王子様と悪の譜術使い

 むかしむかしあるところにキムラスカ・ランバルディアという古くから続く王国がありました。
 国を治める王様の子供はナタリア姫しかいませんでしたが、その従兄弟にアッシュとルークという双子の兄弟がおりました。
 兄のアッシュはいずれナタリア姫と結婚して王様になることが決まっていましたが、弟のルークにはまだ婚約者さえいませんでした。何せこの王子様、とっても我儘だったのです。
 アッシュとルークは双子でしたが、将来国王様になることが決まっている兄のアッシュは大変厳しく育てられました。その反動でしょうか、弟のルークはアッシュとは逆に大変甘やかされて育てられました。母親のシュザンヌやお世話係のガイをはじめ、周囲の人々がこぞって甘やかしてしまった為、ルークは十七歳にして横柄な態度をとる、我儘で世間知らずな人間に育ってしまいました。
 そんなルークの状態に真っ先に危機感を覚えたのは兄のアッシュです。
 アッシュは大変真面目だったので、自分の弟が世間知らずの我儘放題であることが許せませんでした。
 そうしてある日、とうとうアッシュはルークを屋敷から追い出してしまいました。
 世間の荒波に揉まれればこの愚弟の我儘放題の性根も少しは矯正されるだろうと考えたのです。
 屋敷から追い出されたルークは門の外でぎゃーすか騒いでいましたが、アッシュは弟の我儘にはなれていたのでそんなものは気にも止めません。そして大きな声でルークに言いました。
「十七にもなっていつまでもチャラチャラしてんじゃねえ。少しは世間に揉まれて自分を省みろ! 屑が!」
 アッシュはとても真面目なのですが、何故か次期王様にあるまじき口の悪さが玉に瑕でした。
 ですがルークはアッシュの弟です。口癖のような「屑が」の言葉に怯むような可愛げはありません。それどころか一方的な宣告に腹を立てて更にわめき立てます。けれどアッシュは閉ざした門扉にがちゃんと大きな鍵をかけて完全にルークを閉め出してしまいました。
 幾らアッシュが兄とはいえ、本来ならばこのような横暴が許されるはずがありません。けれど周囲の人々も甘やかしすぎた自覚はあったので誰もアッシュに異を唱えることはしませんでした。
 ただ、世話係のガイだけは「ルークがあんな風に育ったのは世話をしてきた俺の責任だ。見捨ててはおけない」と言って屋敷を出て行きました。ついでに、ガイがルークについていくと知ったシュザンヌは買い物の仕方一つ知らない息子が身一つで放り出されては路頭に迷うのではないかと心配してガイに旅費として五十万ガルドほど与えました。
 ルークほどではありませんが母のシュザンヌも箱入りのお嬢さんだったので大分金銭感覚がずれていました。
 さて、一方アッシュに放り出される羽目になったルークは不満たらたらで唇を尖らせていました。
 今まで散々甘やかされてきたのに、ある日突然それでは駄目だと言われてしまったらそんなものかもしれませんが、アッシュが一度言いだしたらこちらの意見など聞き入れてくれないのもよく知っているので、屋敷に戻りたいとは言いませんでした。
 どうせ戻ったところでまた放り出されることは目に見えています。
 それならばしばらく適当に外をぷらぷらして兄の言葉に従ったように見せかけ、ほとぼりが冷めた頃に戻ればいいと考えました。何せこうして自由に外を歩き回るのはほとんど初めてと言っても過言ではありません。ルークはほぼありとあらゆるものを与えられて甘やかされていましたが、自由というものだけは与えられていませんでした。
 気のおけない親友であるガイとの二人旅、途中で買い物の仕方を知らず無銭飲食の罪に問われかけたりなにやら色々ありましたが、なかなか楽しいものです。
 始まりは不本意なものでしたが、折角自由に外を出歩けるのですからそれなら屋敷にいては見られないような面白いものが見たいとあるときふと思いついてルークはガイに尋ねました。
「なあ、屋敷に戻った時にアッシュに自慢できるようなものってあるか?」
