おれの親友

 例えば俺がいなくなった後、誰かが誰かに訊いたとしよう。一体彼は俺の何だったのかと。それに答えるのがロンドン大学で学部を同じくしていた医学生たちなら、きっとこう答えるだろう。彼は俺の助手のような存在であったと。或いはそれを訊かれたのが俺の家族の誰かだったとしよう。それならばきっとこう答えるだろう。彼は俺によくしてくれた学友であったと。
 それを俺自身に訊かれたら、俺は胸を張ってこう答える。
 あいつは俺にとって唯一無二の親友であり、この上なく優秀な助手であり、そしてこの世でたった一人、俺の研究を、求めるものを理解してくれる共同研究者であったと。
 では、誰かが彼に訊いた時、はたして彼は――お前は俺の何だと答えてくれるだろう?

 ジョン・H・ワトソンは俺にとってたった一人だけの親友であり、同時に共犯者だった。

 俺たち、もとい俺とワトソンの関係がどういったものであったかというのを説明するのは少しばかり難しい。
 研究者とその助手、ないしは共同研究者。互いに切磋琢磨し合う学友、或いは親友。その言葉のどれもが当てはまっているようでいて、その実ほんの少し噛み合わないような気がしてならない。
 俺たちの関係には常に人間が持っているとされている魂の研究が介在していたし、俺たちが初めて出会ったのも、その後互いに友好を深めたのも場所は同じロンドン大学の校舎であり、俺たちの邂逅は同期の学生であるというのが何よりも大きな理由であった。
 後に研究に没頭しすぎた挙げ句、ちょっと口にはできないような法に触れるすれすれの実験にまで手を出した時にもワトソンは俺の隣にいた。つまりはそれくらい、俺はあいつを信頼していたということになる。
 一つの研究室に籠もり、一つの研究を二人で探り、暇さえあれば議論を重ね、時にはそれが派手な口論に発展しても二日もすれば元通りになる。それだけ密度の濃い人間関係を、俺はワトソン以外と構築していない。心の底から友と呼び、助手を任せられるのはお前だけだと掛け値なしの信頼を俺はあいつに寄せていた。
 二人で多くの秘密を共有し、また二人で幾つもの秘密を探った。共同研究者、学友、或いは親友。俺とワトソンの両方を知るものはきっとそう答えるのだろう。学問の徒、親密な二人。だが、俺たちの関係はそんな優しく甘ったるいものではない。信頼はしていた、友だとも思っている。けれども、ワトソンの存在が必ずしも俺にとってなければならないものだったのかと問われれば首をかしげざるを得ない。
 多分、俺はそこまでワトソンに優しくはなれないだろうし、ワトソンを必ずしも必要としているわけではなかった。ワトソンもそれは分かっているだろう。互いに親友と言いながらも、その言葉に微かな違和感を覚えるのはきっとそのせいだ。どれだけ親しくても俺は俺の為にしか動けないし、ワトソンもそれは同様だ。小説なんかにあるような、友のためなら命さえ投げ出せるというのは俺からしてみれば単なる思考の停止にしか思えなかったし、それは幻想のように俺の目には映った。
 だから、その関係にあえて名前をつけるのならば、 “共犯者”というのがきっと何よりも近いだろう。
 ワトソンと共に求める魂の秘密。生命の神秘にメスを入れ、それを切り拓くことさえも俺は恐れてなどいなかった。
 もっと言ってしまえば、ワトソンに罪を背負わせることさえも俺は恐れていなかった。
 正直に言うのであれば、俺が恐れていたことはもっと別の場所にあったのだ。

 俺たちが知り合ってから、今日に至るまでの時間は振り返って見ると存外とても短いものである。初めて出会ったのはロンドン大学の入学式で、初めて言葉を交わしたのはその年の秋であった。その頃既に俺は魂なるものの研究に足を踏み入れ、自分の為だけの研究室を着々と作り上げている真っ最中だった。
 きっかけは本当に些細なもので、講義に向かう途中に俺が落とした万年筆をワトソンが拾い、返してくれた。それまで殆ど同級生に興味を持っていなかった俺はその時に初めてジョン・H・ワトソンという個人を認識し、向こうも何かしら俺に興味があったらしく、講堂で、或いは食堂で、図書館で、顔を合わせては二言三言、当たり障りのない話をするようになった。
