んだ相手が他ならぬワトソンであったことで、そして当のワトソンはとんだお人好しだった。
 俺のどんな無茶も、無理難題も、文句を言いながら付き合ってくれるような男はきっとこの世に二人といないだろう。俺の語る魂の理論をこんな風に目を輝かせて聞いてくれる人間も、おそらく数える程もない。俺にとってジョン・ワトソンという人間を助手に選んだことはこの上ない幸運であったが、その反面俺のような人間に目をつけられたのはワトソンにとってとんでもない不幸であることくらいは自覚している。
 俺にとっての幸運があいつにとっても同じだなんて思える程、俺の頭はお花畑ではなかったし、だからこそ俺は今泣いているのだ。
 俺が死んだ後もワトソンが俺の研究を続ければ、きっとろくなことにはならないだろう。そういう約束を俺はあの男に託したのだ。俺の墓を破って、俺の屍体を使え。それはつまり骸泥棒をして俺を墓から盗み出し、そこに違法に解析したネクロウェアを違法にインストールしろということだ。
 許可申請を出さない屍者の勝手な蘇生も、ネクロウェアの解析もインストールも、勿論骸泥棒も全てが法に触れるものであり、もしも露見したらワトソンの輝かしい未来は一瞬で崩れ去りあっという間にあいつは豚箱入りとなる。なまじ頭がいいだけに政治犯などの烙印を押されることもあるかもしれない。
 俺たちが友人同士だというのは、医学部の連中なら誰だって知っている。端から見れば、その友人の屍体を盗み出し屍者として蘇らせるなんて狂気の沙汰以外のなにものでもあり得ないだろうなんていうのは嫌になるくらい理解している。
 それさえ本来、まともな精神の持ち主であればきっとそんな愚かな真似はしないのだろうが、生憎とワトソンはとてつもないお人好しで、俺の我が儘には文句を言いながらもついてくるような男で、そして特別優秀だった。俺の研究室と、俺の残した資料と、ネクロウェアのパンチーカードを用いて、一人の屍者を作ることができる程度には、あの男の頭脳も技術も卓越していた。
 何せ、俺が助手として仕込んだのだから当然だ。
 それを今更ながら、そして傲慢にも不幸だと俺は思った。あの男は俺の願ったことを叶えるだけの技術がある、それにあたう能力を有している。そして、とてつもないお人好しだ。互いに親友と呼び合う相手の死を間近にした約束を、あの男は叶えようとするだろう。それを俺は知っている。知っているから昼間、あのような馬鹿げたことを言ったのだ。この男ならば、俺が道半ばで諦めることになった夢を叶えてくれるだろうと、愚かにも託してしまったのだ。
 言わなければ良かったと、今更後悔してももう遅い。
 あの男は親友の願いをなんとしてでも叶えようとするだろう。屍体を暴き、盗みだし、ネクロウェアをインストールして、俺を屍者として蘇らせるだろう。例えそのためにどれだけ罪を重ね法を踏みにじろうとも。
 容易に想像できる。
 そして、親友を屍者にした狂人だと詰られるのだ。
 親友。
 そう、俺たちは親友だった。それが俺にとって最大の誤算だった。
 ワトソンがただの助手であれば、ただの都合のいい相手であれば俺はきっとこんな風に心を痛めたりしなかっただろう。そんな人間が俺の望みを叶えるわけがないからだ。だがワトソンは親友だった。助手などという言葉ではまだ足りない、彼は俺の親友だった。ワトソンは俺の願いを叶えようとするだろう、約束を果たそうとするだろう。
 何故なら俺たちは親友だからだ。
 だから俺は今こんなにも後悔している。俺の願ってしまったものの重さを抱えきれず、苦しんでいる。
 ワトソンの未来に光はない。俺がその光の全てを奪う存在になるからだ。若い男の屍者などこのロンドンの街では非常に目立つことだろう。そしてめざとい誰かが気付くだろう。俺のことを、ワトソンのしたことを。そうなってしまえばおしまいだ。
 親友をそんな目に遭わせたくない。
 優秀な男だ。そして同時にとても優しい男だ。このまま生きてゆけばきっと良い医者になるだろう。或いは軍医として国のために働くかもしれない。そのような未来の方がきっといいに決まっている。可愛くて、しっかり者の女でも捕まえて、結婚して、子供ができて、孫に囲まれて老いていくのだ。医者として頼られて、周囲の人間からの信頼も篤く、先生がいるなら安心だなんて言われて。その方が幸せに決まっている。俺だってあいつのそんな未来を見たかった。
