君は友だち

 人の気配で目が覚めた。扉の向こうに誰かが立っている。密やかに息を殺して、部屋の中の様子を窺っているようだった。窓に目を凝らせばまだ外には明るさはない。耳をすませば微かに聞こえるせせらぎから今がまだ深夜の時分であることを理解した。
 さて、こんな時間に部屋の前に訪れるような人間ははたして一体誰だろうか。
その来訪者はしばらくの間部屋の前に立ちつくしていたものの、結局扉を開けることなく立ち去った。遠のく足音にその主が誰かを察して、そっとジェイドはベッドを抜け出す。部屋着の上に軽く上着を羽織り、ブーツを履いて宿の外へと出る。
 ここがグランコクマで良かった。ジェイドの予想が正しければ部屋の前に立っていた人物よりも余程地の利がある。例え彼がどこかに行ったとしても見つけ出す自信があった。
 けれど彼の姿を探すまでもなかった。宿からほんの少し歩いた場所にある港に目当ての人物の赤い頭が見えたからだ。
 彼は、ルークは海を見ていた。安全の為に取り付けられた手すりに凭れ、いつもは真っ直ぐな背中が少し丸まっている。その背中が妙に寄る辺なく見えてほんの一瞬、ジェイドは声をかけるのを躊躇った。だが、ここで黙って宿に戻ってしまったらわざわざやってきた意味もなくなる。
 わざとヒールの音を立てながらルークの横に並んで声をかけた。
「子供が夜更かしとは感心しませんねえ」
「ごめん。……色々考えてたら少し夜風に当たりたくなったから」
「おや、悩み事ですか。話くらいなら聞きますよ」
 私も丁度眠れなくて夜風に当たりにきたんです。そう微笑めばルークが曖昧な顔をして頷いた。安い嘘だ。ルークにだって見抜かれる程度の。この場を取り繕う為だけの意味のない嘘だ。ジェイドが自分を追ってきたのだということくらい、ルークだって理解している。
 それでも優しい子供はジェイドの嘘を信じたふりをして、それなら少し聞いてほしいと口を開いた。
「前にジェイドがダアトで、俺のこと友達だって言ってくれただろ? 死んでほしくないって」
「ええ、そんなことも言いましたね。あなたには『ジェイドが俺のこと友達だと思ってくれてたとは思わなかった』と言われてしまいましたが」
 そのときの会話は一字一句覚えている。自分がルークに何と告げたのかも。ルークが自分に何と答えたのかも、彼の何気ない一言が自分の胸を抉ったことも、すべてあまさず記憶している。
 死んで下さい、と冷ややかな自分の声が頭蓋の奥でこだました。
「そのことだけど、ジェイドに謝りたくて」
 ジェイドの思考を遮るようにルークの声が聞こえて我に返る。だから一瞬、反応が遅れた。
「……おや、何でしょう? あなたに謝ってもらうことなんてありませんが」
「そういうこと言うなよ」
 わざとらしく茶化すような声音にルークが声を荒げる。人気も無ければ昼間の賑やかさも嘘のように静まり返った港ではちょっとした声さえ良く響く。それに慌てたようにルークが声をひそめて話を続ける。
「ダアトでジェイドに友人だって言われて嬉しかったんだ」
 飾り気のない率直な言葉に息が止まる。ルークの素直さが鋭くジェイドを射貫く。けれどルークはジェイドの動揺などいざ知らず、相変わらず手すりにもたれて黒い海を眺めていた。
「アクゼリュスのことで一度俺はみんなから見放されただろ? だからジェイドの、みんなからの信頼取り戻せたらそれでいいって思ってた。みんなから信用してもらって、ちゃんと仲間の一人として扱ってもらえるのが嬉しくて……」
 言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど。
 それこそ言い訳がましい口ぶりのルークが続きの言葉を言い淀む。あるいは、何を言えばいいのか分からず躊躇っているのかもしれない。だからジェイドは黙って続きを待っていた。促すことさえしない。ルークが言いたくないというのであればそれはそれで構わなかった。
 しばらくの逡巡の後ようやく言いたいことが定まったのか、それで、とルークが言葉を繋ぐ。