 その時はまだワトソンに俺の研究のことも、そして研究室のことも告げるつもりは全くなく、お互いにただの同学年という以上の関係にはなかったような気がする。
 その、当たり障りのない顔見知りという関係が崩れたのは学年が一つ上がった春のことで、講義の内容もそれまでに比べ屍者に関して深く触れるようになってからのことだった。全ての講義を受けた後、大学に併設されたカフェのテラスで先程受けたばかりの講義について、教授の話について議論を交わしている内に討論は熱を帯び、やがて店仕舞いの時間がやってきてしまった。だというのに俺たちは未だ話し足りない気持ちがくすぶって、それならばと当時発展途上だった研究室へと招き入れたのだ。
 後から思えば随分と無謀なことをしたとも思うのだが、その時には既に俺はワトソンのことを信頼していたように思う。彼は俺を裏切らない――というよりはおそらく俺の信頼に反することはしないだろう、と確信めいたものを抱き、それを根拠に今まで誰も招き入れなどしなかった研究室へワトソンを引き入れたのだ。
 それは一種の賭のようなものだったのかもしれない。
 ワトソンが何か、俺の研究や研究室に対して嫌悪の覗く反応を見せたとしたら、俺はそれまでのことを全てなかったことにして、ワトソンとの関係もそのまま解消していただろう。しかし彼は俺の研究に対していたく興味を持ち、逆に根掘り葉掘り訊いてきた。俺は想像以上のワトソンの反応に驚き、しかし喜んで俺の持てる全ての知識でもってそれに答えた。議論、或いは俺の講義は深夜遅くまで白熱し、結果二人仲良く次の日の講義に遅刻したのはいい思い出でもある。
 それから今日に至るまで、ワトソンは俺にとって実に優秀な助手として研究を手伝ってくれている。どうしてそうなったのかと問われても、流れに任せていたらそうなったというより他にない。強いて言うのであればそれは俺がワトソンを自分の研究室に招いたのがきっかけだったのだろうが、その後どんな経緯を持って彼が俺の助手となったのかのきっかけは全く心当たりがない。
 講義が終われば誰にも邪魔されない研究室へ二人でなだれ込み、淹れたばかりの紅茶がすっかり冷え切るまでカップを片手にひたすら議論を繰り返す。そんなことを何度もしている内に、気がつけば彼は俺の研究を手伝うようになっていたと、それ以上のことは何も言えない。
 一口にロンドン大学の医学生とは言ってもその中で頭の出来の差というものは歴然で、俺はあの有象無象の生徒の群の中にこうして同じレベルで話ができる人間がいるなんて思ってもいなかったし、かといって大学の教授たちは頭が硬すぎて、俺のしている違法すれすれの研究のことには決していい顔をしないだろう。そういう意味でもワトソンという学友の存在は俺にとってとても大きなものだった。彼は俺にひけをとらないくらいに聡明であり、俺と同じくらいには無謀であり、そして若く情熱もあった。そうやって考えると、俺とワトソンが惹かれて出会ったのもあながち偶然ではないのかもしれない。
 運命論者を気取るつもりはないが、あの学生たちの中でワトソンに出会えたことは間違いなく俺にとっては幸運であった。何せかけがえのない親友であり、助手でもある。多分、俺はこの先二度とワトソンのような出来のいいパートナーには巡り会えないだろう。能力だけを見れば、ワトソンと同等の者、或いはワトソン以上の才能を持つ者だっているだろうが断言できる。俺の前にワトソン以上の相棒は現れない。だからこそ、こんなに早い時期にワトソンと出会えたことは俺にとっては大きな幸運であった。逆に俺と出会ったことがワトソンにとっての幸運であったかは分からないが。
 ワトソンの人生において、俺と出会ってしまったことは多分最終的な清算をしたら幸運とは言いがたいのだろうと思う。
 何故なら、俺は下手をすればワトソンの人生を棒に振りかねない計画を立てているからだ。それもワトソン本人の同意もとらず、本人の意思とは全く無関係の場所で勝手にその計画を立てて準備を進めている。人一人の人生を棒に振りかねない計画を立てているというのに実に身勝手なことだと眉をひそめる者もいるだろうが、生憎と俺はそういった言葉には耳を貸さないことにしている。