 そうして年月を重ねて俺は忘れ去られて、誰にもいえないようなちょっとばかり後ろめたい思い出の一つとなるのだ。
 そこまで考えて、俺は俺をつよく恨んだ。
 どうしてあの時、親友のそんな未来を願ってやれなかったのだろう。どうしてあの時約束などしてしまったのだろう。ただ一言、幸せになれと言えば良かったのに。そして俺の望みなど、飲み込んでしまえば良かったのに。俺はこの研究を途中で諦めたくなかった――俺の見た夢を、ワトソンに引き継いでほしかった。
 ひどい人間だと自分でも思う。
 俺は死ぬのだ。どうせ長くはない。死ねば記憶は風化し、ワトソンの中から俺の存在は薄れて消えていくだろう。それが許せなかった。嫌だと思った。
 折角ここまできたのに、何もなかったことになるのが嫌だった。ここまで積み立ててきた研究を、俺ごと置き去りにされたくなかった。
 だけどそれは俺のエゴで、俺の都合で、俺の我が儘で、ワトソンには何の非もない。何故ならその研究を始めたのは俺であってワトソンではなく、ワトソンはただの助手であって、俺の責任を彼が負う必要はどこにもないからだ。そして、助手であるよりも先に、ワトソンは俺の親友だった。
 親友の未来を、この先の幸福を願ってやれなくて何が友だろうか。
 俺は死ぬのだ。そしてワトソンの中から俺の存在は薄れてやがては埋没する。それでいいだろう。それが普通だ。ワトソンの未来は続いていて、俺の未来は断絶する。そこに距離ができるのは当然で、ワトソンが俺のことを忘れるのも当然だ。そもそも俺のような人間に目をつけられたのがあの男の不幸であったというのならば、解放してやるのは俺の責任だ。
 それを嫌だなんだと駄々を捏ねるのは間違っている。
「……」
 散々に泣き尽くし、懊悩し、後悔と懺悔に疲弊した頭でそこまで考えて、俺はのろのろと突っ伏した顔を上げ、ペン立てに立てていた万年筆を手に取った。
 レポートの為の、グリッドが並ぶ紙の束にそのペン先をあてがい、さらさらと文字を綴っていく。
「親愛なるワトソン」
 書くのは手紙だ。ワトソンに贈る、最後の手紙。俺の遺言。俺の馬鹿げた約束をやめるよう告げた、最後の言葉。
 昼間、俺の語った言葉の全てを嘘として塗りつぶす。帳消しにはできないけれど、上書きくらいはできるだろう。
 俺は死ぬ。お前は生きる。ならば死に逝く人間は、これから生きる人間の未来を祈り、見送るのが役目だろうと言い聞かせ、ただただ一心不乱に言葉を綴った。
 俺があいつにする最初で最後の裏切りを、ワトソンに突きつけるために。

「顔色が悪いな」
 翌日、研究室にやってきたワトソンは俺の顔を見るなり眉を寄せてそう言った。
 容赦の無いその言葉に、色々とまとめなければならないことがあったからだとうそぶけば、ますます眉間の皺は深くなり、そんなことをしているから治るものも治らなくなるのだと怒って見せた。
「目も真っ赤だし、腫れぼったいぞ」
「徹夜明けだからな。疲れもするさ」
「そう不摂生ばかりだから病気になんてなるんだろう」
 ちゃんと休めと呆れ混じりに言われて小さく笑う。笑ったつもりだ。俺は今、笑えているだろうか。
 こんな時でもワトソンは優しい。その優しさが俺の胸を突き刺した。
 この優しさにつけ込んで、俺は危うくこの優しい親友の人生を滅茶苦茶にするところだった。昨夜、散々に泣き伏して、一睡もせぬまま書き上げた手紙をしまい込んだ封筒を指先で弄びながら、後悔して良かったと思う自分がいる。
 後悔して良かった、思いとどまって良かった。この手紙を渡せば、この優しい親友の人生を台無しにしなくてすむ。少なくとも、手紙を渡せばきっと聡いこの男は自分の意図を汲んでくれるだろう、だからこれ以上の心配はしなくてもいいはずだ。
 研究はここで終わる。それは惜しい。自分の命がこんな中途半端なところで失われるのも正直なことを言えば不満である。だが、俺はこの親友の人生だけは踏みにじりたくなかった。ワトソンの人生を犠牲にしてこの研究が完成するなんて思いたくもなかった。
 それこそが俺にとっての誤算であり、幸運であり、幸福であったのだと、今なら分かる。
 それだけの代えがたい友を得たことは確かに俺にとって幸運だった。