 ルークが唐突にこのようなことを言うのはそう珍しいことではありませんが、突然の無茶ぶりに流石のガイも困ってしまいます。
 ルークの言い分を要約すれば「アッシュに後で話して聞かせられるような土産話がほしい。ついでに自慢したい」ということですが、なんやかんやアッシュはナタリア姫の公務の付き添いで一緒に外に出かけることが多く、ルークが経験するようなことは殆ど見聞きしているでしょう。
 そのアッシュに自慢できそうなこととなるとキムラスカを出て隣国のマルクト帝国に行くくらいのことをしなければなりません。
 一応旅券も用意はしてありますが、かといって世間知らずのルークを連れてキムラスカを出るのにも些か不安というものがあります。
 何か適当にルークの好奇心を満たしてくれそうなものはないだろうか。一生懸命考えたガイは数日前に街で聞いた噂を思い出しました。
 いわく、キムラスカとマルクトの国境付近、東ルグニカ大陸の南の海にある孤島にはレムの塔という名前がついた前世紀の遺産とでもいうべき建物があるそうで、その縦に伸びる不思議な塔には不思議な男が住み着いているそうです。
 男の正体が何者なのかは誰も知りませんが、噂によればその男は悪の譜術使いと呼ばれているそうです。
 人里離れたそんな場所で暮らしている時点で大変な変人の気配がしますが、そのあたりまで行ってみるのも面白いと思ってガイはその噂話を口にしました。
 塔の主と会うことはできないでしょうが、孤島にぽつんと建てられた空まで届くような高い塔というのは土産話のネタには十分なように思えました。
 ガイからその話を聞いたルークは大きな目をキラキラと輝かせます。
「何だよそれ! 面白そうだな!」
 そうと決まれば善は急げです。二人は早速レムの塔へと向かいました。
 途中で船に乗ったり、砂漠を渡ったり、なかなかハードな行程を経て途中でもういやだとルークが駄々を捏ねたこともありましたが二人は何とかレムの塔までやってくることができました。
「……でけー」
「そうだな」
 レムの塔は噂で聞いていた以上に高く、上を向いてもてっぺんが見えません。
 大きな円柱が天まで届きそうなほどに高く伸びたその塔は前世紀のものなだけあって、異様な雰囲気すら漂わせています。
 何も考えずに面白そうという理由でやってきましたが、ルークもここにきて少しだけ怖じ気づきました。
 この変な塔に住んでいるというだけでじゅうぶん悪の譜術使いは変人です。そうに決まっています。そうでなければおかしいくらいです。
 そんな人物に会いにきて大丈夫だったのかと噂を教えてくれたガイの方を振り向けば、ガイも顔を引きつらせています。
 二人してこれからどうしようか。呼び鈴でも鳴らすべきかそれとも何もせずのこまま帰ってしまおうかと引きつった顔で話合っていると、塔の扉が勝手に開いて、中から一人の男が出てきました。
「塔の外から話し声がすると思って様子を見に来たら、物見遊山の観光客ですか」
 楽しそうに嫌味を言ってのける男こそ悪の譜術使いでした。何せ、見るからにそういう格好をしています。
 長い蜂蜜色の髪は三つ編みに。端正な顔にかけられた眼鏡の奥の瞳は真っ赤で、人間のものとは思えません。そして、薄く弧を描いた口元は作り笑いを貼り付けていました。着ている服は真っ黒で、真っ赤なマントを着けています。見るからに『悪の譜術使い』の格好です。少なくとも正義の味方には見えません。
 男が小首をかしげて、ルークたちに問いかけます。
「それで、私に何の用です?」
 開いた唇から聞こえた声は低く、どこか色気すらありました。
 赤い目を更に細めて笑みの形を作る悪の譜術使いは、色白気味の肌もあいまって吃驚するくらいに美しいものでした。男でこんなに綺麗な人と出会うのはルークも初めてです。だって、どんなに胡散臭い笑い方をしているというのにもかかわらず、その顔の良さで何となく誤魔化されそうになってしまうくらいなのですから。
