ホワイトデーによせて

はぁ、と感嘆とも溜息ともつかないようなか細い吐息の音がした。
「これは一体何のつもりなんですか」
朝一番、たった今開店したばかりの店にやってきた男がいきなり押しつけてきた金色に輝く紙袋を手に、カフェキャメロットのマスター、パラケルススは目の前の男を胡乱げに見つめた。もとより、この男がそんな視線くらいでたじろぐような人間ではないということは十分に承知のことである。
現に、当の男――オジマンディアスは不満げに鼻を鳴らし、貴様の為ではないとはっきりと宣告するのだからお互い様というやつだろう。
「何のつもりとは、ここのマスターは随分頭が回らないと見えるな」
今日が何日かも分からぬのか、と小馬鹿にしたような口ぶりに微かに眉をひそめながらパラケルススは考える。
本日は三月十四日。特にこれといった祝祭はなく、ごくごくありふれた平日である。強いて言うのであれば、この国の区切りには三月末が用いられることもあるそうで、年度末には普段の業務以外の事務仕事が増えて忙しくなるといった程度であろうか。
そこまで考えてふと気付く。今日は三月十四日。
遙かな昔、ローマ帝国時代に処刑された聖ウァレンティヌスにちなんだ祭日から丁度一月、この国ではその祭日に貰った菓子のお礼を返さねばならない日であった。しかもそのお礼は三倍でなければならないというのだから、あまりにも理不尽な慣習であるとパラケルススは常々思う。
二月十四日に意中の相手に菓子を贈るのと共に愛の告白を行う。或いは世話になっている人に感謝の言葉と共に、また或いは普段から親しい相手に友情の証として菓子を贈る。それはいい。貰った分に対する返礼として後日プレゼントを贈り返すというのも円滑な人間関係を築く為には必要だろう。それも分かる。
だがしかし、三倍返しを求められることばかりは納得がいかない。とはいえそれはパラケルススの感性がこの国に由来するものではないからなのか、巷の人々はそれなりにこのイベントを楽しんでいるようでもあった。
さて、とパラケルススは少々脱線してしまった思考を元へとただす。
今日は三月十四日。一般的にあげられるイベントと言えばバレンタインの返礼の日、いわゆる『ホワイトデー』というものだ。
そこまでは理解したが、だからといってオジマンディアスに押しつけられた紙袋と今日のイベントが即座に繋がるというわけではない。何せパラケルススはバレンタインの日にこの男に何かを贈ったような記憶は一ミリたりともないからだ。
「貴方にこんなものを貰う道理はありません」
「余の施しだ、遠慮はするな」
所詮はついでだとオジマンディアスに言われれば、平素怒るようなことはあまりないパラケルススとて不快にもなる。あまりにも不躾な物言いにますますパラケルススの眉間の皺は深くなる一方であったが、その後に続いた貴様は甘味が好きだろうと言う言葉に引っかかった。そこでようやくまともに紙袋を観察すれば、有名なチョコレートブランドのロゴが入っていた。
ならばこの紙袋の中身はおそらくチョコレートか、そうでなくても洋菓子の類いだろう。しかしやはり疑問は拭えない。前述の通り、パラケルススにはオジマンディアスから何がしかの施しを受ける理由はないし、何より二人は互いにものを贈りあうほど仲がいいというわけでもない。
あくまでも喫茶店のマスターと体のいいカモ、もとい常連客である。
オジマンディアスが、このカフェキャメロットに通う理由をパラケルススは重々理解しているが、だからといってこの男がその理由の為にパラケルススに貢ぎ物として甘味を贈り、媚びを売るような性格ではないこともよく知っている。寧ろ彼はそのような遠回しなやり口は嫌う方ではなかったかと、オジマンディアスを見据えるパラケルススの目は更に剣呑な色を帯びていく。
「お客様からの施しは受け取るわけにはいきません」
従業員にもそう教育していますから、私だけ例外というのはあってはならないことです。
わざとらしくそう告げてパラケルススは手に持った紙袋を突き返す。某有名チョコレートブランドは大変魅力的ではあるが、だからといってこの男の意に諾々と従ってやるつもりは毛頭ない。パラケルススはこの店のマスターであり、従業員に対して責任を負う立場にあるが、何よりもこんなもので簡単に買収されると思われているのが不本意だった。
しかしパラケルススのその反応はオジマンディアスにとって予想外のものであったらしく、店にやってきてから初めて男はうろたえ、黄金色の瞳には微かな動揺が浮かんでいた。
束の間の沈黙が落ち、やがて苦々しげな声がする。
「貴様にそれを受け取って貰わねば余が困る……」
