何気ない一日

 たまには休みでもとったらどうだ。そう言ったのはピオニーだった。
「はやる気持ちも分かるが、時には一呼吸置いて考えることも大事だろう」
 息つく間もなくオールドラント中を駆け巡り、ヴァンとの対決を眼前に控えた今、自分の中の焦りを指摘されたような気がしてぐっと言葉が詰まった。そんな暇はないと言えれば良かったのに、ルークよりも早く口を開いたジェイドがピオニーの意見を受け入れる。
「そうですね、このあたりで一度休息を入れましょう」
 ノエルも疲れているでしょうから、ここならアルビオールも安心して預けられます。
 そう告げられてはっとした。
 アルビオールの操縦ができるのはノエルだけであり、他に代わりがいない為に長時間のフライトも全てノエル頼みになっているのだから、その負担ははかりしれない。
 その上、アルビオールはこの世に二つしかない稀少な乗り物だ。船よりも速く空を飛び、山も谷も森も砂漠も越えて目的の場所へと辿り着ける。そんなキムラスカの技術の結晶とも言えるその乗り物を安心して預けられる場所は限られていて、そのような場所でなければノエルも心から休息などとることはできないだろう。
 戦うことこそないにせよ、ノエルはアルビオールの操縦士である以上にルークたちにとって大事な旅の仲間である。
 これからが正念場だというのならば、その前に彼女の為の休息をとることだって必要だ。そう理解してしまえば当然不満なんてあるわけもなくルークもピオニーの提案に賛同する。
 そうしてあっという間に話はまとまり、今日は丸一日自由行動ということになった。
 ティアたちは折角だからとノエルを誘ってグランコクマで話題だというスイーツビュッフェに繰り出し、ガイはノエルにアルビオールの整備を買って出ていた。端から見れば休みになっていないのではないかと思われかねないが、ルークはちゃんと知っている。あれは完全に趣味と実益を兼ねたものだ。
 この旅が終わったら、シェリダンで整備士になるのも悪くないな、なんてことまで言っていたのだから。
 残るはジェイドだが、そのジェイドは仕事があるのでとさっさと軍の執務室に籠もってしまった。折角の休みなのにと呆れたようにぼやくガイに、私は有能なので仕事の方から寄ってくるんですと返したジェイドの凄みを帯びた笑顔が忘れられない。うわべだけではこの上なく綺麗に笑っているのに、その顔には仕事をしないどこかの皇帝の所為だと大きく書かれているように見えた。
 そうして結局ルークは手持ち無沙汰だ。普段は一緒にいるミュウも、今日ばかりはティアに抱えあげられて一緒につれていかれてしまっているので正真正銘の一人だった。女ばかりの中に男一人混ざって甘い物をつつくなんて恥ずかしくてできず、かといってガイの手伝いをしようにもルークでは大したことができないのは過去に経験済みである。一人で街をぶらつこうかとも考えたものの、そんな気分でもなく、かといって宿に閉じこもるにはグランコクマは明るすぎた。
 この街は美しく、のどかで、陽気で、だからどこか落ち着かない。
 この街におわす皇帝陛下そのものみたいだとも思う。ピオニー陛下は悪い人ではない。よく民のことを考え、元は敵国の、それも自国のアクゼリュスを崩落させたはずのルークたちにも分け隔てなく接するような気安さもある。そのくせ不思議な風格と威厳とそれから恐ろしく冷徹なまでの判断力を持ち合わせていて、ああこの人は確かに王なのだと人の上に立つにふさわしい人間なのだと顔を合わせるたびに思い知らされる。
 だからルークは彼が少しだけ苦手だった。ピオニーを前にすると自分の未熟さや愚かさ、卑小さを痛感する。小さくなって、そのまま消えてしまいたくなるような卑屈にも似た劣等感を覚える。ピオニーに非があるわけじゃない、むしろ非があるとしたらそれは自分の方だ。自分が勝手にそんな風に感じて、勝手に居心地の悪さを覚えている。ピオニーが悪い訳じゃない。それを理解しているからこそ、余計にいたたまれなくなる。
 この街はこの街を治める皇帝に似ている。だから一人ではいたくない。

「それで私のところに来たんですか」
 聞こえた声はケテルブルクの雪のように冷ややかで、ルークは思わず首を竦めた。
「邪魔はしないから……」
 小さな声で言い訳のようにそう告げれば、当然です、とぴしゃりと返されまた縮こまる。
 けれどジェイドはそんなルークに一瞥もくれず、赤い瞳は机の上に山積みにされた書類ばかりに向いている。素っ気ない会話の間もペンを走らせるジェイドの右手は休まることなく動き続け、一枚書類を書き終えたと思えばすぐさま新しいものに取りかかっていた。彼がペンを手放すのは、時折必要になるらしい調印の時くらいなものだ。
 ジェイドが口を閉じればおのずとルークも黙るより他なく、けれどもこの部屋の主から未だ裁可をもらっていない身ともなれば客人顔で振る舞うのも気が引ける。
 生憎とルークはこの部屋で客人顔どころか我が物顔で振る舞うどこぞの皇帝ほど図太くはなれていない。否や軍部も引いては国のものであるのだからそれはこの国を治める皇帝のものであり、故にジェイドの執務室もある意味において皇帝のものということでいいのだろうか。
 半ば現実逃避気味に益体もないことをつらつら考えていると、大げさな溜息が聞こえた。
