きょうのオジラシュ 秋の夜長編

平素であればオジマンディアスの部屋になど寄り付きもしないというのに、今日に限っては何故か珍しく部屋にまでやってきたパラケルススに「アーラシュが大変なことになりまして……」などと言われては、すわ何事かと駆けつけざるを得ない。そうしてアーラシュの部屋にまでやってきて、部屋のドアを開けた途端鼻についたのは過ぎる程の酒気であった。
一体これはどういうことか。
その匂いだけで弱いものであれば酔いそうなほどに濃密な酒気の中で、ふにゃふにゃと緩んだ顔をしているアーラシュがいた。
本当に、これは一体どういうことか。
些かおかしな状況を目の前にして固まるオジマンディアスに、それは私が説明いたしましょうと手を挙げたのもやはりパラケルススで、もしやこの男が何かろくでもないことをやらかしたのではあるまいかと疑ってかかればそうではないと速攻で否定された。
「これはアーラシュが望んだものです」
「アーラシュが……」
「ええ、そうです。別に私が悪意を持って彼に一計を案じたわけではありませんし、アーラシュも納得済みで私に頼んできました」
もっとも、このような状態に陥るとはさしもの彼も分かってはいなかったでしょうが。
小さくぼやくパラケルススに事情を問い詰めて話を聞けば、そこには何とも他愛なく、そして可愛らしい理由があった。
アーラシュは生来酒に酔ったことはない。女神より授かった加護で彼に毒の類いは一切効かず、そしてその毒というものの範疇には酒も入っていた。要するにアーラシュは体質とでもいうべきか、それも含めて加護というべきか。
とにかく酒に酔うことができない人間だった。
それがただ度数の高いものだけならばともかくも神の酒でも酔わないのだから、それは最早加護というよりも呪いの類いのようでさえある。
そしてカルデアには酒豪が大変多かった。そもそも英雄には健啖家、大酒飲みも少なくない。
そんな彼らが集まれば古今東西の銘酒や美酒がおのずと集まり、互いの生前の話や誇った武勇、或いはカルデアに召喚されてからの日常など、他愛ない話を肴に酒盛りとなることもしばしばあった。
その中にアーラシュが混ざることは決して少なくはないが、何せ彼は酒に酔うことができない。しかしアーラシュとて大人であるので、例えどれほど周囲ができあがっていようと、どれだけ自分が素面であったとしても場の空気を壊すような真似はせず、むしろ素面であるにもかかわらずへべれけに酔った他の者たちと変わりなく盛り上がっていた。
しかし酔っ払いにはそんなアーラシュの気遣いなど通じようはずもない。
顔色一つ変わることのないアーラシュに、もっと飲めとわんこそば状態で酒を注ぎ続ける者。酔わなければ酒を楽しんだことにはならないと理不尽な理屈をぶつける者。更には延々と酒の良さや酩酊の心地良さを語った後、それを楽しめないお前は人生の半分以上を損していると、よく分からない理由で泣き始める泣き上戸など、さながら見本市のような酔っ払いたちがアーラシュに絡む。彼らのその嗅覚の鋭さには素面の人間を見つけ出す為の何かがついているのかもしれないと思う程だ。
そしてアーラシュは酔えないというだけで、酒が飲めないわけでもなければ酒自体は彼の好むものだった。
ビールののどごしの良さも、葡萄酒の深みのある味や香りの良さも、カルデアで覚えた日本酒の水のようでいてしかし水ではない複雑な味わいも、或いは蒸留酒の喉を焼くような鮮烈さもどれも違ってどれもいい。
そういったものに囲まれて、しかも酔えないなんて損をしているとまで言われて、ならば一度くらいは酔ってみたいと考えたアーラシュを一体誰が責められるだろうか。
だが、アーラシュが酒に酔わないのは体質云々の問題ではなく、そもそも女神の加護故だ。ならばその加護を一時的に無効化――とまではいかずとも弱体化することができれば酒への耐性も人並みかそうでなくとも酒に強い人程度にはなれるのではないかとアーラシュは考えた。
そうしてアーラシュの酔っ払いになる為の試みに対する協力者として白羽の矢が立ったのはパラケルススだった。
勿論、これにもアーラシュなりの理由がある。
カルデアでは酒を飲む姿よりも甘味やスイーツを食べている姿の方が多く見られるが、生前のパラケルススは酒好きだったとされている。要するにパラケルススは酒の楽しみを知っているということだ。そのためアーラシュの馬鹿げた話にもそれなりの理解を示してくれるのではないかという思惑があった。
実際、話を聞いたパラケルススは他の酒飲みたちと同じように、それは確かに人生の楽しみを知らないようなものだと頷き、自分でよければ是非とも手助けをしたい。
成功したあかつきには祝い酒でも一緒に飲みましょうとアーラシュが酒に酔う為の手助けをしてくれたので、アーラシュのこの選択は正しかったのだと言っていい。