 これには二人とも想定外でした。もっと見るからに胡散臭く悪い見た目をしているものだと思っていたのです。いえ、胡散臭さで言えばこちらも負けてはいませんが。
 さて、悪の譜術使いの問いかけにどう答えるべきか。余計なことは言わないでくれよと願いながらガイがルークの様子をうかがえば、何故か隣の子供はこれ以上ないくらいに顔を真っ赤にしていました。
 いやな予感がガイの中に過ぎります。
「……お前」
「はい?」
「俺と一緒にバチカルにこい」
 それで、俺のものになれ。
 ぴしりと音を立てて空気が凍ったような気がしました。ついでにガイの心臓も一瞬停止したような気がします。
 実は、ルークは大変面食いでした。そしてこの悪の譜術使いはルークの好みにドンピシャだったのです。柔らかそうな長い髪も、人形のように整った美しい顔も、薄い笑みを貼り付けた柔和な面差しも。つま先から頭のてっぺんまで、無駄なものなどないと言わんばかりのすらりとした体も。全部です。
 なのでルークは世に言う一目惚れをしてしまったのですが、そこは我儘三昧で育てられた王子様。意中の相手を口説き落とす台詞の一つも知りません。
 おかげでこんなにストレートかつ傲慢な物言いになってしまいました。
「お断りです」
 対する悪の譜術使いはにっこりと今までにないくらいに綺麗な笑顔を浮かべて、語尾にハートマークでもつきそうなくらいに甘ったるい声と口調でルークの誘いを断りました。
 けれどルークも食い下がります。何せ生まれて初めてびびっときた相手なのです。要するにルークにとっては生まれてから十七年目にしての初恋でもありました。どうしても手に入れたいと、今まで何不自由なく暮らしてきた王子様はこの男が自分のものになるはずだと信じて疑いません。
 一緒に来い。お断りですと何度目かの堂々巡りを繰り返した後、大げさな溜息を悪の譜術使いが吐き出しました。
「我儘な子供は趣味じゃないんです」
 容赦のない一言にルークはぐっと言葉を詰まらせます。
 それと同時にアッシュに家を追い出された時でさえ覚えなかった危機感を初めて覚えました。好きだと思った相手に頭から認めてもらえないことがこんなに苦しいということすら、ルークは今まで知らなかったのです。
「まあ、ですがわざわざこんな辺鄙なところにまでやって来たことは認めましょう」
 ですから、と今までよりも幾分か高いトーンで悪の譜術使いが話を続けます。
「百の善行を積みなさい。今まであなたに善くしてくれた人々にされてきたのと同じだけの行いを、人々にして報いなさい。そうしたらあなたの言葉が本物だと認めましょう。ルーク・フォン・ファブレ“様”?」
 自分の名前を言い当てられてルークは驚きました。一体この男はどこで自分の名前を知ったのでしょう。
 目を見開くルークに悪の譜術使いは微笑みかけて言いました。
「出来ないなら私は一向に構いませんよ」
 そのかわり二度とここには訪れないで下さいね。
 その宣告はあまりにも一方的で理不尽で、馬鹿にされているようにも感じられてむかむかとルークは腹が立ちました。そして彼に認めてもらう為の条件に、やってやると言い返しました。隣ではガイが呆れた顔をしていますが知ったことではありません。
 悪の譜術使いの言う百の善行を積んで、ぎゃふんと言わせ、彼を連れてバチカルに帰りアッシュに自慢話も出来る。一石二鳥どころの話ではありません。
 一人意気込むルークとは対照的に悪の譜術使いは涼しい顔のまま、そうと決まれば早く出て行きなさいとルークたちを追い立てます。どうやらこれ以上話をするつもりはないようです。
 ぴしゃんと閉まった塔の扉を前にしてガイが呆れたような顔をしましたがルークはどこ吹く風です。頭の中は既にあの男をぎゃふんと言わせることで一杯です。
「お前なあ……あんなこと安請け合いして良かったのか?」
「百の善行積むだけなんだからどうにかなるだろ。それよりもガイ、お前さっきから首ひねってどうしたんだ?」
 悪の譜術使いと対面してから、ガイが何かを考えている様子だったのはルークにも分かりました。