 このことに関して俺を詰ることができるのも、俺を罵る権利を持っているのもただ一人、ワトソンだけだ。だから、ワトソンが俺の立てたこの計画を否定するのであれば俺はそれで構わないし――寧ろこの計画を否定してくれとさえ思っている。
 こんなことを言うこと自体が実に傲慢であると自覚もしているが、この計画はワトソンのために立てたものだ。人の人生を棒に振りかねないような計画だというのに何を寝ぼけたことをと思う奴もいるだろうが、それでもこれは今の俺にできる全てを注ぎ込んでワトソンのために立てた計画であることに嘘はない。

 かりかりとペンを走らせる。深夜を回ったロンドンはひどく静かで、研究室の外は何の音もせずに静まり返っている。
 ここ最近、ワトソンをアパートに帰してから、こうして俺は一人でとある計画を立てている。ワトソンの人生を狂わせかねない、頭のいかれた計画を。すなわち、俺、フライデーの屍者化の計画を。
 俺がこんな計画を立てているのにもそれなりの理由がある。多分、俺はもうそう長くは生きられない。俺に残された時間が後数日なのか、それとも数ヶ月なのか、或いは数年なのかまでは分からないが、俺に残されている時間は他の人間よりも遙かに少ない。
 自分の体の不具合くらい、他ならぬ自分が良く理解している。
 はじめはただの体調不良かと思い、気にしてもいなかった。しかし体調は良くならず、この体は緩やかに不調を来していった。ワトソンに気付かれる前に観念して医者に診せれば良くないと顔をしかめられてた上、どうしてこんなになるまで放って置いたのかとまで言われたくらいだ。俺の体は今、少しずつ病に冒され、ままならなくなっている。医者の言いつけを守っていれば病の進行を食い止められると言われたところで所詮それは焼け石に水であり、この先どんどんと自分の体は思い通りにならなくなると分かっている。
 医者の卵とは言え、これでもロンドン大学で医学を学ぶ身だ、自分の状況を把握してすぐさま俺は判断した。
 この命を今ここで削ってしまってもいい。ただそのかわりに次へ繋ぐ為の準備をしたい。幸いにも今はある程度屍者技術も発達している。死んでからだって動くことはできる。死んでからも、その気さえあればワトソンの側にいることは、かなり難しいかもしれないがしかし決して不可能ではない。
 安静にしていれば明日死ぬのが明後日に伸びる程度の命なら、明日死ぬのを今日に縮めても構わなかった。死んだその先への布石が打てるというのであれば、この命なんてどうなったって構わなかった。この先の未来の為に今を食い潰すことに俺は何の躊躇いも持っていなかった。
 これまで魂の秘密を探る為に続けていた研究が、こんなにも早く、そしてこんな想像もしていない状況で役に立つなんて思ってもみなかった。人生とはどこでどう転ぶものか分からないと少しばかり皮肉な気持ちで考えながらも、俺の手は休みなくペンを走らせて紙の上に黒いインクで文字を綴っていく。少しでも多く、一文字でも沢山の情報を、俺の頭の中に詰まっているものをワトソンへと託すために、休みなくペンを走らせて言葉を書き記していく。
 今、紙の上に描いているのは近い未来における俺の設計図と、そのために必要なものと、それを動かす為の理論である。二重機関の構造を持つ屍者の構想を書き、それを動かす為に必要とされるネクロウェアを選定する。俺の死後、俺の体を使って生まれる屍者は魂の研究のためにも必要不可欠な素材である。同時に俺たちの研究には言葉というものがつきまとう。人の扱う言葉、世界中でちりぢりとなった言語――それを知りたいというのであれば言語系のネクロウェアは必須であり、欲を言えば拡張エディンバラ言語の最新版が望ましい。ならば屍者として動かす為の基本的なネクロウェアは齟齬の出にくい汎用ケンブリッジ・エンジンあたりがいいだろうか。
 霊素の解析は国家機密、一介の学生ごときが講義以外でパンチカードに触れる機会なんてまずあり得ない。だとすれば手に入れる為に非合法な手段が必要となってくる。その準備は俺の方でするとしても、法に触れる行いがあるということ、それが俺にとって一番の懸念であった。
 国に申請を出さない無許可の屍者の製造は法に反する。そしてそういった屍者に使われる屍体は屍者として使用を許可していないものが殆どであり、当然ながら骸泥棒は犯罪行為だ。それに加えて、ネクロウェアを用意するのであれば公には出ないルートでパンチカードを購入するか、自分たちでネクロウェアを解析してそれを復元するより他にない。つまり、それだけの危ない橋を渡らねばならない。