「うるさくしなければ構いませんよ」
 生憎忙しい身なのであなたの相手はできませんが。ちくりと突き刺さる嫌味はこの際無視し、部屋の主からやっと許可が下りたことに安堵しながらルークはちんまりと部屋のソファに腰を下ろす。
 大佐――仮にも師団長という階級にあるからなのか、それとも皇帝の懐刀であるが故の特別扱いだからなのか、ジェイドの執務室はそれなりに広く、簡易ではあるが応接用の机とソファも用意されている。それが丁度ジェイドの執務机の真正面にあるものだから、ソファに座れば当然正面には黙々と仕事をこなすジェイドの姿が見えた。
 相変わらずジェイドは顔を上げることはなく、故にルークの方へと視線を投げることもなく、黙々と書類の山を捌いている。
 旅の間に伸びたのか、柔らかな亜麻色の髪が鬱陶しいようで手袋をはめていない白い指先が髪を掻き上げる。けれどその長い髪は重力に従ってすぐにまた下りてはジェイドの邪魔をしている。
 譜眼制御用の眼鏡の、透明な硝子の向こう側で赤い瞳が微かに揺れるのはきっと文字を追っているのだろう。難しい案件なのか、それとも溜まりに溜まった書類が不本意なのか、形の良い眉と眉の間には二本、薄く皺ができていた。口元はかたく引き結ばれている。普段は吊り上げたように上向きの口角が、書類を前にした時にはむっつりと下がり気味なのは意外な発見だった。
 元の造形が良すぎる為に、ジェイドが少し気難しそうな不機嫌そうな顔をするだけで途端に近寄りがたい雰囲気が生まれる。それほど目の前にある仕事に対して真剣なのだということだろうが、普段とは違った様子に少しだけ心臓が跳ねた。
 嬉しいな、と思う。こうしてジェイドのことを新しく知ることが。ささやかな発見ができるほどの近さに自分がいるということが。何よりも、ジェイドがそれを許してくれるということが。
 靴を脱ぎ捨て、ソファの上で膝を立てる。ジェイドが見れば行儀が悪いと眉をひそめるかもしれないが、残念ながら赤い瞳は白い紙ばかりを見つめていて、こちらのことなんて欠片も見てはくれない。立てた膝に顎をのせ、背中を丸めてジェイドを見つめる。
 ルークのことなんてまるで意識の隅にもおいていないような様子でかりかりとペンを走らせるジェイドはまるで機械のようにも見えた。血が通っているのか不思議なほどに白い肌と、作り物めいた赤い瞳が余計に無機物のような錯覚を与えるのかもしれない。
 執務室の中はすごしやすい温度に保たれていて、ついでに窓からは暖かな日の光が降り注いでいる。マルクトの領土の大半はキムラスカよりも北に位置し、首都グランコクマはシルバーナ大陸のケテルブルクに次いで北にある。
 シルフリデーカンともなれば街を吹き抜ける海風も冷たくあったが、風を通さない建物の中はどこもかしこも暖かくて居心地が良かった。
 規則正しいペンの音と、壁に掛けられた時計の機械音。譜術を使った大瀑布の壮大な水音も、ここまで来てしまうとどこか潮騒めいて聞こえる。柔らかな音と、暖かな陽射しに包まれてルークはひとつあくびをした。とたん、体はバランスを崩してソファの肘掛けへと倒れるが起き上がるのも面倒でそのままもたれてしまう。
 相手をしてもらえる訳ではないと分かってはいるものの、折角ジェイドと一緒にいるのにと勿体ない気持ちとは裏腹に体の奥からとろとろとした眠気が湧き上がり、段々とルークの瞼は重たく閉じていく。
「おや、眠ってしまうのですか」
 だから、寝入りばなに聞こえた声が本物かどうか、ルークには分からなかった。
 そうしてどれくらい眠っていたのか分からない。うたた寝のつもりであったが夢は見なかった。ただ、目が覚めた時ここがどこだか分からずにほんの一瞬、頭が混乱した。壁を覆い尽くす本棚とそこにぎっちりと詰め込まれた本を背景にして誰かが机の前に座っている。
 それが誰か、一瞬分からなかった。寝ぼけた頭のままひとつまばたきをして目の前の人物を認識する。日に透けて金に輝く亜麻色の髪、銀のフレームの眼鏡の向こうには宝石よりもなお赤い瞳がふたつ。ルークが目覚めたことにも気付かない様子で黙々と仕事をこなしているのは、紛れもなくジェイドだった。
 それを認識して、ようやくここがジェイドの執務室であることを思い出す。どうして自分がここにいるのかも。
 のそのそと起き上がれば、肌の上を滑って何かが落ちた。ぱさりと軽い音を立てたそれを探して視線を落とせば床には薄手の毛布が転がっている。どうやらルークが眠ってしまったことに気がついたジェイドがかけてくれたらしい。それを拾い上げてくるまれば、微かにジェイドの香水の匂いがした。
「……ジェ、イド」
 寝起きだからか喉が渇いて声が掠れる。それと同時にぐぎゅるると盛大に腹の虫が鳴いた。
「起きたんですね」
 昼食の時間は過ぎていますが。
 ルークに名前を呼ばれたからか、それともルークの腹の虫の鳴き声で気がついたのか。顔を上げることもなく尋ねてくるジェイドに今起きたところだと言葉を返す。
 時計を見れば一時半を回っていて、確かに昼食時には少し遅い。それにしても起き抜け早々盛大に腹の虫が鳴るなんてみっともないと一人で顔を赤くしていれば、やはり顔を上げることはないままのジェイドがなにやらごそごそ引き出しを漁りながら口を開く。
 ルーク。