 だからこそ聞いてみたと言うのにガイは言葉を濁します。「いや……」と歯切れの悪い答えを返して、それ以降は何も言おうとはしません。
 ルークも最初は大人しく続きを待っていましたが、一向にガイが口を開く気配がないのを悟ると痺れを切らして歩き始めました。百の善行を積むために、こんなところでぐずぐずしている暇はないのです。
 だからルークは自分の後ろをついてくるガイが独り言を漏らしていることに気がつきませんでした。
「……あの男どこかで知ってる気がするんだけどな」

 それからルークとガイの善行を積むための旅が始まりました。
 とはいえ、意識して善行――善い行いをするというのはなかなか難しいもので、その上ルークは箱入りのお坊ちゃんでしたからできることなんて少ししかありません。結果、お年寄りの荷物運びであったり、或いは港街の倉庫の整理であったり、迷子の子供の親を捜したり、そんな些細な行いを積んでいくしかありませんでした。
 これがあの悪の譜術使いの言っていた「善行」の定義に当てはまるのかは分かりません。
 ですが、ルークがガイに手伝ってもらいながらもひとつ誰かの為になるような行いをするたびに人々の口から「ありがとう」と感謝の言葉を告げられるのは嬉しいものでした。
 親とはぐれて泣いていた子供が。大きな荷物を持って困っていた老人が。荷物の整理に困っていた港の水夫が。恋人からもらった大事な指輪をなくしたという女性が。魔物に襲われかけていた男性が。ルークが手を差し伸べたことによって、笑顔を取り戻して口々に「ありがとう」と言葉を残していきます。時にはお礼と称して金品や食料をもらうこともありましたが、そんなものよりもずっと素朴なその一言がルークの心を震わせました。
 それと同時に如何に今までの自分が恵まれた環境にいたのかも痛い程に理解しました。
 アッシュが言った世間に揉まれて自分を省みろの意味をルークはやっと分かったのです。そして悪の譜術使いが何を思ってルークにこのような条件をふっかけたのかも何となく想像が出来ました。
 如何に自分が恵まれて、その恵まれていることさえも理解せずにそれを当然だと享受するのは愚かなことであるのだと思いました。その恵まれた環境が何によってもたらされているのかルークは理解すべきだったのです。そしてそれを知らなかった今までの自分は無知で傲慢だったのだと、ルークはそれまでの自分を恥じました。
 そうして百の善行の半分ほど――おおよそ五十の善行を積んだ頃、ルークはガイに言いました。
「ガイ……今まで付き合ってくれて、こんな俺と一緒にいてくれてありがとう」
 自分から感謝の言葉を口にするのは照れくさくもくすぐったく、それでいてぽっと心に明かりが灯ったような温かさがありました。
「旅に出て、悪の譜術使いに会って今まで色々あったけど、俺すこし分かった気がする。どれだけ俺が無知で我儘だったのかってこと」
「ルーク……」
「だからさ、ガイ。俺、変わりたいんだ」
 そう言ってルークはそれまで長かった髪をばっさり短く切ってしまいました。
「格好から入るっていうか……ほら、短い髪を見たら俺が何を決意したのかいやでも思い出すだろ? だからこれは今までの無知な俺との決別の証っていうか……ちゃんと悪の譜術使いにも認めてほしいんだ」
 勿論そんなことで認めてもらえるかなんて分かりませんが、これはルークの決意の証でもあるので構わないのです。
「だからさ、ガイ。ちゃんと百の善行をやりとげて、あの人に認めてもらうから」
 もう少しだけ、一緒にいてくれないかと尋ねられ一も二もなくガイは頷きました。
 脳裏を過ぎる悪の譜術使いの正体に目を瞑りながら。
 もしもあの男の正体がガイの考えている通りのものであればきっとルークの初恋は無惨にも打ち砕かれるでしょう。悪の譜術使いを連れてキムラスカに戻ることはきっと叶いません。
 けれど、変わり始めたルークを前にそのきっかけの与えた男の正体という残酷な真実を突きつけることは、どうしてもガイには出来ませんでした。