 ネクロウェアの方はワトソンよりも俺の方がきっと上手くやれるから用意するまではいいとしても、実際に俺の屍者化を行う為にネクロウェアを扱うのはワトソンということになる。つまり、今考え得る全ての罪はワトソンが被ることとなり、それが露見すればワトソンは糾弾され、罰を受けることは免れないだろう。
 女王陛下の納める英国だ。政府の人間だって馬鹿じゃない。英国に名をとどろかせた名スパイ・ウォルシンガムのような存在が俺やワトソンのことを嗅ぎ付けてやってくるかもしれないというのは誇大妄想と笑われるだろうか。
 俺のことが原因で、ワトソンが罪に問われること。それが俺にとって何よりの懸念事項であった。何せ、そうなった時には俺はもうもの言わぬ屍者である。弁護なんて何もしてやれないし、庇ってやることもできない。元をただせば全て俺のせいなのだと真実を告げることさえ叶わない。もしもワトソンが罪を犯すというのであれば、それは全て俺を屍者化する為だというのに、それに対して俺は何のフォローもワトソンにしてやることができない。だからといって、そのために今何かを残そうとすれば最悪ワトソンに見つかってしまうかも知れない。それだけは避けたかった。
 自分のことは自分の口からはっきりとワトソンに伝えたい。俺の意思から反したところで、俺の死を、いずれ遠からずに来るであろう未来をワトソンに知られるのは耐えがたい。せめて、例え仮に俺にとって不本意な形でそれをワトソンに知られることがあったとしても、それは万全の準備をした後でなければならない。
 何せ、まだ自分の体が病に冒されていることすら俺はワトソンには言っていないのだ。言えばきっと心優しいワトソンは俺を心配するだろう。無茶はよせと俺を叱り飛ばし、最悪俺から研究を取り上げるかもしれない。今少し我慢すればきっとすぐに良くなって、また研究に打ち込めるようになるからと見え透いた嘘を吐き俺を研究から引きはがそうとするだろう。共にいた時間は決して長いとは言えないが、その時間の密度には自信がある。ワトソンの考えることなんてお見通しだ。俺の不調を知ったらきっとあの男は俺を心配し、俺の為に俺の望まないことをする。それを分かっているから、俺はこうして誰にも知られないように密かに計画を進めているのだ。
 俺の死後、俺という魂が存在しない未来の計画を進める。
 他ならぬワトソンの為に、否や俺自身の為に俺のいない未来における仮定を積み立てていく。実に虚しい作業だ。何せ、俺はその未来をこの目で見ることはできないのだ。それでも、俺が俺の望みを叶える為にそれはなくてはならないことだ。今までワトソンに隠しながら密かに集めていた資料を、組み立てた計画を全て破り捨てたい衝動に駆られることもある。だがそんなことをしても意味がないのも理解しているから俺は何も言わずに粛々と、そう遠くない未来に来るであろうその日の為の準備をしている。
 そうしてワトソンの目に触れないようにこっそりと、しかし確実に俺は俺の死後に必要なものの準備を進めていった。一番の難関だった霊素解析も何とかこなし、俺にインストールする為のネクロウェアは当初の希望通り、汎用ケンブリッジ・エンジンと拡張エディンバラ言語を用意することができた時には流石に喜んだ。
 この肉体は死後、魂を求める為の大事な実験体になる。ならばそこに組み込むものも上質なものの方がきっと、可能性は上がるだろう。片手間でできる研究であれば、俺はこんなに心血を注いでまで打ち込んでいなかった。
 深夜、まだまとめきれていない理論を自分の研究ノートからワトソンに残す為の論文にする為に書き起こしながら昼間のことを思いだして俺は一人で小さく笑う。俺の体が病に冒されていると知った時のワトソンの顔といったら、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
 寝耳に水とその顔にはありありと書いてあって、我ながらここまで隠しきった自分に賞賛を送りたくなった程だ。
 しかし俺はワトソンにふたつの嘘を吐いた。
 ひとつは、ある程度の範囲であれば生活にも研究にも支障はないということ。