そうしてパラケルススの手を借りて、アーラシュはサーヴァントとして現界した際にスキルとして付帯してきた加護を一時的に弱体化させることに成功した。
そこには様々な困難があったと深い溜息を吐きながらパラケルススがぼやいているが、問い詰めると話が長引きそうなのであえて聞き流すことにする。
とりあえず事情は分かったが、ではどうしてパラケルススとアーラシュが二人きりで酒を飲んでいたのか、そして何故パラケルススがわざわざ自分を呼んだのかが分からない。
その疑問が顔に出ていたのか、それともパラケルススがオジマンディアスの複雑な心中を察したのか、だから先程も言ったではないですかと言葉を続けた。
「成功したあかつきには祝い酒でも飲みましょうって」
アーラシュとパラケルススの試みは確かに成功した。成功したが、だからといっていきなり酒盛りをしている中に放り出すわけにもいかない。
何故なら酔っ払いとは大変面倒臭く、同時に大変厄介な生き物だからだ。
特にアーラシュは絡み酒で過去に散々絡まれている。自分が同じようになって人に迷惑をかけるのは困るからと、試し酔いとでも言うべきか、まずは全ての事情を知っているパラケルススとさし飲みをしようということになった。
だがしかし人間誰しも限界はある。加護が弱体化した今のアーラシュがどれだけのアルコールに耐えられるかというのは流石のパラケルススにも分からず、まずはビール、続いてワイン……といったようにとにかく用意できるだけの酒を並べ、実験の成功を祝って二人で飲んでいた。
ここまではいい。
問題はそれからで、パラケルススは生来の酒好きだった。
多少酒乱のけもあったため、周囲に対して余計な迷惑をかけたりしないようカルデアでは飲酒を控えめにしていたものの、自分の実験が成功したとなれば気分もよくなり、いつもよりも酒量も増える。
対するアーラシュも、元々酒に強い体質だったらしく女神の加護などなくてもそれなりにうわばみだったらしい。
その上アーラシュは自分の限界というものを知らない。今まで加護のおかげで酔ったことがないのだから当然のことだ。
そうしてアーラシュは勝手の分からないままいつもよりもずっと速いペースで酒を飲み続け、パラケルススが気付いた時には完全にできあがっていた。
不幸中の幸いだったのはアーラシュの場合酒が入っても暴れたり誰かに絡んだりするようなタイプではなかったということか。
「……それで、その酔ったアーラシュが所望したのが余ということか」
「ええ、そのようです」
きっと、貴方と飲みたかったんでしょうね。なんて言われてしまえばこのような事態を起こした元凶二人に対して湧くべき怒りも湧いてこない。
深い溜息を吐いて、後のことはこちらでしておくと一言告げればそれは助かるとほぼ素面と変わらぬ顔をしたパラケルススは部屋を出て行った。途中、部屋のど真ん中、何もないような場所で脚を縺れさせていたあたり素面に見えるが向こうは向こうで酔っているらしい。
流石に目の前で転げられてはオジマンディアスとしても心配の一つくらいはするものだが、本人はいたって真顔で、酔っているように見えるんですか、私を誰だと思っているんですか。医者のパラケルススですよ。と凄んでくる始末だったので呆れてそのまま帰らせた。
畢竟、酔っ払いの相手というのはこの世の何よりも面倒臭い。
そうして二人きりになった部屋で改めてアーラシュと向き合う。
「……」
「ほら、ファラオのにーさん。ここ座れよ」
ふにゃふにゃと、それはもう一体何が楽しいのかと思う程に緩みきった顔を晒しながらベッドの横をぽんぽんと叩くアーラシュの言う通り彼の隣に座る。
それを見届けたアーラシュは空の酒杯に酒を注ぎ、オジマンディアスに差し出してきた。
「ほらにーさんも飲めよ」
かけつけ一杯ってやつだな、と。一体どこでそんな言葉を知ったというのか、そもそも用法が違う気がしないではないが、そんなことを突っ込むだけ野暮というものだろう。
差し出された酒は一見すると水のようであったが、一口口に含むと馥郁たる香りが鼻に抜け、そして程よいアルコールが喉を滑り落ちていく。一口、二口、するすると飲んでしまえるその酒は水のようで水よりも飲みやすい。
だがここで自分が同じように酒を飲んで酔ってしまっては意味がないのだ。
そんなことを考えながらオジマンディアスがちびりちびりと舐めるように酒を飲んでいると、アーラシュは何がそんなに楽しいのかにこにこと締まりの無い顔をしてずっとオジマンディアスを眺めている。
「何がそんなに面白い」
「あんたとこういう風に飲めるのが楽しくてな」