だから黙って受け取れというオジマンディアスにパラケルススの眉がつり上がる。互いにさほど長い付き合いというわけではないが、諸処の事情により何度となくやり合っている相手ではあるので、これ以上口を噤んでいてもパラケルススの意思を覆すことはできないと悟ったのだろう。頑ななパラケルススの態度にオジマンディアスは諦めたように渋々口を開いた。
「今日がホワイトデーなのは知っているな」
「ええ、まあ」
だからだ、と短く告げられてもパラケルススには一体何がどうなっているのか分からない。分からないので、その疑問をぶつける以外にない。
「でも貴方、バレンタインの時に私たちから何か貰ったりしていないじゃないですか」
「……言うな」
パラケルススの一言はどうやらオジマンディアスの心を抉ったらしい。がっくりと肩を落とし、心なしか小さくなったオジマンディアスが呻くような声を漏らすので、パラケルススも戸惑いながら口を閉ざす。
今から丁度一月前、世はバレンタイン一色に染まっていた。どこもかしこも愛の歌が流れ、チョコレートを中心にしたスイーツがあちらこちらで展開され、それは勿論カフェキャメロットでも同様だった。
パラケルススも年越し前からずっとこの日の為の特別メニューを用意して準備してきた。
そして当然オジマンディアスもカフェキャメロットにやってきた。だが、パラケルススの記憶が正しければその時オジマンディアスは従業員の誰からも贈り物は貰っていなかったはずだ。どころか、寧ろオジマンディアスの方が従業員に贈り物をしていた始末である。
その従業員の名前はアーラシュ。アーラシュ・カマンガー。オジマンディアスをこのカフェキャメロットの常連にせしめたバイト店員だ。
さて、このアーラシュという青年の性格はといえば明るく闊達で人当たりもいい。男女問わず彼を目当てにやってくる客も、オジマンディアスを筆頭に少なくない。近所のご老人たちからは可愛い孫のように、また近隣のOLさんたちからは気さくな弟のように可愛がられている。
とはいえそこは流石に喫茶店の店員と客の関係で、おおよその客は分別を持って店員に接するが極稀に例外というものもある。そしてその例外がパラケルススの目の前にいる男、オジマンディアスであった。
バレンタイン当日、やってきたオジマンディアスはアーラシュを呼びつけたかと思えば注文もそこそこにアーラシュにとある紙袋を渡していた。パラケルススの見間違えでなければその袋は世界的にも有名な某宝飾ブランドのそれであり、バレンタインシーズンにはその額実に五桁単位のチョコが売られていることもパラケルススは知っている。
そして流石にそのブランドは平素ファッションや装飾というものに疎いアーラシュにも見覚えがあったらしく、こんな高価そうなものは貰えないし貰う理由もないとアーラシュとしては実に真摯に、しかしてオジマンディアスにしては悲しい程無情にばっさりと断られたこともパラケルススは覚えている。
何せ、アーラシュに断られるとは思っていなかったのだろう自信に満ちたオジマンディアスの顔がまさかの拒否に茫然自失、顔色をなくし、最後には死んだような顔をして注文していたコーヒーを飲み干して帰っていったのだから。あの顔は今思い出しても実に見物だった。ビデオに収めることができなかったのが惜しいくらいである。
さて、先月のオジマンディアスはそんな調子であったのだから彼からチョコなり菓子なりを貰う理由はない。貰うとしてもその相手はアーラシュであってパラケルススにはならないだろう。
パラケルススがそのように思考を飛ばしていると、萎れたオジマンディアスもどうにか復活したらしい。
深い溜息と共に、やっと詳細な事情を語り始めた。
「ゆ……アーラシュは余が選りすぐったものを持ってきても受け取らぬであろう」
「ええ、まあそうですね」
だから某有名宝飾店のチョコから庶民にも親しまれる有名チョコレートブランドになったのかと納得する。アーラシュはごくごく普通の青年だ。一食五千円程度の居酒屋コース料理くらいならばまだ大人しく奢られてくれるが、一食数万もするようなフレンチフルコースなど本人が絶対に頷かない。
何度となくアーラシュに貢ごうとして玉砕すること十数回目にしてようやくオジマンディアスもそれに気がついたらしい。世界的VIPの彼にしてはこの選択は相当に骨が折れるものだったと想像がつく。
「それで、貴様とアーサーが先に受け取っておればアーラシュも嫌とは言えまい」
「……要するに外堀を埋めるというわけですね」
随分とせせこましいことをするとは思えども、それはオジマンディアスにも自覚があるのか仕方あるまいと言い訳がましいことを口にする。だが要約すれば『だってアーラシュが受け取ってくれないのが悪い』という主旨でしかなく、パラケルススが真摯に耳を傾けてやる必要はない。