 名前を呼ばれてジェイドのいる机に近寄れば、手のひらに収まるサイズの紙切れを渡された。その表には『マルクト陸軍・軍基地内食堂優待券』と素っ気なく書かれている。
「お腹が空いているなら食事でもとったらどうですか」
 軍部の食堂ならそれがあればただで食べられますよ。
「……いいのか?」
「ええ、どうせ余っていますから」
 陸軍に所属している人間は皆何枚かもらっていますが、どうせグランコクマに留まっていることの方が少ないので無駄になるよりはあなたが使ってくれた方がありがたい。
 ちっともありがたそうではない口ぶりではあるが、一応ジェイドなりに気を遣ってくれたのだろう。もらった優待券を大事に握りしめながら、期待を込めてジェイドも行こうと誘えばお断りですと素っ気なく断られた。
「仕事を終えたら食事をとります」
「後どれくらいで終わるんだ?」
「まだしばらくはかかりますが、四時前には終わらせます」
 そう言われて机の上を見れば、書類の山はルークが見た時より大分減って今では丘になっている。それでもやはり多いことには変わらないけれど、ジェイドの言うように夕方頃には終わる目処は立っているのだろう。
 邪魔をしないからと最初に告げた自分の言葉と、うるさくしなければ構わないと答えたジェイドの言葉を思い出し、それ以上誘うのは諦めてちょっと行ってくると踵を返したルークをジェイドは呼び止め、真っ白いメモに食堂までの行き方を書いて教えてくれる。
「行ってくる」
「ええ、行ってらっしゃい」
 今までろくに顔も上げてはくれなかったのに、ルークが部屋を出る間際にジェイドは微かに目元を緩めて見送った。
 ぬくまった部屋から暖房のついていない廊下に出ると温度差に小さく身震いをする。メモを頼りに食堂に向かえば、一番賑やかだろう昼時を過ぎている為か数名の兵士がいる以外は利用者はおらず思いの外食堂は静かだった。
 街にあるような普通の大衆食堂なら旅の間に何度か使ったことがあるが、軍内部の食堂は利用するのは初めてだ。優待券で何ができるのかも分からずとりあえず注文の為に配膳台の前で使い方を尋ねれば注文をとってレジに行けばいいと言われ、壁に貼られたメニュー表からエビカレーを注文する。
 けれど、優待券は使えなかった。
 使用期限が切れていたのだ。
 これにはジェイドも気付かなかったのだろう。少しだけ恥ずかしい思いをしたが、手持ちのお金で何とかなった。手ぶらでこなくて良かったと心から思いながら、使われなかった優待券を返してもらう。カレーが出てくるのを待って、出てきたカレーを受け取って適当な席に座る。
 グランコクマは海に面しているだけあって質の良い海産物がとれる。これでも多少はましになったものの、ルークが旅で作るカレーよりも遙かにエビカレーは美味しかったが、だだ広く人の少ない食堂で一人食事をとっていると自分は一体何をしているのだろうという気分にさせられる。有り体に言えば味気ないにもほどがある。ティアやナタリアやアニスやノエルが女子会と称して楽しく賑やかにスイーツをつついていたりするのだろうと思えば尚更だ。
 ガイはきっと適当に買ってきた弁当やらをつまんでいるのだろうが、彼は譜業があれば概ね満足するのでこの際別だと考える。多分今一番さもしい状況なのは食事すらとっていないだろうジェイドで、流石に可哀想だと思ってルークは追加でサンドイッチを注文した。
 食堂ではなく別の場所で食べたいのだけれどと、無理を承知で頼んでみればどうせ人もいないからと存外気安く了承された。聞けば昼間は少量だが弁当の類いも販売しているらしい。
 使い捨ての容器にサンドイッチを詰めてもらい、急いで執務室へと戻る。
「おかえりなさい」
 行きと同様、僅かに顔を上げたジェイドが目を細めて笑みの形を作る。むっつりと下がっていた口角も今はいつもと同じく上向きだ。
 ただいま、と一言返してから改めて名前を呼ぶ。ジェイド。
 一歩、二歩。少し大股でジェイドの机の前まで詰め寄って、食堂で用意してもらったサンドイッチを差し出した。中身はサーモンとクリームチーズ、それからレタス。ジェイドの好きなサーモンサンドだ。
「ジェイドの昼飯。……食べた方がいいだろ」
「……」
 赤い瞳がじっと目の前のサンドイッチを見つめている。
 ここにきてようやく、これはいらぬお節介だったのではないのかということに思い至ってルークは内心冷や汗をかいた。
 ルークが眠っている間も仕事を続けていたのならばジェイドは疲れてはいないだろうかとか、食事もとらずにいるのはよくないのではないかだとか――あわよくば休憩と称して少しくらいは話がしたい、なんていう下心もありはしたが概ねは純粋な厚意からの行動もジェイドにとっては迷惑だったかもしれない。
 こうして後先考えないから駄目なのだと頭の中で、考え足らずの自分を叱咤する。ジェイドに呆れられたらどうしよう。邪魔はしないという約束だったのに、これでは邪魔をしてしまったことになるかもしれない。決して悪気はなかったのだと言ったところで聞き入れてもらえるのかどうか。ぐるぐると頭の中を渦巻く思考はどんどん悪い方向へと転がっていく。それを断ち切ったのは他ならぬジェイドの声だった。
「そうですね、このあたりで休憩にしましょう」