 そうして残り半分の善行も為し遂げて、ルークとガイは改めてレムの塔にやってきました。
 塔の中から外の様子を見ていたのでしょうか。ルークたちがやってくるのとほぼ同時に扉が開き、中から悪の譜術使いが顔を覗かせます。
「ここにやってきたということは、百の善行を積んだのですか」
 それとも、出来ないと諦めにきたのですか。
 悪の譜術使いの意地悪な問いかけにルークはむっと顔をしかめますが、今ここにいる自分は彼の条件を果たしたのだから何ら恥じることはないのだと言い聞かせて口を開きます。
「あんたの言った百の善行はちゃんと為した」
「……おや。我儘な王子様では無理だと思ったのですが、これは意外ですね」
 悪の譜術使いの薄っぺらい笑みの形に細められていた瞳がほんの少し見開かれます。そんなにも自分の信用はなかったのだろうかとルークは腹を立てましたが、当時のことを思い出すとお世辞にもいい態度とは言いがたかったので、悪の譜術使いの反応も当然かもしれません。
 それに今日は百の善行を完遂したことを報告するだけが目的ではありません。あの時の自分と今の自分は違うのだということを目の前の男に分かってもらわなければならないのです。
「あんたに言われて……最初は渋々していたことだったけど、そのおかげで俺は自分がどんなに恵まれた場所にいて、でもそれを理解していなかったのかやっと分かった。自分が他の人に助けられて生きていることも、どんなにささやかなことでも差し伸べた手が相手の救いになるってことも」
 ルークの真剣な気持ちを察したのでしょう、悪の譜術使いは少しだけ驚いたような素振りを見せましたが、すぐに真面目な顔になってルークの話を聞いています。隣ではガイが胃の辺りを押さえてはらはらとした顔をしていますが、とりあえず横やりを入れるようなことはなさそうなので無視しました。
「それに気付かせてくれたあんたには感謝してる。だからこれは俺の我儘だけどあの百の善行の約束はなかったことにしてほしい」
 それを理由にあんたを手に入れたくないのだと告げたルークに、流石に悪の譜術師も驚きを隠せませんでした。
 だってこの子供が来るときは自分を諦めた時か、それとも言いつけ通りに百の善行を積んで、意気揚々とそれを宣言するだろうと思っていたのですから。自分の言った条件を果たし、その上でそれを破棄されるとは悪の譜術使いも思ってはいませんでした。
 ルークの急速な成長は悪の譜術使いにとって全くの想定外だったのです。
 けれど、自分のことだけで手一杯なルークは悪の譜術使いのそんな様子に気づきもしません。隣のガイがいよいよ倒れそうなくらいに顔色を悪くしていることも眼中にありません。
 彼の頭の中は今、どうやったら悪の譜術使いに認めてもらえるかでいっぱいです。
「だから、他の条件を出してくれ」
 必ず為し遂げて迎えに来るから、と真摯なルークの態度にうっかり悪の譜術使いも絆されそうになりますが、そう易々と絆されるほどこの男は甘くはありませんでした。
「そうですか……」
 ルークの言葉にそう返したきり、悪の譜術使いは黙り込んでしまいます。
 彼の言葉を待つ間の時間、ルークの心臓がどきどきと大きく鼓動を打っています。次に何を言われるのか想像もつきません。
 そして、ちょっと俯きがちに考えごとをしている悪の譜術使いは大変美しく、ぼうっとルークは彼に見とれていました。
 どれくらい経ったことでしょう。ふと悪の譜術使いが顔を上げました。
 キラリと眼鏡のレンズが光を反射して妖しくかがやきます。
「それなら、マルクト帝国の皇帝に会って皇帝に許可を取りなさい。私はマルクト帝国のものなので、彼がいいと言ったらわたしはあなたの言う通りにしましょう」
「!」
 そんなことは初耳です。
 ルークは驚きました。その隣ではガイが顔を真っ青にしていました。恐れていたことが起きたのです。
 ですがガイの心中など知らないルークは悪の譜術使いの言葉に一も二もなく頷きました。ここまできて後に退くなど考えるわけがありません。