 たった一人で研究に挑んでいた時には得られなかったものを俺は得た。望んだ答えは見つからなかったが、思わぬ副産物は俺にとって確かに大事なものだった。ならばそれでいいだろう。この得がたい親友と巡り会えたことは、俺の短い人生全てと引き替えにしてもおつりが来るほどの僥倖で、これ以上望むことは欲深いと言われても仕方ない。
 だから、せめて俺が持てる最後の誠実でもって、この男を約束から解放してやるのは俺の責任でもあるはずだ。
「ワトソン、これを」
「……なんだ、これは」
「遺言状だ。ここには俺たちの約束について、大事なことが書かれている。俺が死んだら中を見てくれ」
 大事なものだから決して他の人間には見せるな、なくしたりするな。そう告げれば、研究について大事なことが書いてあると思ったのだろう、もちろんだとワトソンはいつになく真面目な顔をして頷いた。
「君の研究は、必ず私が引き継いでみせる」
「……俺がお前に望むことは全部書いた。手紙の中身、ちゃんと読んでくれよな」
 そして叶えてくれと答えるのが精一杯だった。
 手紙の中身に研究を続けてほしいなんて一言も書いていないことをワトソンは知らない。本当は直接伝えるべきなのだろうが、俺にはもう上手く伝える自信がなかったから、こんな遠回りなことをしたのだと、ワトソンならきっと分かってくれるだろう。
 いや、それは決して全てではない。
 俺は怖かった。この男と交わした約束を俺自ら破ったと知られることが、そしてそれ故に軽蔑されることが怖かった。君の覚悟はその程度だったのかと言われるのが怖かった。期待をして損をしたと、今まで手伝ってきたのにその仕打ちなのかと、君の情熱はそんなものだったのかと、何よりその程度で私にあんな約束を告げたのかと言われるのが怖かった。
 俺は多分、この世で一番ワトソンが怖い。
 この男を損なうことも、この男の中の俺が損なわれることも同じくらいに恐ろしかった。
 だがしかし手紙に書かれたことは確かに俺が望むことで、そして間違いなく俺の本心であった。そこに書かれたことが決して全てではないとしても、確かにそこには俺がワトソンに望むことが書いてあった。そのことに何一つの偽りはない。
 俺は確かにワトソンの幸福を、その未来を望んでいた。
 彼が穏やかに生きる明日を望んでいた。

 雨が降っている。
 フライデーの訃報は、彼の交流範囲が狭すぎたためにすぐさま私の耳にも入り、私は急いで馬車に乗り込み彼のいる彼の家へと向かうこととなった。
 彼の家が用意した馬車はそれなりに上質なものであり、その仕立ての良さに気後れした私は今更ながら彼とこれほどまでに親密な関係を築いたことは偶然であり、言ってしまえば奇蹟に近いものなのだろうとこんなところで思い知らされる羽目となった。
 馬車の中、濡れたコートを脱いだとき、かさりと音がして私は思わず動きを止めた。ジャケットの胸ポケットには、白い封筒が収まっている。それはいつぞやの時に、彼が私に贈った手紙で、そして彼の遺言状でもあった。
 私と彼が交わした約束について、大事なことが書いてあると彼は言った。そして、自分が死んだら読んでほしいとも。
 その言葉に従って私は今まで手紙の封を切ることすらしなかったが、彼の訃報が届いた今、読むべきだろうと白い包みの封を切り、その中身を取り出した。
 真っ白な紙にグリッドが並ぶそれは、私たちの研究室で彼が使っていたレポート用紙でその素っ気なさに少しだけ笑みが浮かぶ。研究の為のものというのもあったが、彼は華美な装飾は嫌う性格だったためにシンプルで質の高いものを好む傾向があった。
 広げた手紙はしっとりと湿ってはいたが、インクが滲むようなこともなく、美しい筆記体は問題なく読み上げることができた。
「……親愛なるワトソン」
 彼の書いた言葉を私の唇がなぞる。

 今、お前がこの手紙を読んでいるということは、きっと俺は死んだのだろう。
 まさか俺自身こんな陳腐なことを書くはめになるとは思わなかったが、仕方ない。これは俺のまいた種だ。
 あまり長々と書くことでもないから、さっさと用件に入ることにしよう。
 すまない、ワトソン。
 つい先日、お前とした約束。あれは嘘だ。