 そう言ってジェイドはルークからサンドイッチを受け取り、給湯室で湯を分けてもらってきたかと思えばティーバッグではありながらも紅茶を淹れ、そのまま休憩へと突入してしまった。
「いくらでしたか」
 サンドイッチを咀嚼しながら尋ねるジェイドに、へ、と間の抜けた声を上げてしまう。
「サンドイッチ、買ってきてもらったでしょう。いくらでしたか」
 払いますと重ねて言われ、構わないと首を振る。実際大した金額ではないしルークがしたくてしたことだ。それよりもジェイドがちゃんと食べてくれる方が嬉しいと答えれば、些か不満げではありながらもそれ以上ジェイドは何も言わずに大人しくサンドイッチを食べていた。
 とはいえジェイドも軍人なので食事のペースはそこそこ速い。後に仕事が溜まっているのならば尚更かもしれない。十分足らずでサンドイッチを平らげ、紅茶で喉を潤したジェイドは部屋に備え付けられたゴミ箱に容器を捨ててさっさとまた仕事へと戻ってしまった。
 再び手持ち無沙汰となったルークが所在もなくぼんやりとジェイドを眺め始めておおよそ十分後、机に囓りつくように書類を捌いていたジェイドが何か思いだしたようにふと顔を上げる。
「仕事が終わったらデートしましょう」
「ぅえ?!」
「おや、私とのデートは嫌ですか」
「いや……そうじゃなくて、なんで」
「さっきサンドイッチを奢ってもらったので、そのお礼です」
「……分かった」
 そんな風に言われてしまえばルークが断れるはずがない。
 小さく頷けば微かにジェイドは口元だけを笑みの形にして、四時には仕事を終わらせますと告げた。

 そうしてかねての宣言通り、ジェイドは四時十五分前に書類を捌き終え、残りの十五分で溜まった書類の全てを軍の上層部やら何やらに提出し、きっかり四時に執務室を出た。陛下に出すような書類はなかったのかと不思議に思って尋ねれば、自分は所詮大佐なので本来は面倒臭い手続きを通して陛下の下に書類が渡るのだと教えてくれた。
 直接やりとりするような重要な書類が混ざっていたのならば、あなたのような部外者は部屋に立ち入れさせないとも。
 ひんやりとした拒絶の言葉はどこまでもまっとうで、だからルークは何も言えなくなる。ジェイドはマルクトの軍人で、国の為に働いていて、キムラスカの人間であるルークには――そうでなくとも本来ならばマルクトの軍部とは何ら関係ない人間の目には触れさせたくないものもあるのだろう。
 それに不満を覚えるほど我が儘ではないつもりでいるのに、それでも部外者とはっきりと口に出されると傷ついたような気持ちになるのは何故だろう。ジェイドの言っていることは正しくて、結局ルークは部外者だ。この旅が終わればおいそれとジェイドと話すこともなくなる。だから傷つくまでもなくそれは正しいと受け入れるべきなのに、どうしてかそれが上手くできない。
 沈黙が部屋に落ちる。空気が重たく澱んで濁っていくのが分かる。何か言わなければと思うのに、何を言えばいいのかも分からない。焦れば焦る程思考は白んで空回りばかりする。
そうしている内に小さな小さな溜息が聞こえた。
「……部外者という言葉が気に入りませんでしたか」
「そういうわけじゃ……」
「ルークがマルクトに亡命でもしたら、部外者じゃなくなりますよ」
 ガイなら喜んで後見人になるでしょうし、なんだったら私が面倒を見てあげましょうか。明るく言い放つにしてはあまりにも不謹慎極まりない言い草に思わず苦笑する。乾いた笑いしか出てこない、ブラックジョークにしたってほどがある。
「無茶言うなよ」
「おや、本気だったのですが……振られちゃいましたね」
 どこか芝居がかった調子で肩を竦めるジェイドに、お前の冗談は冗談に聞こえないと言いながら軽く小突く。当然ながらジェイドはびくともしない。ただそのかわりもう一度、本気だったのですが、と呟いた。その言葉が嘘ではないと言うように、赤い瞳は至極真面目な光を宿してルークを見つめていて、だからルークは首を横に振った。
「いい加減にしろって。ほら、デートに行くんだろ?」
 無理矢理会話を終わらせて、別の話題にスライドさせる。ジェイドが何かを言うよりも先に手を引いて、部屋から連れ出した。後ろで扉の閉まる音がする。コツコツとジェイドの履いているブーツの踵が硬質な床を叩く音が聞こえた。振り返るようなことはしない。そのかわり少しだけ、ジェイドの手を掴む手のひらに力を込める。
ジェイドの手を引きながら、もう一方の手で施設の中と外を繋ぐドアのノブをとってゆっくりと回す。
 ドアを開けた途端にごうごうと聞こえるのは水の音だ。
 白亜の街が夕暮れに赤く染まる。空も街も、街を流れる水も皆赤い。見上げた空の端はもう既に暗く、これから夜がやってくるにはそう遠くないことを予感させた。晩秋の、寂しさを含んだ風が広場を吹き抜けていく。その風に、ほのかに甘い香りが混ざった。
 風が吹く。隣に並んだジェイドの髪がふわりと揺れて、また微かに甘い香りがした。眩しさに細められた夕日色の瞳が、柔らかくルークを見下ろしている。
「夕食には少し早いですね……。少々街を見て歩きませんか」
 時刻は四時を回ったとこで、ジェイドの言うように夕食を食べるにはまだ早い。
そうだなと頷けば、それではとジェイドが歩き出し、ルークは大人しくそれについていく。ジェイドは間を保たせる為にか、道すがらグランコクマの街並みについて教えてくれた。