つい顔が緩んじまう、と答える言葉はいつもに比べて舌足らずだ。ついでに言えばこの手の言葉を素面であればアーラシュは決して口にはしないだろう。彼は案外自分の感情を口に出すのが下手だということを、浅からぬ付き合いからオジマンディアスは理解している。
だから、アーラシュにそう言われたことが驚きだった。
「……そうか」
お前が楽しいならそれで構わん。それだけ口にするのがやっとで、何気なさを装って酒を飲むが、先程まで確かに感じていた香りも味わいももう何も感じられない。
動揺するオジマンディアスの心中などいざ知らず、相も変わらず上機嫌なアーラシュは酒杯が空になれば手酌で酒を注ぎ足し注ぎ足し、あっという間に壜を一本空けてしまう。
褐色の肌に紛れて分かりづらいが、よくよく見ればその顔は真っ赤に染まっていて、流石のアーラシュもこのあたりが限界なのではないかと不安を覚える。だが、何せ相手はまだ自分の限界も分かっていないようなものなのだから、とにかく酔えることが楽しいらしく酒を飲むペースは衰えることを知らず、とうとう見かねてオジマンディアスは手を出した。
今まさに新しい酒の封を切ろうとしていたアーラシュの腕を掴みその動きを止める。
オジマンディアスの行動はアーラシュにとっても意外なものだったらしく、驚いたような顔をしてアーラシュはこちらを見つめていたが、オジマンディアスの意図を察したのか酒瓶を床に戻した。
「にーさんの手は温かいな」
気持ちがいいと、もう一方の手のひらがアーラシュの手を掴んでいるオジマンディアスの手に重ねられる。
酔っているせいなのか、触れた手のひらはいつになく熱く感じられ、思いがけない体温に思わずオジマンディアスの喉がなる。
酒に飲まれたこの体であれば思うような抵抗もできまい――束の間、そんな不埒な考えが脳裏を過ぎったが、それではあまりに不実に過ぎる。
今、アーラシュを止めてやれるのは他ならぬオジマンディアスだけであるというのに自分までもが酒に飲まれてしまっては何の意味もなしはしないではないか。
慎重に理性をたぐり寄せ、気持ちを落ち着ける為に息を吐く。
「もう十分飲んだだろう」
その言葉にアーラシュは二、三度目をしばたかせそうだなと緩みきった笑顔を見せた。
「満足したか?」
「はは、どうだろな」
少しばかり呂律の回っていない口ぶりはどこか幼ささえ滲ませていた。
「酔えたら少しはあんたと楽しいはなしでもできると思ったんだが」
「余の楽しみをお前の物差しで測ろうとするな」
酔い醒ましに水でももらってきてやるから大人しくしていろと、アーラシュの手を引き剥がして部屋を出る。
ドアを閉めたところで溜息と共にオジマンディアスは崩れ落ちた。
パラケルススから事情を聞き出した時には、酒に酔ってみたいなんて、どうしてそんな馬鹿げたことを考えたものだと呆れさえしたが、そのパラケルススにも言わなかっただろう理由がこんなにもいじらしいほどにささやかなものだったなんて一体誰が想像しようものか。
確かに恋人同士であるというのもあってオジマンディアスはアーラシュと一対一で飲むことも多い。だがそれは相手が酒に酔えないことも常に素面であることも理解した上でのことだ。寧ろオジマンディアスの方こそアーラシュが酔えないことを分かっていながら酒を口実にしていたところがあるのだから、アーラシュが気に病む必要などどこにもないというのに。
アーラシュはオジマンディアスと同じように酔ってみたかったのだろう、きっと。
その不器用さがひどく愛しいと思うのは果たしてオジマンディアスの欲目だろうか。
「……いや、今は水だな」
軽く頭を振って気持ちを切り替え、カルデアのキッチンへと向かう。
道中誰にも出会わなかったのは不幸中の幸いというやつだろうか。誰かと鉢合わせたところで困ることでもないとはいえ、何となく今のアーラシュのことを他の誰かに知られたくないと思うのはオジマンディアスのささやかな独占欲というものだ。
そうしてキッチンで水差しとグラスを拝借して部屋に戻ってくれば案の定と言うべきか、オジマンディアスを待ちくたびれたアーラシュはベッドの上で丸くなり、すっかり眠りこけていた。
折角水を持ってきたというのに、これでは無駄になってしまう。
だが、そうといえども眠ったものを叩き起こして水を飲ませるというのもどうかと思い、オジマンディアスは水のことを諦めた。どうせすぐに腐るものではないし、アーラシュが目を覚ました時にはきっと二日酔いに悩まされるだろう。その時にでも飲ませておけばいい話だ。
そうと決めてしまえば後は思い悩むこともない。ベッドのど真ん中を陣取るアーラシュを横に押しのけ、人一人分が入り込める隙間を作る。その隙間に横になり、酔ったアーラシュを抱え込めばいつもよりもずっと高めの体温がじんわりと体に沁みた。
その心地良さに身を委ねながら、オジマンディアスは目を閉じる。