 お前が俺の約束に頷いてくれるか試したかっただけだ。まあ、お前は薄情にも俺の言葉に戸惑って頷いてはくれなかったわけだが。
 だけど、正直安心した。
 お前は変なところで人がいいから、俺の無茶な約束にまで頷くんじゃないかと心配したが、そんなことはなさそうで何よりだ。
 さて、この間の約束は嘘だとばらしたところで、改めて一つ頼みがある。
 俺の研究を、研究室と共に破棄してくれないか。今まで集めた書物は燃やして、解析機たちは壊してくれ。ついでに俺のまとめた理論の束も書物と同じように焼いて破棄してくれたら幸いだ。
 何、お前なら屍体を盗み出すよりは簡単なはずだろう。
 こうして俺が死んでからもお前に迷惑をかけるようなことになってしまったことについては申し訳ないと思っている。だが親友のよしみでひとつ大目に見て、俺の最後の我が儘を叶えてくれないか。
 お前と一緒に魂の研究ができて、俺は嬉しかった。俺たちの目指したものは結局遠いままだったけど、お前の持つ屍者技術はいずれお前の身を助けてくれると思う。何せ本物の屍者技術者なんて一握りだからな。一度なったらまず食いっぱぐれないと思うぞ。
 もっとも、お前は辛気くさい屍者を相手にするよりも生きた人間相手の方が性に合っていると俺は思うけどな。
 このまま行けば、お前は立派な医者になるだろう。それで可愛い嫁さんでももらうんだろう。大学でも女の熱い視線を向けられていたしな、よりどりみどりとは実に羨ましい限りだ。
 なあ、ワトソン。俺はお前に感謝している。俺からした約束を俺が破棄するのはルール違反かもしれないが、俺はこれでいいと思っている。そもそもお前が研究を続けたところで俺は結果を見届けられないわけだ。それじゃあなんの意味もないだろう。
 だから、研究はもう気にするな。破棄して、全部なかったことにしてしまえ。
 どうせお前は俺の助手でしかなかったんだから、それで全部おしまいだ。俺の研究室に入り浸っていた時間を勉強に充てれば、お前なら一流の医者になれるだろう。
 そうしたら、たまには俺の墓に花でも供えにきてくれよ。
 それで、お前の話を聞かせてくれ。俺の知らないお前の話を。

 最後に――本当にすまなかった。

 フライデー、と見慣れた筆記体で綴られた署名にぼたりと滴が落ちてインクが滲む。
 この手紙を渡した時、彼は何と言っただろうか。「俺たちの約束について、大事なことが書かれている」そう言ったのだ。それを私はずっとこの先の研究についてのことだと思っていた。
 フライデーは聡明で、そして周到な男でもあったから、これから主だって研究を進める私への助言が書かれているのだと、そう思っていた。しかし、蓋を開けてみたらどうだろうか。彼の残した手紙には私に研究を続けろなんて一言も書いてはおらず、またこれからの研究のために必要なことの何一つも記されてはいなかった。
 そのかわりに書かれていたのは彼の謝罪と、私の未来を願う言葉だけだ。
「……きみ、は」
 私と彼が互いに友好を深めた時間はほんの数年でしかない。数字の上で数えるのならば、それは決して長い時間ではなかったけれども、その限られた時間の中で私は彼を深く知り、そして彼もまた私についての様々なことを深く理解してくれた。
 だからこそ分かる。
 この手紙は、遺言は、彼の嘘偽りない本心であり、真に私に願ったことでもあると。
 全ての研究を破棄し、なかったこととしてそれまでの日々を忘れ、私に前を向いて歩けと言っている。
 それはきっとまぎれもない、彼の本心である。
 疑う余地などあるわけがなかった。この手紙に書かれた言葉を疑う程、私たちの付き合いは浅いものではなかったのだから。
 彼の手紙を頭からもう一度読み返し、私はそっと口元を押さえる。
 そうでもしなければ声を上げて慟哭でもしてしまいそうだったからだ。
「……ぅ、ゔ」
 力を込めすぎた指先に、インクの滲んだ紙がくしゃりと歪む。
 殺しきれない慟哭が、嗚咽となって喉から溢れた。
 フライデーが遺した手紙に嘘はない。そんなものは読めば分かる。そこに書いてあるのは偽りのない、心からの言葉。そして願い、親友であるワトソンに対する深い思い。