 この街が、マルクト帝国に暮らす若者にとってケテルブルクと並んで憧れの場所であるということ。街一帯を流れる水をどのような原理を使って制御しているのか。水道橋の由来。噴水にまつわるコインを投げ込むと願いが叶うという伝説。グランコクマが要塞都市である所以と、その歴史。時折足を止めながらも当てもなく歩き回って、ジェイドの言葉に耳を傾ける。
 空はもう赤みよりもくらい闇色の方が強く、そここに灯った音素灯が白亜の街を照らし、街に張り巡らせた水路を走る水面がきらりきらりとその光を反射して輝く。
 止めどない水音と穏やかな低い声、相手の姿を覆い隠す夕闇が心地よくあったが、ジェイドの説明はまるで観光用のパンフレットでもそらんじているかのようだった。これではデートではなく観光案内のガイドの方がよっぽどしっくりくるのではないか。そこまで考えて、そういえばこの街をこうして観光したことは今までなかったことに気がついた。
 何かと立ち寄ることが多い場所ではあるけれども、そのような時は大体王宮、ピオニー陛下に用事があることが大半で、更に言うのであればそんな状況の時は大概事態が差し迫っていることが多かったから、のんびり観光をしゃれ込むなんてこともできはしなかった。そんな余裕なんてずっとなかった。
「……なんか、こうしてグランコクマを見て回るのって初めてかも」
「そうですね。なかなか一つの街に腰を落ち着けることもできませんし」
 今は文字通り、世界中を駆け回っていますからね。
 薄闇の向こうで微かに笑う気配がする。
 広場を吹き抜ける風の冷たさに小さく身震いしながらルークも笑った。
「ジェイドはこの街のこと、詳しいんだな」
「ええ、ここで暮らして長いですからね」
 その言葉に、ひやりと冷たいものが心臓を撫でる。
 何を言えばいいのか咄嗟に思いつかなくて、小さくを息を呑む。ひゅ、と喉が掠れた音を立て、肺腑に冷たく湿った空気が入り込む。その冷たさが血管を通って、体の末端にまで広がっていくような錯覚を覚えた。
 譜術で織り上げられた美しい水上都市、堅牢な要塞都市。マルクト皇帝のおわす街、皇帝陛下のお膝元。ジェイドがいるところ。彼が仕えるべき皇帝によく似た街。ルークにとっては居心地の悪い街。
 それはきっと寂しさだ。ルークがこの街に、ひいてはこの国の皇帝に対して感じる劣等感をジェイドはきっと感じない。彼にとってここは帰るべき場所であるけれど、この街にとってルークは部外者でしかなく、互いの立ち位置の齟齬に覚えるものは寂しさだ。
「……ジェイドはこの街、好きなのか?」
「さあ」
「さあって、何だよそれ」
「好きとか嫌いとか考えたこともありませんでした。暮らす分には不自由のない街だと思いますが」
 陛下のいるところが、私の帰る場所ですから、私の好き嫌いは必要ありません。
 ごく当然のように告げられた言葉に心臓が竦む。唇を噛みしめて俯けば、石畳の上に薄い影ができていた。泣いたりなんていうことはしないけれども、二人の絆を見せつけられてはどんな顔をしてジェイドを見ればいいのかも分からない。
 ずるい、も、うらやましい、もジェイドに言うには不適切な気がして、口を噤む以外にできることは何もない。
 そうやって俯いていると、水音に紛れてこつりと石畳を硬いものが叩く音が聞こえた。まばたきの後に、俯いた視界に青いブーツのつま先が見える。
「日が落ちると急に寒くなりますね」
 ジェイドの指が伸ばされて頬に触れる。軍服と揃いのグローブ越しでは体温なんて殆ど分からないけれど、確かに温かいような気がして、その温もりにつられるようにルークは顔を上げた。途端、ジェイドの赤い瞳と視線がかち合う。
 もう夜と言って差し支えのない闇の中、微かな光を吸い込んで赤い瞳が一際輝く。まるで譜術を発動させる直前のように、鮮やかに赤い輝きがルークを見留めて、ふとその目元を和らげた。
「温かいものでも食べましょう。良い店を知っているんです」
 言葉と同時にジェイドの手が頬を撫でて滑り落ちていく。ルークの腕を辿って指先へ。微かに触れる温度のないそれはまるでルークに触れるのを躊躇っているようでもあった。その手を取って握りしめれば微かにジェイドの体が震える。まるで何かにおびえるみたいに。
 赤い瞳がひとつまばたく。行きましょうか、と聞こえた囁きにルークはこくりと頷いた。
 ジェイドにつれて行かれたのは大通りから一本外れて、更に路地の奥にある小さなレストランだった。カウンターが四席、テーブル席も同じく四席。まだ早い時間だからか、ルークたちの他にはテーブル席に一組しか先客はいなかった。残った三席からテーブル席を一つ陣取って、ジェイドがメニューを広げる。
「食べたいものはありますか?」
「あ……いや、何でもいいや」
「そういわれるのが一番困るのですが。まあ適当に頼みましょうか」
 気になるものがあったら追加で注文しましょう。そう言ってジェイドがウェイターを呼んだ。