 もうひとつは、そのためにも無理をして研究に没頭はしないということ。
 そして俺はまだワトソンに言えていないことがある。今隠しながら進めている計画もそうだが、何よりも俺は遠からず死ぬということをワトソンに言えていない。言えるわけがない、できるのならば言わないままでいたい。しかしそれはできない相談だ。
 だからこそ、俺はこうして一人で計画を進めているのだ。
 きっと、俺ほど真面目に自分の死後の準備をしている人間もそういないだろう。いつ、本当のことを告げるべきかを考えながら、俺は今日もペンを走らせる。できるのならばこの計画をワトソンが実行しないことを祈りながらも、その為に必要な準備を今日も続ける。
 後どれだけ、俺は生きられるだろう。どれだけワトソンと共にいられるだろう。どれだけ研究を続けられるだろう。
 俺の生きているうちに魂を実証するのは絶望的なまでに不可能だ。それさえできてしまえば俺はこの研究の全てを投げ捨てて、たった一言をワトソンに言うことだってできるのに。それが叶えられないからこんな無駄な努力をしている。
 魂の実証さえできれば、21グラムのその存在を証明さえできれば、俺はそれに全てをつぎ込んでワトソンの背中を押してやることができるのに。
 大丈夫だと言えるのに。
 大丈夫だ。例え俺の姿が見えなくたって、俺はお前の側にいる。お前を見守っている。だからお前はお前の為に生きろよ、俺のことなんて引きずらずにお前だけの人生を歩めよ。
 そう言ってやりたいのに、21グラムの魂は未だ俺たちからひどく遠く離れた場所にある。

 最近、意識が保てずにいることが増えた。
 目眩がしたと思ったら倒れて医務室に運ばれたことも一度や二度ではない。急な動悸に倒れ、ワトソンが見つけるまで動けなかったことも両手でさえ数え切れない。その度に俺は大丈夫だと嘘を吐いたが、ワトソンとて医学生なのだから、俺の状態が決して芳しいものではないことくらいは分かっているだろう。
 それでも俺は未だもうすぐ自分が死ぬだろうことを言えてはいなかった。感傷やらなにやらというよりも、ただ単純にそのための下準備が完了していないからだ。
 だがそれももうすぐ終わる。俺がワトソンに残してやれることの殆どは言葉として書き起こされた。俺の理論も俺の思考も、可能な限りの俺の全てを。
 その全てが必要となるかは分からないが、資料は少ないよりは多い方がましだろう。
 最後の一文を書き記し、ピリオドを打って俺は小さく息を吐く。ペン立てにペンを戻し、椅子の背にもたれながら体を伸ばせばこきりといい音がした。これで準備は完了した。
 後は、ワトソンに俺のこの先を告げれば俺の計画は動き出すだろう。その後のことは全て、俺の死んだ後の出来事になるからそこまで責任をとることはできない。逆を言えば、俺の意思でこの計画を止められるのは今だけだ。全ての資料やこの計画のために用意したものを全て破棄して、何でもない振りをしながら日々を過ごし、普通に死ねばそれで俺の計画は頓挫する。そして俺は永遠に帰らぬ人となり、やがて他者の記憶から薄れて存在しないものになるだろう。勿論、ワトソンの中からも消えていく。
 それはそれで一つの結末としては十分なものだったし、俺としても願わくばそうなってほしいと思う。
 ワトソンは優しく、聡明で、時に無謀であったが、俺が焚きつけたりしなければ平素はとても理知的な男だ。決して自分から進んで危ない橋を渡ったりするようなことはないだろう。
 この後に及んで、俺は俺の計画が失敗すればいいと思っている。或いは俺の計画をワトソンが否定することを願っている。ならばそもそもそんなことはしなければいいと分かっているのに、それでも一つの可能性として俺はその計画を捨てきることができないでいる。
 ぐるぐると考えが煮詰まって、思考が堂々巡りになる。息苦しさを覚えて俺は微かに喘いだ。
 椅子から立ち上がり、ソファを兼ねた診察台に座る。いつもよりも低い視線に、これがきっと死後の自分が最初に見る景色なのだと考えて、どうしようもなく悲しくなった。
 俺は一人で先に死ぬ。ワトソンをおいて俺は逝く。それはもう、どうしようもないことだ。そしてワトソンは俺ではない。他人のことなんて分かるはずがない。どれだけの時間共にいても、どれだけ親しくあっても、俺とワトソンは全くの他人であり、ワトソンの行動の全てを俺は決して予測できない。