 だがフライデーは余程のことがない限り、一度言ったことを覆すような人間ではなかった。時に頑なとさえ言えるほどに彼の意思は強固なものであり、故に揺らぐこともなく、私の制止を聞かなかったことは数知れずある。苦言を呈そうが、こちらが怒り狂おうが、逆に泣き落としを試みようがフライデー自身が納得できなければ彼は決して自分の言ったことを覆したりしない。
 ましてや、その対象が彼の求めた魂の研究であるというというのならば尚更だった。
 天才と謳われる傍らで、奇人、変人との呼び声も高かったが、フライデーは自分の研究に対してこの上なく誠実であり、また真摯であった。その彼が、例え助手であったとはいえ他人である私へと自分の研究を託した。この時点で彼は熟考していたはずだ。私が彼の後を引き継ぐにあたう人間かどうか、それだけのものを抱えられるかどうか。あまつさえ、自らの墓を暴いて屍体を使えとまで言ったのだから、その本気は窺える。
 あの時、彼は確かに本気で私に研究を託したのだ。己の死後を、私に売り渡してでも魂を追い求めたいと思ったのだ。
 それが、この手紙ではどうだろうか。研究は全て破棄しろと書いている。忘れてしまえと、なかったことにしろと。それも確かに彼の本心なのだろう。いや、この言葉が嘘であればどれほど良かっただろう。これが嘘だと思える程度の付き合いであれば、どれほど良かっただろう。ここに書かれた本心を見抜けぬほどに浅はかで愚かであったのなら、それはどれだけ幸せだっただろうか。
 研究を望み私に約束を託したのも、私に研究をやめさせる言葉を綴ったのも間違いなくフライデーであり、そのどちらもが確かに彼の心を映しだしていた。
 それを惨いと思った。あんまりだと、心から嘆いた。そして同時に、心の底からよろこんだ。
 彼は、私のために、私の未来の為に、己の追い求めてきた魂と天秤にかけて無理矢理私へと傾けたのだ。
 彼は元来研究に対して真摯であり、同時にとても一途であった。例えばもしも全ての責を負うのが他ならぬ彼自身であるというのならば、彼は研究の為に己を差し出すことすら辞さないだろう。そう、つい先日自分の体を使えと私に約束を課した時のように。
 そんな男が、己の死の間際に研究の継続を踏みとどまったのだ。
 それがどれほど異常なことか。それがどれほど特異なことか。
 何故彼が研究の継続を諦めたのか、その理由は明白にして単純である。つまり、それは私のためだった。
 私のために、彼は己の研究を投げ捨てようとさえしたのだ。一度交わした約束を自らの手で違えてさえも、彼は私を守ろうとした。守りたかった。何を――この研究を続けることによって踏みにじられる私の未来を。そう考えるのが妥当だろう。
 彼の墓を暴き、彼の屍体を使って彼の望んだ魂の研究を続ける。そんなことが世にばれたら私は罰を科せられるだろう。これまで積み上げてきたロンドン大学の優秀な医学生という評価も全てドブに捨てることになる。病により若くして命を落とした不幸な友人を自らの手で屍者化し、この世に蘇らせた狂人だと、哀れな死人を安らかに眠らせてやることさえしなかった冷血漢だと、世間は私を詰り、非難し、侮蔑して嘲笑すら浴びせるだろう。
 私とてそんなことを思いつかないほど愚かではない。それくらい覚悟の上だった。
 彼が自らを差し出すのだから、それ相応の覚悟は私にも必要なものであり、彼の約束を果たすと決めた時にはもう私の心は決まっていた。
 しかし、彼は私に手紙を遺した。
 己の約束をなかったこととし、己の研究の放棄を自ら宣言したその根源は全て私の為であり、それほどまでに私は――親友という存在は彼にとっては重たいものであったらしい。
 そのことにほの暗いよろこびと、奇妙なおかしさを覚えて嗚咽混じりの笑みを噛み殺す。
「……ああ、分かったよ。フライデー」
 彼の遺言を確かに私は受け取った。しかしそれに対しどう行動するかを決めるのは他ならぬ私であり、それは最早フライデーにさえも定められるものではない。
 手紙を元のように折りたたみ、封筒に戻してジャケットの胸ポケットにしまう。
 フライデーの言いたいことはよく分かった。彼が己の最期に何を思ったのかも手紙から汲み上げることは容易である。
 しかしフライデーの言い分は私の行動を止めるには至らない。寧ろ私の背を強く押す結果となったのは流石の彼も予想外であっただろう。いかな天才とは言えどもそこまではくみ取れなかったか、それとも残り短い命の為に焦ってその目測を誤ったのかまでは私には分からないが、私がこれからしようとしていることが彼の望まぬ未来であるのだろうということははっきりと分かる。