 蒸し鶏のサラダに小エビのフリッター、ホウレンソウとベーコンのキッシュ、タンシチューと付け合わせの白パン。澱みなく読み上げられるメニューの大半がルークの好きなもので、最後にミネラルウォーターをボトルで頼み、ジェイドがメニューを片付ける。まだ飲酒が許される年ではないルークはもちろんのこと、同行者に未成年が混ざっている時、ジェイドは必ずと言っていいほど酒を飲まない。別にその程度気にするほどでもないと思うのだけれども、ジェイド自身さほど酒を好むわけでもないから構わないのだという。
「グランコクマにこんな店があるなんて知らなかった」
 ウェイターが厨房に戻ったのを見届けてから口を開けば、そうでしょうねと相づちを返される。この店は観光客向けではありませんから、殆ど地元の人間しかこないんです。おかげで静かに食事ができます。
「私のお気に入りの店です」
「……そうなんだ」
「ええ。だから、ここにつれて来たのはあなたが初めてですよ」
 そう告げるジェイドがいつになく優しい声をしているように聞こえるのははたしてルークの自惚れだろうか。自惚れでなければいいと思う。ジェイドに特別に扱ってもらえるというささやかな優越感。
 ついにやけそうになる口元を誤魔化す為に、ミネラルウォーターの入ったグラスを手に取って一口、喉を潤した。程よく冷やされた水が、するりと喉を滑り落ちていく。
 それとほぼ同時にウェイターがサラダを持ってきた。
 トマトにレタス、ブロッコリー、それからゆで卵と分厚く着られた蒸し鶏がぽってりとした白い皿の上に盛られている。かかっているのは何なのかと尋ねれば、この店特製のオニオンドレッシングだとウェイターが教えてくれた。
 赤緑黄色がバランス良く盛られたサラダは見た目にも鮮やかで美味しそうだ。それをジェイドが取り分けていく。レタスもブロッコリーもトマトも卵も鶏肉も、全部綺麗に見栄え良く皿に載せていき、ルークに差し出されたそれはまるでメニューの見本のようだった。
 夕食にはまだ少し早い時間、その上昼食も遅かったので空腹なんて大して感じてはいないつもりだったのに、ジェイドによって綺麗に取り分けられたサラダを見た途端に現金にもぐぅと腹の虫が鳴いた。
 どうやらその音はジェイドの耳にも届いてしまったようで、くすりと一つ微笑んだ後、さあ食べましょうかと促された。
「……いただきます」
「いただきます」
 真っ先にフォークを突き立てた蒸し鶏はしっとりとして柔らかく、ドレッシングの塩気でその美味しさがより引き立てられている。洗練と素朴の丁度いいあんばいの優しい味がした。
「美味い」
 素直にこぼれた感想は心からの言葉で、その感嘆はジェイドを満足させるのに十分だったらしい。
「口に合って何よりです」
「こんな店知ってるならもっと早くに教えてくれたって良かったのに」
「生憎、機会がなかったもので。それに自分のお気に入りほど人に言いふらしたくはないものでしょう」
 いつもは何でも見透かすような赤い瞳が緩んで柔らかくルークを見つめている。その視線と、返された言葉に自分は特別なのだと言われたような気がしてうまいいらえを返せない。もしもそうだったら嬉しいけれど、それを口にしてしまうのは自惚れのような気がして憚られる。
「そっか……教えてくれてありがとな」
 結局、当たり障りのない言葉しか返せない。対するジェイドは表情を変えることもなく涼しい顔をしてサラダを食べている。だから、もしかしたら本当にさっきの言葉は何の意図もなかったのかもしれないと思った。偶々今日一緒にルークがいたからつれて来ただけで、これがルークじゃなくても例えばガイやティアたちだったとしてもジェイドは自分のお気に入りですといってこの店に連れて来たのかもしれない。
 それは寂しいと小さな不満を胸に抱えながらも、それをジェイドに直接言えるわけもなくただ黙々とサラダを食べる。そうでなければ間が持たなかった。他愛ない話題を見つけられれば良かったのに、こういう時に限って上手くいかないのだからどうにもならない。
 それでもサラダを食べている内に新しい料理が次々と運ばれてきて、ちょっとだけ救われた気になった。
フリッターにキッシュにシチューが所狭しとテーブルの上に並べられ、サラダの時と同様にジェイドがそれらを取り分けながら昼間のことを訊いてきた。
「そういえば、軍の食堂はどうでしたか? 流石にここの店に比べれば劣りますが、兵士の間では結構評判はいいんです」
「そうなんだ。エビカレー食べてきたけど、確かに美味かった」
「ああ、それは運が良かったですね」
 普段ならあの時間だと売り切れていることの方が多いですから。
 その声が思いの外嬉しそうに聞こえたから、つられて嬉しくなるのだからルークは単純だ。自分でも分かっているけれど、だからといって簡単にそれを制御できたのならばきっと今頃ジェイドの一挙一動に一喜一憂したりなんてしないだろう。
 けれど、だからといってそれをジェイドに悟られたくはない。もっとも、ジェイドならばルークのそんな心中なんて全部お見通しかもしれないが、それでも取り繕うのは男としてのルークのささやかな意地でもあった。
 できうる限りに何でもないと装って、ジェイドの言葉から会話を繋ぐ。
「ジェイドもグランコクマにいるときは食堂で食べたりするのか?」
「ええ。いつもではありませんが、偶に食堂で食べることもありますよ」
 返ってきたジェイドの答えはごくごく普通のものにもかかわらず、それがジェイドというだけでどうしてか違和感しかないのだから不思議なものだ。