 俺がいなくなった後の未来におけるワトソンの存在に、俺はどうしても不安をぬぐい去ることができない。だからこそ、こんなものが実行されなければいいと願いながらも一つの計画を織り上げている。
「なあ、ワトソン」
 いもしない男に対して一人呼びかける。
 なあ、ワトソン。俺が初めて魂についての持論をお前に話した日のことを、お前は覚えているだろうか。
 俺は今でもはっきりと覚えている。俺の持論を聞いたお前が笑っていたことも、あの時お前が俺に答えた言葉の一字一句さえも覚えている。
 あの時、俺にとってお前の言葉がこれ以上無く嬉しいものだったか、お前は知らないだろう。
「思考は言葉に先行する。言葉があるなら心があり、そこには魂がある――なる程、つまりわたしたちの言葉は魂から生まれているということか」
 きみは凄いな、今までそんな風に考えたこともなかった。
 きらきらと澄んだ青い瞳を子供のように輝かせて、あの時お前はそう言ったのだ。それがたまらなく嬉しかったなんてお前はきっと知らないのだろう。俺がそのように感じたことさえ、考えたこともないのだろう。だけどお前が知らないだけで、あの時俺は喜んだ。お前の言葉が何よりも嬉しかった。
 俺は決して、賞賛や賛同がほしかったのではない。俺の言葉に唯々諾々と迎合するような人間がほしかったわけでもない。寧ろ、そんなものには嫌悪さえ覚える。何も考えず停止した思考の先に生み出される肯定に一体どんな価値があるというのだ。そんな空虚な同意など何の意味もない。
 だけど、お前はそうじゃなかった。
 お前の素直な感嘆の言葉と、未知の理論にきらきらと輝くお前の瞳はあの日確かに俺の心臓を射貫いた。
 中身のない共感や、思考の欠如した賞賛ではなく、お前はお前の理屈があり思考を持ち、そこに俺の言葉を組み込み自ら考えて俺の言葉に頷いた。
 それがどうしようもなく嬉しかった。
 この男ならば俺と同じ場所に立ってくれる。同じ場所に立ち、同じ夢を見てくれるかも知れないと、奇妙な確信さえ抱き、それまで俺が一人で続けていた光なき魂の研究の道へとお前を引きずり込んだ。お前は俺のそんな考えをきっと知りはしないだろうから、俺の真意を知ったらふざけるなと怒るだろうか、それともどうしようもない奴だと呆れるだろうか。謝罪なんてするつもりは毛頭ないが、どうしてもお前が腹に据えかねると言うのならばまあ一発殴られるくらいは我慢してやろうと思う。そんなことを言えば、随分と傲慢だなとお前は笑うかもしれない。
 だけどな、ワトソン。
 俺はそれまでずっと一人で魂の研究をしていた。自分の理論が間違っているかもしれないと悩んだことも山のようにある。何せ形もない、誰もその実体を知らない21グラムの魂の、その秘密を暴き本質を探る研究だ。分かっていることよりも未だ分からないことの方がずっと多い。
 俺だって人間なんだ。悩みもする、迷いもある。研究が行き詰まれば、これが正しかったのかと答えが分からずに苦しんだことだってある。それでも俺はこの研究を、21グラムの魂の証明を諦めたくないから、ここまでずっとやってきた。
 この、雲を掴むような研究と一人でずっと向き合ってきた。他の連中からは理解さえ得られなかったこの研究を。
 そこにある日、お前が突然現れた。
 独りで研究に打ち込む俺の前に、同じ夢を見てくれるかも知れない相手が現れたとき、俺は本当に嬉しかった。心の底から嬉しかった。お前の存在が、お前と出会えたことが、俺にとってこの上ない幸運だった。
 それだけはどうか、疑わないでほしい。
 だからこそ、俺は思う。
 この研究は元々は俺一人のものだった。だけど途中でお前が俺の前に現れて、俺の研究の半分をお前が背負ってくれた。お前のきらきらと光る瞳が俺に力をくれた。俺の理論を信じるお前の言葉が、時にくじけそうになる心を支えてくれた。俺の研究はきっと、お前なしではここまでやってこれなかった。それくらい、俺はお前に感謝している。
 だけどもう一度、同じことを言おう。
 この研究は元々は俺のものだ。