「だからジェイドのことは仲間だって思ってた。友達とか考えたことなかったっていうか、変な意味じゃなくて……ジェイドに友人だって言ってもらって初めて、ジェイドのこと友人だと思っていいって分かって、すごく嬉しかったんだ。俺の自惚れかもしれないけど」
 拙く張り巡らされた予防線はきっとルーク自身に対してのものだ。アクゼリュスの一件以来、彼は大変卑屈になってしまった。見捨てられることを、お前は不要だと道具のように切り捨てられることを恐れている。
 好意を抱いて慕った相手から冷たく突き放されることがルークにとっては何よりも怖いのだ。
 躊躇うように途切れがちの言葉にルークの逡巡を垣間見る。何かもの言いたげにその唇は開いては噤まれ、やがて小さく息を吐く音が聞こえ、体ごとルークがジェイドに振り向いた。
「ジェイドと友達になれてよかった」
 不意打ちのような一言と供に差し出された手に戸惑う。この手を掴んでいいのだろうか。
 ジェイドは確かにルークを友人と言った、けれどそれと同じ口で「死んで下さい」とも言った。それは国を守る人間としては当然のことかもしれないけれど、きっと何度やり直したところでジェイドは同じ言葉を突きつけるだろう。
 彼に友とのたまったのと同じ口で死んでくれと言う。今だって、間違いなくルークが死ぬと分かっていてローレライの解放をさせようとしている。
 アッシュはもういない。残っているローレライの完全同位体はルークだけだ。ローレライを解放すれば音素の結合が緩んだルークの体は解けて一緒に空へと昇るだろう。生きて帰ってくる確率は限りなくゼロに近い。それらを全部理解して、それでもジェイドはルークにやれと言う。それは彼に死ねと言うのと同義だった。
 だと言うのに差し出された手から視線を上げればルークは期待するような目を向けていた。言葉よりも雄弁にこの手をとってほしいと願っているのが分かる。だからつい、ジェイドもそれにつられてしまう。
 しかし思わず伸ばしかけた手はけれど指先が触れる寸前で止まった。
 ルークの顔が途端に曇るのを見ながらジェイドは再び手を見下ろす。
 今この手を掴んではならない。ルークの手を握ってはならない。
 掴んでしまえばきっと未練になってしまう。それはルークではなくジェイドの未練だ。ルークの温もりを知ってしまえば二度と離せなくなる。きっと死ぬなと口にしてしまう。彼を死地へと追い立てたのは他ならぬ自分であるというのに、その自分が彼に死ぬなと願うのはあまりにも残酷で身勝手だ。
 だからジェイドはルークの手は握れない。
 伸ばしかけた手を無理矢理持ち上げて、眼鏡を直す振りをする。ほんの一瞬、手のひらでルークが隠れ、再び見えた時にはいつも通りの笑みを顔に貼り付けた。
「まったく、随分と可愛いことを言うようになりましたね」
 声は思いの外優しく響いた。それが良かったのか悪かったのかは分からない。ただ、ルークの表情が少しだけ和らいだのできっといいものだったのだろう。
「あなたは、私のことを恨んでもいいんですよ」
 フォミクリーという技術を生み出したことも、それと向き合わずに中途半端な形で投げ出したことも、彼に死んで下さいと言ったことも。ルークがジェイドを責めることは彼にとって当然の権利だろう、少なくともジェイドは彼に詰られるだけのことをしてきた。
 詰って罵って、暴力沙汰は勘弁してほしいところであるが殴られても仕方のないことだとは思う。
 誠実と呼ぶには程遠いものの、ジェイドがルークにしてやれることなんてきっとそれくらいしかない。もう、それくらいしかしてやれることがない。いっそのことルークの中に溜まっているだろう不安も不満も鬱憤も全部ぶつけてくれればいいのに。
 けれど優しい子供はそんなことないと優しい言葉を口にする。
 それが何よりジェイドの心を抉ることも知らないで。
 ルークの優しさにジェイドは報いることが出来ない。これから死に逝く彼の背中を押すことしかできない。与えられるものだって何一つない。どうしようもないままに立ち尽くしていると、くしゅんと可愛らしいくしゃみが聞こえた。
 塩気を含んだ風が二人の間を吹き抜ける。
「……グランコクマの夜は冷えます。早く宿に戻りなさい」