 自分から訊いたことのはずなのに、たくさんの兵士たちに紛れて食事を取るジェイドの姿が上手く思い浮かべられない。
 あのがらんとした食堂に兵士たちがひしめき合う昼間、トレーを持ってその中に紛れて並んだところでジェイドの青い軍服はきっととても目立つだろうし、くすんだ空色と砂色のマルクト軍の制服の中でグランコクマの海のように鮮やかなマリンブルーはあまりにも浮いている。
 何より、そんな人混みの中でジェイドが食事をとっているというのがどうにも想像できなかった。
「何か、食堂で飯食ってるジェイドって変な感じする」
「どういう意味かは聞かないでおきましょうか。まあ、人がいない頃合いを見計らって行くことが多いですが」
「そっか……」
「ええ、何と言っても“死霊使い”なもので。兵士たちに余計な気を遣われて食事というのも面倒ですし」
 さらりと答える言葉に偽りは見えない。ついでにその表情にも特段の変化はなくどこまでも涼しげだ。だからジェイドが今何を考えているのかルークには分からない。
 ジェイドが“死霊使い”としてキムラスカからどころかマルクト軍からも恐れられていることはルークも知っている。
 ルークの知っているジェイドは恐ろしいほどに冷静で、でも誰よりも正しく時々悪ふざけもするような人間だけれども、軍人として部下や兵士に指示を出すときのジェイドの冷酷なまでの声音も軍人としての厳しい振る舞いも確かにジェイドなのだろう。
 どちらが本当のジェイドかなんて考えるだけ無駄なことだ。どちらのジェイドも正しくジェイドで、けれど軍におけるジェイドは間違いなく後者であったし、ジェイドは自分が恐れられるように振る舞っている。それはルークでも分かることだった。
 皇帝の懐刀。ピオニー陛下の腹心であるのならば、そう易々と誰かにつけ込まれてはいけない。死霊使いの二つ名も、軍の中でさえ恐れられるその振る舞いも、きっとジェイドをぐるりと取り巻く武器なのだろう。
 ただ、それがルークにはさみしく感じられた。
 本当のジェイドは決して冷血漢ではないし、今日も仕事があったのにルークを邪険にはしなかったし、仕事を終えたらこうしてお気に入りの店にまでつれて来てくれた。だけどそれさえジェイドの全てではない。人はたくさんの側面を持っていて、その複雑さが難しく、その一面だけを見せつけるかのように振る舞うジェイドの頑なさがルークはさみしい。
 それを言ったところできっとジェイドにとっては余計なお世話だというのも分かっていたから、結局ルークは口を噤んで俯くことしかできなかった。ジェイドに対する反論はそれしか許されてはいなかった。
 きゅ、と強くフォークを握る。唇を噛みしめて、言葉を飲み込む。
 折角ジェイドがこうして付き合ってくれているのに、余計なことを言って空気を悪くすることは避けたかった。何か別の話題を探して、そのままこれまでの話は流してしまおう。そう考えるのに頭が上手く働かない。
 食べかけの料理が恨みがましくルークの視界を占領していて、こんな話がしたかったのではないとままならない自分を呪った。
「……ルーク」
 かちゃりと食器がこすれる音がして、それから名前を呼ばれる。
 その声に顔を上げずにいると、もう一度繰り返すように名前を呼ばれた。ルーク。
 自分を呼ぶジェイドの声が頼りなくて、つられるように顔を上げればジェイドが少しだけ困ったような顔をしていた。困らせたかった訳ではないのに。
「どうせあなたのことだからろくなことを考えてはいないのでしょう」
「そんなんじゃ……ない」
「私は自分がどんな風に人から見られているのか理解していますから、あなたが気にすることではありませんよ」
「そうじゃなくて! ……でも」
 ジェイドが良しとしているものにルークが口出しする権利はない。ジェイドがいいと言ったことを違うと否定はできない。だから返せる言葉は何もなく、結局これはルークの我が儘なのだということだけは理解した。
「いいんです、私は」
 誤解されても冷血漢とみられても、死霊使いと恐れられてもジェイドはそれでいいのだ。それでいいと決めたから、そういう風に振る舞える。見放されること嫌われること見限られることにおびえるルークとは違う。誰かに嫌われてもきっとジェイドはそれでいいというのだろう。自分のしたことを抱えて、そしりを受けるのは当然だという顔をして。
 だからもう、ルークはなにも言えなかった。ずっとずっと前からそうであると決めたジェイドに今更言えることなんて何もないのだ。
「でも俺は、ジェイドが好きだし……ジェイドが優しいって知ってるから」
 皮肉屋で、冷たいところもあるけれどそれだけではないことを知っているから。誰もが恐れる死霊使いに流れる血は確かに温かく、彼には彼の情があることを知っているから、それだけは分かってほしかった。
「ルーク」
 赤い瞳に複雑な色が混ざる。名を呼ぶ声はどこか寄る辺なく響き、同時に途方に暮れているようにも聞こえた。
 そんな声を出させたかったわけじゃない。そんな顔をさせたかったわけじゃない。でもジェイドをそうさせたのは他ならない自分だ。どうして上手くいかないのだろう。どうしてこんなにままならないのだろう。
 だから、それが聞こえた時、最初は聞き間違いだと思った。
「……ありがとうございます」