 俺だって流石に鬼じゃない。この研究が途中で潰えるとなればそれは確かに悔しいが、だが決してお前の人生と引き替えにしてでも達成してほしいなんてこれっぽっちも思ってはいない。この研究をお前一人で全て背負えなんて、俺のものを押しつけるつもりもない。
 だけどもし、もしもお前が俺の研究を継いでくれると言うのなら。俺の後を追ってくれるというのならば、お前が俺の――俺たちの研究を一人でも続けるというのなら、お前が研究を引き継ぐために必要なものは全て用意した。
 全てのお膳立てはしてやった。後は俺が心を決めて、お前が判断を下すだけだ。はたしてそれを肯定するのがいいのか、否定するのがいいのか、どちらの方がよりよい結果をもたらすのかまでは俺には知るよしもないが。
 なあ、ワトソン。
 俺の学友であり、助手であり、共同研究者であり、そして共犯者でもあるお前。
 言葉一つでは決して言い切れない俺たちの関係に、それでもあえて言葉を添えるのであればこう言いたい。
 俺のただ一人の親友。
 雲を掴むような魂の存在を、目に見えず実体があるかも分からないそれを求める研究を語る、夢見がちな俺の理論を首肯したお前の言葉が、俺に新しい夢を見せた。お前と共に魂の秘密を解き明かしたいと願った。
 俺の言葉を、俺の思いを知ったのならばお前は一体何と言うのだろうか。願わくば一度だけでいい、「わたしも同じだ」と、頷いてくれたら俺はそれで満足できる。

 目眩がする。
 立つこともままならず、倒れるように俺は椅子の上に身を投げ出した。
「どうやら、俺はもうすぐ死ぬらしい」
 最初の賽は投げられた。
 上がる息でそれだけ言うのが精一杯だった。つきつきと胸と言わず頭と言わず体のあらゆるところが痛む。漫然とした痛みは絶叫し意識を失うほどではないが、少しずつ俺の体力や精神力というものを削り取っていく。緩やかな消耗戦の結果は目に見えていた。
 痛みのせいで時折神経がそちらばかりに気をとられ、ワトソンの言葉を上手く聞き取れない。
 きみがいなくちゃ研究は続けられないと言うワトソンの顔は実際に痛みと戦っている俺よりも悲愴なものに見えて笑えてくる。
 そして俺は決心した。これまで密かに立てていた計画の、実行のきっかけを作ることを。
「俺の墓を破って、俺の屍体を使え」
 魂を感じたら合図を送ってやる。
 こんな風に、と胸ポケットからペンを抜き、ワトソンの前で二度振ってみせた。こんなことを普段からするわけではないが、だからこそ合図として役立つだろう。こんな仕草は普通の人間なら意識しなければまずしない。そしてこの仕草に意味があることを知っているのは俺とワトソンだけだ。
 俺とワトソンだけが知る、秘密。
 魂のありかを示すサイン。
 21グラムの魂が、証明されたときに送る合図。死んで失われた俺がお前の隣に戻ってきたという証。
「それで俺たちの理論は証明される」
 約束だ。
 掠れる声で、そう告げた。
 ワトソンは驚いたような顔をして固まっている。恐らくは、俺の言った言葉の意味が理解できていないのだろう。
 二つ目の賽も投げられた。この先に起こることを俺は知らない。俺の魂がこの先を知ることができるのかすら、俺には分からない。何故ならそれらは全て、俺が死んだ後に回り出す話だからだ。
 これが俺の計画だった。この計画には多分に不確定要素が含まれている。計画というよりもただの賭けといったほうが正しいのかもしれない。どんな綿密な準備をしたところで、望む結果が得られる可能性はとてつもなく低い、賭け。
 約束。
 随分と重く、そして同時に軽い言葉だ。
 約束というのは破るためにあるのだと、うそぶいた俺にお前が怒った時のことは覚えているだろうか。あの時俺は盛大に遅刻をして、お前を一時間以上も待たせていた。その言い訳に使ったその一言がお前をいたく怒らせたことを覚えている。
 だから、俺がまた同じことを言ったのなら、やっぱりお前は怒るのだろうけれども、それでも言わねばならないこともあるだろう。約束は、必ずしも守らねばならないものじゃない。果たさなくてもいい、無視してくれたって構わない。ただ、約束を心の片隅にでも留めておいてくれたらいい。