「わかった」
 そう言ってルークは無邪気に悪の譜術使いの手を握りしめました。
「必ず迎えに来るから、待ってて」
 それだけ言うとぱっと悪の譜術使いから手を離し、ガイを連れてマルクト帝国へと向かいました。隣のガイが今にも倒れてしまいそうなことなどお構いなしでずんずんと進んでいきます。
 これからの未来を考えて、きらきらと輝かんばかりの顔をしたルークを前にガイは何も言えませんでした。
 悪の譜術使いが自身のことを「マルクト帝国のもの」と言った時、ガイはこの男の正体に気付いてしまいました。そしてそれは以前悪の譜術使いと会った時に予測した人物と同じだったのです。ガイの予想が当たっていれば、きっと皇帝陛下は絶対に「いい」とはいってくれません。
 それをあの悪の譜術使いも分かっているのです。だからきっとこのようなことを言ったのでしょう。
 ルークの初恋が無惨に打ち砕かれることはほぼ確定していました。後はどれだけ傷を浅くすむようにするかですが、残念ながら初めての恋に舞い上がっている子供はガイの言葉を聞き入れてくれそうにありません。
 そうこうしている内に二人は国境を越え、川を越え、幾つかの街を抜けてここを抜けたらすぐにマルクト皇帝のおわす首都がある森までやってきてしまいました。
 相変わらずガイは悪の譜術使いの正体をルークに言えないままでした。
 ルークはそもそも悪の譜術使いが何者かなんて考えたこともありません。
 あまりにも世間知らずだった為にルークは基本的に人を疑ってかかるということを知りませんでした。
 あの悪の譜術使いという姿がかりそめのものかもしれないなんて、思ってもみなかったのです。
 二人は森を抜けてマルクト帝国の首都――グランコクマに辿り着きました。ですがここで問題発生です。ルークたちは皇帝陛下に会う為のつてを持ってはいませんでした。
 本来ルークの立場であればアポイントメントを取ることはそう難しくはありませんが、何せ今はプチ勘当中のようなものなので実家の権力はアテには出来ません。そもそも一人の男の求婚の為に皇帝陛下にお会いするなど、アッシュの耳に届いたら間違いなく罵詈雑言の山が待ち受けています。
 要するにここからは自力でどうにかして皇帝陛下に謁見しなければなりませんでした。
 さてどうすればいいのかと二人で頭をひねっていると、見知らぬ男が声をかけてきました。
「もしやあなた方はルーク・フォン・ファブレ様とそのお付きの方でしょうか」
「あ、ああ」
 ルークたちはキムラスカの人間ですからマルクトに知りあいなどいるわけもありません。戸惑いながらも頷くと、見知らぬ男は自らをマルクト帝国軍に所属する少将だと名乗りました。
「実は、とある人物から頼まれてあなた方を皇帝陛下の下へお連れするようにいわれているのです」
 渡りに船とはまさにこのことでしょう。男の名乗ったフリングス将軍という名前はマルクト帝国に入ってからこのグランコクマにやってくるまで何度となく聞いたことのあるものでした。
 かの皇帝には懐刀と呼ばれている幼馴染みの軍人がいて、彼に及ばないもののこのフリングス少将も皇帝陛下からとても信頼されているという話です。
 どうしてそのような人が自分たちを迎えに来たのかは分かりませんが、他に皇帝陛下に会えそうな方法もないのでルークとガイは大人しくフリングス少将の後をついて行き、やがて宮殿にやってきました。
「こちらになります」
 大きなお城に招かれ、謁見の間まで連れてこられていよいよルークもどきどきしてきました。
 ここにいるはずの皇帝にあの悪の譜術使いをくださいと頼めばいい話です。駄目だと言われても諦めず、必ず幸せにしますと言おうとかたく心に誓います。
 フリングス少将が開けてくれた扉から一歩、謁見の間に入り――そしてルークは驚きに硬直してしまいました。
 どういうことでしょう。
 謁見の間で玉座に座ってルークたちを待っていた皇帝陛下のすぐ隣に、あの悪の譜術使いがいるのです!