 物思いから意識を現実に引き戻してルークに告げれば、緑の瞳が細められる。
「やっぱりジェイドは優しいな」
 どこか嬉しそうに聞こえるその声に、そんな奇特なことを言うのはきっと、世界中を探してもこの子供一人しかいないだろうと思った。

 夕日の赤が空を染め、白亜の大地を赤く塗る。鋭さを欠いた陽光が、それでも眩しく瞳を灼いた。
 ヴァンは斃れた。後はローレライを解放するだけだ。ここから先、エルドラントに残るのはルークだけだ。
「ルーク。あなたは本当に変わりましたね」
 左手を差し出す。ルークは一瞬戸惑ったようだが、それでもしっかりとジェイドの手を握った。
 これは未練だ。ささやかな会話を交わしながらそう考える。
「だからこそ生きて帰ってきて下さい。いえ……そう望みます」
 今になってこんなことを口にしてしまうのだから未練以外に言いようがない。あの時、自分はルークに答えなかったのに。差し出された右手を握り返さなかったのに。もう取り戻せないと分かりきった今になって彼を失うことを惜しく思う。
 もうルークが逃げ出せないことを知っていて、どんな言葉を重ねてもジェイドに頷いてはくれないことを分かっていて、未練を口にしてしまう。どんなことを言ったとしても、今のルークはジェイドの言葉を否定する。それを知ってやっと初めて告げることが出来る言葉があった。
「ジェイド……無茶いうなよ……」
 窘めるようなルークの言葉に微笑んだ。
 拒絶されることは知っていた。それで良かった。どんなに手を伸ばしたところでもう、ルークはジェイドの手をとらない。
「すみません」
 だからこれはきっと自分の我儘なのだろう。戻ってこないことを知りながら、戻ってきてほしいと願うことは。

「ジェイドは優しいな」
 でももう少しここにいたい。
 海から吹き付ける夜風は思いの外寒かった。くしゅんともう一度くしゃみをすると、衣擦れの音が聞こえて温かいものが肩を覆う。どうやらジェイドがきていた上着を貸してくれたらしい。きっと残り香なのだろう、微かに香水の甘い香りに包まれて不思議な気分になる。
 その何気ない優しさだけで胸が潰れそうになるほど嬉しかった。
「あなたがここに残るなら、私ももう少しいましょうか」
「付き合ってくれるのか?」
「悪い子が夜更かししすぎないよう、見張りです」
 微かな期待を込めた問いに悪戯っぽく返される。信用ないなと苦笑すれば、心配性なものでと肩を竦められた。
「これからが正念場だというのに、あなたに倒れられるのは困るので」
「うん」
 それは大丈夫だと答えながら再び手すりに寄りかかって海を眺める。黒々とした水面はけれど決して一定ではなく、小さな波が月明かりに揺れて銀色に輝いていた。まるで魚のうろこのようだ。大きな黒い魚がのたくるたびにぬめるように波のうろこが光を弾いて鈍く輝く。
 見ていて面白いものではなく、暗く広がり果ての無い海は底なし沼のようにも見えて少しだけ怖い。二度三度瞬き、海から視線を逸らして横目にジェイドを盗み見れば、ひんやりとしたその横顔は無表情に目の前の海を見つめていて何を考えているのか分からなかった。
「……ジェイド」
「何です?」
「俺がいなくなっても、ジェイドは俺の友達でいてくれる?」
 ジェイドの顔が微かに歪み、それから怪訝そうにルークを見つめる。赤い瞳がゆっくりとまばたいて、ぽつりと一言呟いた。
「あなたがそれを許してくれるなら」
 その言葉にきゅうと心臓が絞られたように痛む。
 その痛みに耐えるようにきつく手すりを掴めば冷えた金属の冷たさが指先から染み入ってきた。
「俺は、死ぬまでジェイドと友達でいたい」
 さっき、手を差し出した時触れられなくて良かったと思った。あの時ジェイドに手を握られていたらその温もりを知ってしまうところだった。そうしたらきっと我慢ができなくなっていた。好きだと言って、友人なんかじゃ我慢できないと我儘を言って困らせた。
 だから触れなくて良かった。友達のままで良かった。どうせ置いていってしまうことを知っているから。
 ただ、今隣にジェイドがいてくれる。それだけで良かった。