 お前は真面目すぎるから、きっと俺が約束だと言ったら真面目に受け取ってしまうだろうが、決してそんなことはないんだ。約束だ、果たさないまま美しい思い出としてしまっても構わない。時折思いだし、宝物のように眺めてくれるだけで俺にとっては十分だ。だから決して真に受けてしまうな。俺の約束を――俺が密かに立てた計画を、受け入れてしまうな。
 俺は決して、お前の人生を狂わせたいわけじゃない。俺の為に、俺が責任をとることもできない罪をお前に被せたいわけじゃない。
 ワトソン。
 ジョン・ワトソン。
 俺の夢見るような試みを笑いながら受け入れた、唯一の理解者であり俺の親友。
 これから死に逝く俺が、この先も生きるお前にしてやることは殆どない。多分、言えるようなこともない。だから、俺は何も言わず先に逝く。これ以上、俺の言葉がお前を縛ることのないように、俺の言葉がお前の意思を歪めることのないように。これ以上の言葉は飲み込んでおくべきだろう。
 お前がこの先もちゃんと生きてくれるというのなら俺はきっとこんな計画を立てなかった。こんな賭けに縋らなかった。ただ、もしもお前が俺の死に引きずられるというのなら、俺が死んでお前が縛られてしまうというのなら、せめて生きていけるよう、前を向いていけるように、約束を結ばせてほしい。
 俺の死は決してお前が抱えるものではない。
 俺はお前に生きてほしい。死んでほしくない。俺のことを引きずってほしくもない。
 でも、お前は優しいから、きっと俺の死を悼むだろう。あまりにも早すぎると嘆くだろう。俺の果たせなかった研究のことさえも、自分のものとして背負ってしまうかもしれない。
 でも、俺はお前に出会うまでそれを一人で抱えていたから知っている。
 その研究は、俺たちの求めた21グラムは一人で抱えるにはどうしようもなく重いだろう。
 だからこそ、俺はお前に約束を課し、一つの計画を立て、お前に対して賭けをする。俺自身も、お前さえもを天秤の皿に載せて、結果の見えない賭けをする。
 例えどれだけ時間がかかっても、お前がちゃんと前を向いていけるように、一つの約束に俺はお前の未来を賭ける。だからどうか、この賭けには乗らないでくれ。乗るのならばせめて、この賭けに勝ってくれ。
 この賭けに勝ったあかつきには、俺も約束を果たすから。
 魂を感じたら合図を送る。必ずお前に伝わるように、俺の魂はここにあると合図を送ってみせる。
 優しいお前が、俺たちの研究を諦めず、俺の仕掛けたこの無謀な賭けに乗るというのなら、俺は俺の全身全霊をもって、お前の努力に報いると誓おう。例えその後に俺の魂がちりぢりになったとしても、お前がこの果ての見えない試みの先で俺の魂を見つけてくれるのなら、お前の見つけた俺の魂はどんなになってもお前に応える。
 だからその時は。俺の合図を受け取ったら、そこに俺の魂があると分かったのなら、どうかお前も俺に答えてくれ。
 そうしたら俺は必ずこう言おう。
 ただ一言、「ありがとう」と。
 俺たちに、それ以上の言葉は必要ないだろう。
 ああ、ワトソン。
 お前と同じ夢を追った日々はもう遠い。
 あの時俺は確かに幸福だった。我が儘が許されるのなら、この先も同じものを見たかった。共に魂の秘密を解き明かしたかった。俺たちの信じた21グラムは確かに存在するのだと証明してみせたかった。
 ワトソン。
 俺は死ぬのは怖くない、自分の研究が果たされぬことも怖くはない。必要とあらば、お前にあらゆる罪を着せることさえ俺は恐れてはいない。だけど俺は、俺のせいでお前が駄目になることが何よりも怖い。俺の親友が俺のせいで損なわれるというのなら、きっと俺は俺を許せない。
 だからどうか前を向いて歩いてくれ。俺のことなんて忘れてくれてもいい。研究の全てを投げ出したって俺はお前を責めたりしない。何故なら俺は死んで、過去に置き去りにされる存在だからだ。
 だから、未来の為に自分の為に、お前自身の為に生きてくれさえすればいい。

 ワトソン。ジョン・ワトソン。
 俺ははたしてお前の中で特別な何かになれただろうか。
 俺がお前にとって一体何だったかと問われたとき、お前は何と答えてくれるだろうか。
 俺の中で、お前だけが唯一の親友であり、共犯者であったように、お前の中にある俺も、唯一のものであったのなら光栄だ。
 ああ、ワトソン――お前の未来を、お前の隣で見ていたかった。


text by 遠野まめ*2015/10/31