 囁くように微かな声で聞こえた言葉にぽかんと間抜けな顔をして、それからようやくその意味を理解した瞬間ぶわりと熱が上がったような気がした。
 だって、それはジェイドがルークの言葉を受け入れてくれたということだから。ルークがジェイドを好きなことも優しいと思っているということも、全部否定しないでくれたから。ただそれだけで嬉しかった。
「う、うん」
「おかしいですね、言われたのは私の方なのにどうしてあなたが赤くなるんです」
 くすくすと微かな笑い声と共に尋ねる言葉はもうすっかりいつものジェイドで、だからルークもいつも通りの態度を取る。そんなことはないと見栄を張って、それから止まっていた食事を促す。
 けれどもう、美味しかったはずのシチューもキッシュも何もかも、味なんて感じなかった。

 レストランを出た後、ルークを宿に送り届けてジェイドは再び自分の執務室へと戻ってきた。ルークの手前、あらかた急ぎの要件は処理したものの旅の間にたまった仕事は膨大で、正直やり残したものは少なくない。
 ジェイドが軍に戻ると言った時ルークは渋る態度を見せたが、忘れ物をとりに行くだけだと言えば存外すんなりと受け入れた。どうせジェイドは宿を取っていない、グランコクマにある自分の屋敷に帰ると言った以上、ルークがそれ以上ごねるのも難しかったというのもあるのだろうが。
「……さて」
 自分以外に誰もいない執務室で独りごちる。
 昼間はルークがいたからか、それとも今が夜だからかいつになく執務室が広く感じられるのはきっと気のせいだろう。
 椅子に腰掛け一番下の引き出しから残っていた書類の束を取り出して机に向かう。書類を読みながら訂正の必要な箇所や指摘すべきところにペンを入れ、黙々と仕事をこなしていった。
 そうして時計の長針が一回り半ほど進んだ頃、ふと視線をふと気配を感じて顔を上げればいつもの脱走路から丁度ピオニーが顔を出していた。
「……陛下、今が何時か分かっていますか」
「まあ、そんなに遅い時間でもないだろう」
 それよりどうしてここにいるんだ、折角休みをやったっていうのに。ルークとデートに行っていたんじゃないのか。
 一体どこからその情報を仕入れたというのか。ピオニーの情報網は時々侮れないことがある。内心眉をひそめながらもそれを表に出した日にはピオニーに面白がられることも分かっているので顔に出すような真似はしない。努めて冷静にジェイドは言葉を返す。
「子どもに夜更かしさせるほど悪い大人ではないのでもう宿に返しましたよ」
「それでお前は残業か。折角の誕生日だっていうのに寂しいものだな」
 呆れ半分の言葉に一体誰のせいだと言ってやりたいのは山々だが、それを言ったところで素直に聞き入れてくれる可愛げのある男であれば今頃ジェイドの机に書類が山積みにされていることはなかっただろう。
 だが、だからと言って言われっぱなしというのもジェイドの性に合わない。無駄だと分かっていても、一言言っておかねばならないこともある。そう思って口をジェイドが口を開くよりも早くピオニーは言葉を続けた。
「どうせルークには教えてやらなかったんだろう」
 少しばかり責めるような響きの籠もった言葉にジェイドは軽く肩を竦めた。
 誕生日なんて三十六にもなるような男が祝われて嬉しいものでもないし、子どもに余計な気を遣わせるのはジェイドの本意ではない。
「私ももう大人なので、誕生日を祝われて嬉しい歳でもありませんし」
 それでも口を滑らせたのはもしかしたらジェイド自身どこかで浮かれていたからなのかもしれない。
「それに、プレゼントは貰いましたから」
 そのジェイドの答えが余程意外だったのだろう。珍しくピオニーが空色の瞳を大きく見開いてジェイドを見つめていた。あまりにも素直な驚嘆の表情に、内心ジェイドも驚いた。
 この男のこんな顔を見たのはもしかしたら子どもの時以来だったかもしれない。
 幼い頃はジェイドのしていることを半ばわけが分からないという顔をして見ていたものだが、一体いつの間にその立場が逆転したのだろう。否や、ピオニーが突拍子もないことをするのも子どもの頃からだったはずだ。ならば存外何も変わってはいないのかもしれない。
「……そうか。じゃあ皇帝陛下からのプレゼントだ。その仕事は俺が代わってやる」
 だから書類を寄越せと言われ、思わず溜息を吐く。元々はあなたのやるべき仕事でしょうと呆れと共に手つかずの書類を差し出してピオニーにそれらを押しつけた。思いの外残っていた仕事の量が多かったのか、一瞬ピオニーが嫌そうな顔をしていたが、あえて見なかった振りをする。
「それでは部屋まで送りますよ。変な道を通って書類を汚されても困りますし」
「帰り道で俺が逃げないように見張る為だと正直に言ったらどうだ」
「そんなそんな、とんでもない。陛下のことは信頼していますから」
「全く心がこもっていないぞ」
「心から思っていますよ。この口調は生まれつきです。信じてもらえないなんて心外ですね」
 大げさに嘆いてみせるとピオニーが笑う。お前ほど堂々と大法螺を吹ける男もそうそういないだろうさ。
 他愛ない軽口をたたき合いながら、二人揃って執務室を出る。夜半にはまだ早い頃合いとはいえ、夜は夜だ。人気のない軍施設には皇帝陛下の夜歩きを咎める者はいなかった。