 三つ編みだった髪は解かれそのまま背中に流し、赤いマントと黒い服はグランコクマからすぐに臨める海にも似た真っ青な軍服にすり替わっています。けれど眼鏡の向こうの赤い瞳と、胡散臭い作り笑いはやっぱりどう見ても悪の譜術使いそのものでした。
 呆然と立ち尽くすルークの隣ではガイが頭を抱えています。
 そしてそんな二人をよそに、実に人の悪い笑顔を浮かべて皇帝陛下が口を開きました。
「よう、お前俺のジェイドに『俺のものになれ』って言ったそうだな」
「……おれの、ジェイド」
 皇帝陛下が何を言ったのか分かりません。ただ皇帝陛下の言葉に、隣に立っている悪の譜術使い(らしき人物)がくすりと笑ったので、きっと彼の名前がジェイドなのでしょう。
 あまりにも衝撃的なことが多すぎて、動くことが出来ないルークの横でガイが大きな溜息を吐きます。
「マルクト帝国で赤い瞳を持つ人間は皇帝の懐刀ただ一人だろう」
「ええ、そうですね」
「それで、その懐刀がなんであんな辺鄙なところにいるんだ」
 すっかり全部分かっているようなガイの態度にルークは戸惑います。だって自分はまだことの半分も理解できていません。どうして悪の譜術使いが皇帝陛下の懐刀なのかも、どうしてガイがそれを当然のように理解しているのかもさっぱりです。
 困惑した顔のままガイと、皇帝陛下とジェイドと呼ばれた軍人をそれぞれ見比べていると、ジェイドが軽く肩を竦めて、そこの物わかりの悪い王子様の為に説明しましょうと全ての事情を話してくれました。
 とはいってもジェイドの話はとっても簡単なもので、人の寄りつかない孤島であるレムの塔はジェイドにとっては丁度いい実験場で研究の為にあそこに通っていること、悪の譜術使いはどうやらジェイドが頻繁にレムの塔に出入りしているのを見かけた近隣の住人や旅人たちが「あんな場所に出入りしているのだから」と噂になったのがきっかけのようです。逐一訂正するのも面倒なので噂はそのまま放置しています、と何食わぬ顔で答えるジェイドは繊細そうな見た目と違ってなかなか大雑把なところがあるみたいです。
「と、まあそんなところでしょうか。本業はしがない軍人ですよ」
「それじゃあなんであの格好……」
「ああ、あれは陛下が悪ふざけで寄越してきたものなので」
 着られないこともないし人に会うわけでもないから着潰そうかと思って、と何ともずぼらな答えが返されてルークは脱力します。
 そういえば、レムの塔の近くで悪の譜術使いの噂を聞いたことはありましたが、その悪の譜術使いが何か悪さをしたという話は聞いたことがなかったことをふと思い出します。ついでに、彼がどうしてルークの名前を知っていたかも分かった気がしました。
 皇帝陛下に近しい軍人であれば隣国の王族が持つ王位継承権の証である赤い髪と緑の瞳のことくらい知っていて当然でしょう。
「それで、どうします? 陛下におねだりでもしますか」
 その一言でここまでやって来た目的をルークも思い出しました。かなり話が脱線してしまいましたが、これからが本題です。
「あの、皇帝陛下」
「ん? 何だ?」
「ジェイドのこと俺のお嫁さんに下さい!!」
 びしりと空気が凍りました。謁見の間に漂う空気は外の滝さえ凍り付きかねない冷ややかさです。
 その中で最初に我に返ったのは皇帝陛下で、ルークのお願いにひとしきり盛大に笑った後「それは駄目だ」とばっさり切り捨てました。この容赦のなさ、流石ジェイドの主君なだけあります。
「こいつは性格は悪いし嫌味だし、陰険眼鏡も甚だしいが、実力は本物だ。うちの大事な懐刀をおいそれとよそにくれてやることはできん」
「そんな……」
 言われてみればもっともなことです。
 ジェイドがただの悪の譜術使いではなくマルクト帝国の軍人だというのであれば、しかもそれが皇帝陛下の懐刀と呼ばれるくらいに信頼の篤い人物であるのなら、皇帝陛下がルークに彼を与えるわけがありません。きっとジェイドもそのことを最初から知っていたのでしょう。
 要するに、ルークは振られる為にここまできたようなものでした。
 残酷な真相にぶち当たったルークはすっかりしょげかえります。せめてジェイドが何か言ってくれないものかと彼の顔をちらりと見上げますが、皇帝陛下の横に立っているジェイドはただ微笑むばかりで何も言ってはくれません。
 これは駄目かもしれないとルークも諦めかけたとき、だが、と皇帝陛下が言葉を続けました。
「ここまできたからにはジェイドのことが好きだというのも本当なんだろう」
「はい」
「なら好きに会いにくる分には一向に構わん。幼馴染みの俺から見ても性格が悪くて扱いづらい男だが、よろしく頼むぞ」
「!! は、はい! ありがとうございます!!」
 皇帝陛下の粋な計らいに思わず前のめりになって頷きます。
 嬉しさを隠せずジェイドの方を見上げれば、ジェイドもルークを見つめてにっこりと笑ってくれました。
 それは今までに見た胡散臭い作り笑いではなく、心からのもののように見えました。

 それからというもの、悪の譜術使いあらため皇帝陛下の懐刀のところに遊びにくるキムラスカのお坊ちゃんの姿がよく見かけられるようになり、やがて二人は一緒に暮らすようになったとか。

めでたしめでたし。