 そして、私にひとつ言えることがあるとするならば、私のこの判断と行動は他ならぬフライデーの傲慢さがそうさせたということだ。
 彼は私の為を思って彼の研究を諦めた。そして、私にも研究をやめるように遺言を遺した。これがそもそもの間違いだ。
 彼は私に直接やめるように言うべきだったのだ。こんなことはしなくていいと、お前の未来を食いつぶすような真似はしたくない、先日の約束はなかったことにしてくれと、頭を下げ、互いの約束を違えたことに許しを請い、それでもどうか俺の言葉を聞いてくれとこいねがうべきだったのだ。
 別段私はフライデーにそんな真似をしてほしいと思っているわけではない。彼が私に跪いて許しを請い懇願をしてほしいと、そんな上辺の話をしているのではない。彼の本心などこの遺言から幾らでもうかがい知ることができる。その言葉が声ではなく文字として語られたところで、それは変わらない。ならば何故かと問われたら、ただただ彼がこんな婉曲な方法でこのように大事なことを乞うてきたからだ。それが私は許せなかった。こんな手紙一枚で、私が諦めると思ったのだろうか。
 こんな手紙一枚で私が彼との約束を互いに破棄しようと思えると、彼は信じたのだ。でなければ彼はこんな手紙を書くような真似をせず、直接私に言ってきたに違いない。そういう男だ。
 その男が言い淀み、声の変わりに文字でもって私に伝えた。
 それは私たちの間ではあまりにも重く、大事なもののはずだったのに、そんなことですませるということがひどく気に入らないと思った。この手紙一枚で、私が彼の言葉に従うと信じていたフライデー自身にも少しだけ腹が立った。それこそが何よりの傲慢だと私は思う。
 彼はこのような逃げの形で私に言葉を伝えるのではなく、直接ぶつかるべきだった。一言でも良かったのだ。そのつもりはないとただ一言言ったのならば、私は全ての不満を飲み込んででも彼の意思に従っただろう。その一言さえ彼は告げずに去ってしまったという事実が私を打ちのめし、故に私は彼の言葉を受け入れきれないままでいる。
 しかし私は決して腹いせや意趣返しの為にフライデーの墓を破ってその屍体を使い、屍者、否や魂の研究を続けようというのではない。魂の研究はフライデーのもので、21グラムのその真理を突き止めるのは彼の悲願でもあった。私はただ、彼の意思を受け継ぎたかった。そこに他意はない。
 あるとするのならば、他ならぬ私の為にその研究を手放そうとした彼の愚かさ――優しさに微笑みを返し、報いたかった。
 彼の心はこの手紙の中にある。だからもう、私はいいのだ。
 彼は私を信じて研究を託した。しかし私の為に研究を断念した。誰でもない、私、ジョン・ワトソンという親友のために。私にそれほどの価値があるのだと彼の遺言が教えてくれる。それほどまでに私を思っていたのだと、遺された言葉が教えてくれる。
 ならば、私はそれに報いるべきだ。
 彼の望んだ未来を見つけるべきだ。
 彼が私の為に諦めたものは私が掬い上げ、彼に還す。21グラムの魂の、その証明をもってして。
 私の為に己の遺せる全てを棄てようとした男に報いるには、彼の求めた魂でなくては駄目なのだ。
 覚悟は疾うにできている。恐らくはフライデーがそうだったように。
 私の行く道はこれから困難を極めるだろう。嘲笑、蔑み、奇異や好奇に満ちた目に晒されるだろう。このまま生きてゆけば平穏に迎えるはずだった未来は今この時に打ち砕かれ、後は茨の道を進むのみだ。その覚悟はできている。
 それがどんなにか過酷であっても私は必ず魂を見つけ出す。フライデーの魂を。
「……すまない、フライデー」
 小さくこぼれた私の呟きは雨にかき消えて誰の耳にも届くことはない。
 きぃ、と車輪が軋む音がして、微かな振動と共に馬車が止まる。窓の外には見慣れたフライデーの家があったが、今ばかりは陰鬱そうな雰囲気を醸しだし、その屋敷は静まり返っているようにも見えた。
 私はドアを開け馬車を降りる。
 そして彼の家に一歩、足を踏み出した。

 ああ、すまない。フライデー。
 君が私に願ったことは、どうやら叶えられそうにない。