ないが、オジマンディアスは上客だ。アーラシュの為なら際限なく貢ぐし置いていくチップの量も半端ない。(そしてそのチップはパラケルススの懐を潤わせ、カフェキャメロットの資金として有効利用させてもらっている上、アーラシュへの臨時ボーナスとしてもちゃんと還元されている)
カフェキャメロットに対する日頃のオジマンディアスの貢献具合を見れば、偶には飴をやってもいいだろう。そう考えるのはパラケルススなりの優しさでもあった。
「ええ、構いませんよ」
まあこれくらいならアーラシュも受け取ってくれるんじゃないでしょうか。

それからアーラシュがやってくるまで待つことしばし、オジマンディアスはそわそわと落ち着かずにいた。その姿はまるで餌を前に待てを命じられた犬のようでもあったが、それを指摘するつもりはパラケルススにはない。
「よう、ファラオの兄さん。いつもきてくれてありがとな」
「んっ、あ、ああ!! 久しいな!!」
パラケルススの指示によりシフトに入るなりオジマンディアスの下に向かったアーラシュに、彼を待っていたはずの当人はいやに動揺して声もいつになく上擦っている。
午後の中途半端な時間だということもあり、カフェにいる客はまばらで店内もそう忙しくはない。奥のキッチンから二人の様子を見守っていれば、オジマンディアスはしばらく支離滅裂な話をしていたが、やがてパラケルススが貰ったものと同じ紙袋をアーラシュに差し出した。
「いっ、いつもアーラシュたちには世話になっているからな! これは余からのほんの礼だ」
「ああ気を遣ってくれてありがとうな。でもそういうものはマスターにやってくれや」
自分はただのバイトだからと、屈託のない笑顔でオジマンディアスからの贈り物を断ろうとするアーラシュにマスターたちにはもうやった、と一対一の会話には不釣り合いな声量でそう告げるオジマンディアスに店内が一瞬静まりかえる。
紙袋を差し出されたアーラシュは僅かに気まずそうに、困惑したような顔をして意見を仰ぐかのようにパラケルススに視線を向け、それに応じたパラケルススが小さく頷けば未だ戸惑ったような顔をしつつも差し出された紙袋を受け取った。
その時のオジマンディアスの顔を何と言えばいいだろうか。一月前とは裏腹に、黄金の瞳には歓喜が満ち、目と言わず顔と言わず体中から嬉しくてたまらないといった感情がダダ漏れになっている。対するアーラシュは少しばかり照れくさそうにしながらも、こういうのは気持ちだけでいいからとやんわり釘を刺してはいるが、はたして今のオジマンディアスにその言葉が届いているのかは実に怪しいところであった。
「それで、兄さん注文は?」
「む……そうだな。喉が渇いたからホットのカフェオレを頼む」
「ホットのカフェオレ一つ…と。了解」
しっかり注文も受け取ってアーラシュが厨房に戻ってくる。カフェオレ一つと奥で待っていたパラケルススに注文を投げ、控え室に戻ってもいいかと尋ねてくる。
「ええ、ここにおいておくのも危ないですし構いません」
「それもあるんだが、兄さんにもらっちまった以上俺も何かお返ししないといけないしな」
「……それなら貴方のバンドのチケットはどうですか」
確か昨日、一枚だけ余っていたと言っていませんでしたか。
さりげなく気を利かせてパラケルススが提案すれば、アーラシュは思い出したとでも言うようにああと小さな声を上げ、じゃあそれにしようかとそそくさと控え室に向かっていった。
その間にパラケルススはカフェオレの準備に取りかかり、アーラシュが控え室から戻ってきたタイミングを見計らって注文の品を届けるように頼む。
「その方が貴方もさりげなくお礼を渡しやすいでしょう」
「そうだな、ありがと。マスター」
銀のトレーの上にカフェオレがなみなみと入ったカップとソーサー、シュガーポット、そしてバンドのチケット。随分とちぐはぐな組み合わせにも思えるが、オジマンディアスにしてみればこれ以上ない返礼であろう。
案の定、アーラシュからお礼と称してチケットを受け取ったオジマンディアスはまるで恋する少女のように顔を赤くし、ライブには絶対に行くと繰り返しアーラシュに約束していた。
アーラシュの方はと言えばオジマンディアスの胸中も知らず、そんなに俺たちのバンドが好きだったならもっと早くに言えば良かったと明るく答えているのだからオジマンディアスの恋路はまだまだ先が長いのだろうとパラケルススは密かに彼に同情する。だからといってパラケルススがオジマンディアスの為に何かをするつもりも大してありはしないが。
その日、オジマンディアスが残していったチップがいつもの三倍近い額にのぼったのは言うまでもない話しだった。